非人間性の人間性

ここで、あらためて、

少女不十分 (講談社ノベルス)

少女不十分 (講談社ノベルス)

について考えてみたい。よく考えるとこの小説は変だ。それは言うまでもない。
ただ、一つだけはっきりしていることは、少女Uの両親がなぜか死んでいて、少女はこの事態について
考えた
ということだろう。少女とその友達が通りを渡るとき、交通事故でその友達の方が車にひかれて、死ぬ場面を、たまたま、主人公は居合わせたことを、少女はなんらかの
因縁
と考える。それを彼女は「見られたから」と、なぜ少女がその主人公を
監禁
するのかの理由とする。つまり「見られた」ことを他人に言われないために、その主人公を「飼う」ことが必要だと
考えた
というわけなのだが(作品の中で、以前に猫を飼っていた時期があるのと、日頃のDVとの関係が、こういった発想の発信源と、一応は考えられるだろうか)。
しかし、思うわけである。
少女は、自分の今後を考えたはずだ。そこから、自分には「大人」が「必要」だと。大事なことは、そこなのではないだろうか。子供は大人を必要とする。その方法が
飼う
というエキセントリックになったことには、この少女のある範囲の「異常」さを指摘できるだろうが、しかしそういった判断はどこか不公平ではないか。なぜなら、私たち大人はもう子供ではないのだから。
大人になった側から、子供とはどうこうだ、と言うことは易しい。しかし、それが「正しい」ということは何を言ったことになるのか。しょせん、もう子供ではない大人が子供を定義してみたところで、それが、その大人が子供だった時に、意味をもつ命題であるかは、うさんくさいものなのだ。
たとえば、以下のような思考実験をしてみよう。もし、ある日、お父さんとお母さんが急死して、そのことに、近所の大人たちが誰も気付いていないとする。そうした場合に、子供はどう振る舞うだろう。もちろん、子供が警察を知っていれば警察に行くのかもしれない。親戚を知っていれば、なんとかそこに連絡をとろうとするかもしれない。また、友達に相談しようと思うかもしれない。しかし、
そうでないかもしれない
とは思わないだろうか。ある場合なら、徹底して一人で生きて行こうとしたとしても、どうして不思議なことがあるだろう。つまり、こういったことは限りなく文脈依存であることを自覚せざるをえない。そう考えるなら、その子供が
どんな行動をとったとしても
どうしてその子供を責める気持ちになれるだろうか(これは、大人の側からの、子供という存在の「想像力」の問題である)。
そういう意味では、その後の展開は、とても、主人公の「温かさ」が感じられる展開だった。主人公は、そもそも、人間関係が「できない」人間だったはずだ(つまり、私たちがよく知っている大学によくいる「だめ」な人間ということである。大学という所は、そもそも若者の「精神」を徹底して、堕落させる。だって、やることがないのだ。また、やっていることが将来お金になると、どう考えても思えないことを、いい大人がのめり込むことを強いられる場所なのだから。このモラトリアムの時間は、まったく
無駄
であるだけでなく、本質的に若者の精神を蝕む)。それだからこそ、こういった子供が「礼儀正しい」ことに、「感動」したはずなのだ。
大事なことは、子供の側が、こういった「礼儀」が、大人と「うまく」関係を構築するのに必要十分だと「思っている」ことだ。
しかし、私たち大人は、それが「嘘」であることを知っている。
大人は、そもそも「子供」であり、礼儀知らずだ。大人とは、子供が思っているほど、礼儀を守らないし、そもそもこんなものを
信じていない。
ところが、子供はその大人に「礼儀を守れ」としつけられる。ということは、このことは、子供にとって、それが大人との
ネットワークの入口
だと受け取るのだ。ところが、考えてみると、大人とは大人同士で、礼を交わさない。そもそも、大人は
仲が悪い
ものであって、そのことは「しつけられる側」の子供には、理解できないものなのだろう。
ところが、である。
このことを逆から考えてみよう。子供がこういった「礼」を尽した態度を自分という大人に向けて、行われたとき、大人はどう思うだろうか。
これは 、本来、大人である自分が「したかった」ことではないのか。
大人は、前にも言ったように、本来「孤独」なのだ。本当は、友達になりたいのだ。そう思っているが、さまざまな「軋轢」を考えて、前に進めない。いや、進めないのではなくて、
機会
がないのだ。自分を前に進ませるトリガーを見つけられない。
だからこそ、こういった「子供」の、ずんずんと大人の「中」に入ってくるような、礼儀に「魅了」されるのだろう。
本来、大人は子供と関係をもちたいと思っている。
しかし、多くの場合、そういった機会はないし、そもそも、頼られることがない(その役割は、普通は、父親か母親だから)。
この作品を読むと、明らかに、その主人公の、この小学生への「慈愛」が時間が進めば進むほど深まっていることが分かる(その主人公は、明らかに、自ら「進んで」その子供に、
あいさつ
を返すことに快楽を感じている)。
言ってしまえば、大人なんて、そう簡単に死なないし、ある意味大人の人生など、ほとんど決まっていて、あまり未来に、たいしたことは起きない。
そういった、達観してしまっている大人たちの側にとって、子供は、あまりにも弱々しく、心もまったく、かっちりしていない。それだけに、上記のような
礼儀
が、強烈に自分の「意味」を意識させるのではないだろうか。
大人は、子供がそれを「信じている」ことを知っている。「だから」感動するのである。つまり、その子供の望みを「かなえる」ことができる。
よく言われるように、大人同士で「恋愛」は成立しない。なぜなら、大人になるということが、あらゆることが「打算的」になることを意味していることを、知っているからである。大人は大人であるがゆえに、感動することができない。大人は大人であるがゆえに、あらゆることが計算されたなにかであることを、嫌でも知ってしまっているから。
だからこそ、子供はその「存在」がそもそも逆説なのだ。

「ごちそうさまでした」
食事を終えて、Uはそう言った。
「おいしかったです」
その言葉に、どうしてか胸が傷んだ。当たり前のことをしてお礼を言われるのは、とても切ないことなのかもしれないと、そんな風に思った。
少女不十分 (講談社ノベルス)

そのときである。
自分の身体を洗うことに夢中になってまったく気付かなかった洗面所に来ていたらしいUが、そのままバスルームに這入ってきたのだった。
Uが僕に風呂を勧めるときに言った、『先にお風呂に這入ってもらえませんか』というのが、『先に』というのが、そういう意味だったと知ったが、つまり宿題を終えたから自分も行くという意味だったと知ったが、そんなのは後の祭りもいいところだ。
いやそれはもちろん、小学四年生にとっては、一緒にご飯を食べるのと、一緒に風呂に這入るというのは、同じことだという意味合いなのであり、そこで変に過剰に反応することのほうが男性としての評判を大いに下げそうだが、無防備とか天真爛漫とか、そういうような話でさえない当たり前のことなのだろうけれど、しかし年齢に関係なく、血縁関係にない女子がすっぱだかで表れたという状況は、なかなかに鬼気迫るものがあった。
少女不十分 (講談社ノベルス)

子供は、未熟である。完成していない。言わば滅茶苦茶であるのだが、それは、まったく何も出来ないことを意味しない。あることは、
きっちり
できるのだ。だからこそ、大人は子供に感動する。
なぜ、子供が「そう」するのかも知らずに...。