非非日常の中の「非非友達」

私は日常という言葉に、いい印象を受けない。この言葉は、言うまでもなく、宮台さんが90年代にその「世紀末」を意識して、形式化された命題だったわけだが、その「終わりなき日常」の特徴は、言わば逆説的に定義されるものであった。
大塚英志がいみじくも指摘したように、宮台さんのアイデアとは、完全自殺マニュアルだったと言っていいだろう。
つまり、彼のアイデアは、人々がこの日常のマンネリに耐えることを、たとえ
ドラッグに溺れようとも、
耐えろ、と説教をしたわけだ。なぜなら、それこそが、サカキバラ事件を回避し、オウム事件を回避し、この社会の保守を実現できる、具体的な方向だと考えたから、だろう。
彼は個人の没落は、この社会に保守に比べれば、事件ではないと考える。個人は勝手に死んだとしても、それによって日本が転覆するわけではない。だとするなら、日本を転覆に陥れるような、サカキバラ事件やオウム地下鉄サリン事件
阻止
こそ、国民の権利に「優先」して、目指される国家目標だと言ったのだろう。つまり、こういった「非日常」を否定するという、非非日常を、日常として、肯定したということになるだろう。
そこから、「まったり革命」という言葉につながる。まったり生きろ、というわけだが、これも保守の究極と言ってもいいだろう。言わば、自分の今ある生存条件の中に究極的に安住しろ、と言うわけだから(国民が国家に反抗しないでくれることが、国家の「存続」には、一番の処方箋だろう、国家存続を第一優先に考えるなら)。
言うまでもなく、ゼロ年代だとか、ラノベ的言説も、こういった「世紀末」以降にあきもせず続けられてきた、「世紀末の作法」だったわけで、そういう意味では江戸後期の退廃的(デガダンス)文化との比較には、多くの平行性を見出せるのかもしれない。
ラノベ生徒会の一存」は、この「まったり」を実際に形にしたもの、と言いたくすらなってしまう。驚くべきことに、この小説は、
ほぼ全て
の舞台は、この高校の生徒会室の中「だけ」で延々と進む。つまり、ほとんどそこから外に舞台が映らない。そしてこの部屋に来るメンバーも完全に決まっていて、それはまず変わらない。ずーっと、そもメンバーが、お菓子を食べながら、
だべってる
のを文字にしているだけなのだ(まあ、究極の「けいおん」という感じだろうか)。なにも起きない「日常」を、この決まったメンバーは毎日集まり、ただただ、ひたすら「だべる」。これを、主人公の杉崎は「美少女ハーレム」と呼ぶ。しかし、そのことは、この「日常」がたんに、簡単に(空想的に)構成されていることを意味するわけではない。

「......で、杉崎はまた生徒会室に残ってるんだ」
くりむは校門前で再び出会った生徒会メンバー達に向かって、苦笑した。彼女達もどこか優しげな顔をしながら、微笑んでいる。
深夏が肩をこきこきと鳴らした。
「まったく、だから対応に困るんだよな。あいつ。......あたし達と長時間駄弁るために、生徒会の雑務は自分一人全部片付けて、何事もなかったふうにするんだから......」

「ハーレムとか言うだけあって。彼は......私達の、大黒柱なのかもね」
「大黒柱?」
「そう。今更言うのもなんだけど、私達全員、どこかちょっとフクザツな過去あるみたいでしょう。傷痕、と言い換えてもいいかもしれないけれど」
知弦のその言葉に、くりむ、深夏、真冬の表情が曇る。確かに彼女らは、それぞれプライベートでちょっとした問題を抱えていた。お互いそれを話したことはないし、勿論杉崎鍵も詳しくは知らないはずだ。
生徒会の一存―碧陽学園生徒会議事録〈1〉 (富士見ファンタジア文庫)

主人公の杉崎を含めて、彼らはなんらかの過去のトラウマを生きている。つまり「非日常」を生きてきたから、
だからこそ、
彼らは日常を生きようとする(つまり、非「非日常」を)。その「日常」をなんとしてでも維持しようとする、その脅迫観念、彼らの
意志
がこの「秩序」の維持している...。
このように考えてきたとき、この空間に定位するそれぞれの、キャラ同士の関係をなんと定義したらいいのかさえ、分からなくなる。これを「友達」とあっさり言いきることさえ、どこか嘘くさく感じるわけである。
この、友達の逆説性をさらに、ネタ的にしたものとして、たとえば、ラノベ僕は友達が少ない」があるだろう。
ここにおいて、高校生の「隣人部」なる、いかにも宗教系の学校じゃないと、あまりにうさんくさすぎて認められないだろうという名前の部活に所属している部員たちは、どう見ても友達が、「少ない」んじゃなくて、
いない
のだ。というか、こういう人たちをいないと言ってきたはずだ。しかし、そうだとするとその「隣人部」のメンバー同士はどうなのか。
彼らは、たしかに仲が悪い。いや。たんに仲が悪いということではなく、彼ら同士が同じ部に所属していながら、仲が良くなければ「ならない」という前提がない。彼らの活動は、
将来
において、もしも自分に友達ができ「た」ときに、どう振る舞うか分からなくて困らないように、今のうちに一般に友達と言われている人たちが行っている「行事」を「練習」しておこうと集まった、いわば
目的志向集団
と言っていいだろう。
???
それって、友達って言うんじゃない?
この背理について少し、周辺の社会制度からまず考えておこう。現代の日本社会は、基本的にイエ制度をベースに構築されている。さまざまな個人の困難は、
イエ
が解決すべき、と考えられる。それがだめなら、親戚に頼り、それでもだめなら、友達を頼り、それでもだめなら、会社関係の人を頼り、それでもダメな人だったら、ようやく国家がなにかをしようと考える。
この制度を一言で言えば、「連帯保証人制度」だろう。日本では、あらゆることが連帯保障を求められる。しかしこれは変だろう。自分がやりたいことと他人は関係ない。それが、たとえ家族や友人だったとしてもだ。
つまり、国家は、自らが生き延びるために、各個人の「共同体」を利用する。こういった、国家と本来はなんの関係もないはずの、人間関係に国家はさまざまに介入し、個人の
リスク
を共同体にヘッジさせようとする。個人の没落は直接的に共同体の没落と直結する。なぜなら、国家は国民に興味がないからだ。彼らには、そういった個々人の
差異
に興味をもたない。結果として、自らの生存のためなら、個人の没落はむしろ、求めるべき結果なのだ。そして、その個人の没落に、その個人が所属する共同体がなんの
論理的
な意味もなく、まきこまれ、その共同体ごと没落したとても、国家は興味をもたない。
しかし、どうだろう。本当にそんな社会を私たちは受け入れられるだろうか。つまり、こういう考えは、究極的に
個人
を認めないと言っているのと違わないだろう。各個人はもしそれが自分の責任なら、引き受けようと思うだろう。ところが、こういった共同体の連帯責任を認めるなら、自分が悪くなくても、自分になんの関係がないことにまで、自分がまきこまれてしまう(近年非常に評判の悪い検察制度がその典型だろう。彼らの考えていることは、社会秩序でしかなく、その秩序を維持するためなら、各個人が不当に死刑になることさえ厭わない。つまり、結果として、国民の溜飲が下がり、社会秩序の危機が回避されるなら、一人や二人の人生を破壊したところで、なんの痛みも感じない)。まきこまれたら最後だと言っているのだ(つまり、国家の天災化)。
これが日本である。
では、逆に問うてみよう。こんな日本に住んでいる我々は、どのような行動をとるだろう。もちろん、こういった
国家の罠
にとらわれないように、生きるしかないだろう。だって、自分に関係ないことで、どうして自分の方向を変えられなければならないのだ。そんなことをされるくらいなら、
共同体
などない方がいい、と考えるだろう。
こういった方向で考えたとき、上記の友達論は一つの結論に至る。つまり、
友達の不可能性
について。しかし、不可能ということは、そういう現象が起きない、ということを意味しない。上記のラノベが、一方において、その「隣人部」を、この部の部員たちで友達になろう、という部ではなく、将来自分に友達ができた場合の、
練習
の場となっていることは、このことをよくあらわしている。実際、この部に入ってくる学生たちは、まさに「キャラが立っている」。ということはどいういうことか。彼らはお互いがお互いを
友達
ではないのか、と意識し始めれば始めるほどに、その不可能性に直面する。つまり、このエネルギーを前に進めることは、友達への方向ではない。だからこそ、彼らの存在は極限まで
漫画化
する。その方向は、キャラ化という空想的でありながら、やたらとリアリティに満ちた、「変わった」なにかに向かっていく。
彼らの一つ一つの行動は、おおげさかつ、無意味にパフォーマティブになり、その行動はなんらかのイコン(暗号)的なメッセージを強烈に帯びる。
マンガ的個性は、まさに「そうならないわけにはいかない」という意味で、現実性をおびる。
(この行き場のない、袋小路の過剰適応は、一つのラベリングと言えるだろう。)
しかし、そういった彼らの「キャラ立ち」を実現している条件とはなんなんだろう。それこそ、生徒会室や部室といった、アジール空間と考えられるだろう。そういった閉鎖的な空間が、

と遮断することによって、ある種の「抽象的」な人間関係を可能にする。限られた人数は、彼らの相互の性格を十分にこの空間の特徴を定義するのに、大きな役割を演じる。つまり、彼ら一人一人は、とりかえ不可能な
かけがえのない
存在として、その空間の「空気」を形成していくことになる。
では、改めて問おう。

  • 非「非友達」=友達

はでは友達でないのか? しかし、そういう意味では、友達とは、友達ではない。つまり、その関係が何年も続いている、ということはあったとしても、きっかけは、あるゲーム機でゲームがしたかったけど、もってるのが一人しかいなかったので、そいつから借りてたら、
そういう関係
が、今に至るまで延々と続いてる、といったようなものだろう。つまり、友達ではなく、「関係」なのだ。
しかし、私たちはどうしても「友達」という表象にこだわり続けるようだ(それが「青春」なのか...)。

「そういえばあれはやらないんですか?」
歩きながら海を見て理科が言った。
「あれ?」
「なんかみんなでポーズ取りながら海に向かって『海だーっ!』って叫ぶという羞恥プレイのことです」
「羞恥プレイとか言うな」
ジト目でツッコむ俺。
「そういえば『もふ? モフ!』でもみんなで海に行ったときにそれやってたわね。『海だーっ!』って叫ぶやつ......」
星奈が何かを期待するような声で言った。
「......あれか......私も漫画などで見たことはあるが......あれは一体なんなのだ? リア充の儀式かなにかか?」
不可解そうに夜空。
リア充になれば理解できるのかもしれませんね」と理科。
「じゃ、よくわかんないけど、やっとく? 練習しとく?」
「そうだな。将来友達と海に来る機会があったときに、ちゃんと叫んだりポーズをとったりできないと困るからな」

僕は友達が少ない 3 (MF文庫J)

僕は友達が少ない 3 (MF文庫J)

そういう意味では、私たちは死ぬまで、
もし友達ができたとき困らないために、恥かしくならないために、
「隣人部」という「友達」を作り続け、練習し続けるのだろう(それがなにかを「定義」することもなく)。最初に言ったように、非非日常は、最初からこういった「メタ」なコミュニケーションについてのコミュニケーションについての話だったわけで...。