普通のデモ=政治

私たちは、よく国会や官僚がやっていることが
政治
だと思っている。というか、思い込まされてきた。つまり、私たち以外にこの国にはこの国を、だれに頼まれるでもなく進んで、この国を良くしようとしてくれている人たちというものがいるらしく、彼らの日々の努力によって自分たちは「安心」して日々を送れる、という。むしろ、私たちはそういう人たちに日々感謝する努力が足りないんじゃないか、というわけだ。
つまり、一種のエリート主義的な感覚である。明治以降の教育制度の発展は、生徒たちの中において、テストの点数の上の人には、ある種のエリート意識が醸成される構造になっている。

  • 成績が良くなる --> 国や学校から、さまざまな恩恵を受ける --> (その贈与に対して)国や学校に期待されると思い、よりがんばる --> ...

期待されるのは、本来はたんなる、制度上の「しきたり」のようなものだが、受ける側にとっては、自分が「特別」な存在になる瞬間である。なんらかの
恩返し
をしたいと思うのは人情だろう。そこから、さまざまな直接、国家の運営に関わる仕事(つまり、公務員)につくことを目指すようになる。
(しかしそのことと、一部のエリートが在野で活動することは矛盾していない。彼らの活動は「公的」であることが意味があるのだから、例えば、政府のさまざまな委員会に、民間から参加して、さまざまに貢献するという方向もある。)
もちろん、こうやって誰かに尽したいという、その奉公精神は近年の若者にはない、見上げた志しなのかもしれないが、このことがある意味の反転を起こしたとき、始末に終えなくなる。自分がエリートとして、かけがえのない存在なら、その他多数の大衆とは、なにも知らない、なにも分かってない無知な、常に間違ったことばかり言って「しまって」、社会を転覆させる秩序破壊者でしかないことになる。
エリートは、今の秩序に「自分が必要」と考える。そういった自分の価値にいつまでも気付かない大衆は、百害あって一利なし、となる。
つまり、エリートにとって、この世の中に必要なのは、自分たちエリート「だけ」ということになる。というか、それが別に大衆は不要ということではない。ある程度のボリュームのある人口が国家維持に必要だとは思っているのだが、そうだとしても「一人一人」の大衆は、「どうでもいい」と思っている。エリート一人一人が国家と並ぶくらいに重要だとしても、大衆一人一人なんて、虫ケラ同然。代わりはいくらでもいる。大衆一人一人と国家の
価値
など比べるべくもなく、国家の方が重要と考えるなら、あらゆる優先順位において、国家を国民に優先するようになる。しまいには、大衆とは「だだをこねる」幼児と考え始める。大衆が何かを言うということ自体が許せなくなる。

  • 国家に向かって、こんな口ごたえをするなんて、なんて生意気なんだ。

大衆の幼稚さにコントラストして、国家の「奥深さ」を発見する。こんな幼稚なことを国家がするはずがない。政府や東電が国民をだましたはずがない。彼らはあまりに忙しくて手が回らなかっただけだ(それを手伝わない国民が悪いにきまってる)。あんなに国のために一生懸命働いてくれている人たちに、くれくれの大衆の方が一理あるなんてことがあるはずがない。いや、あってたまるものか。

  • ボクのアイドル「国家」

中世の魔女狩りのように、国家に逆らうなど、悪魔の手先の魔女に決まってる、となるわけだ。
全共闘以降、日本は経済発展と共に、自民党一党独裁体制の完成、国家の保守化の一途を辿ってきたと言えるだろう。国民における、経済的な余裕は、そういった帰結に導いた、国家運営への非介入を甘受する形となっていく。
ある意味、このことは分かりやすい。それまでの日本は、ただただ貧しかった。だったら、とにかく食べものを口に入れられるだけで、ほかに人生に求めるものなどありうるのか。とにかく大衆は食えているなら、
なにも言わない
わけだ。しかし、そういった大衆の態度が、いつの間にかの、原発50基超えを許すことになる。しかし、原発とはそういった国民の政治態度の一つの例にすぎない。
全共闘運動の、学生を中心とした、暴力に訴える運動形態は、その後の日本の経済発展を
妨害
する存在として定位されていく。大衆は今の経済発展を破壊されたくない。全共闘のような闘争は、その
幼児性
にこそ、その本質があると、凡庸な御用学者たちによって主張され、彼ら転向左翼は権力にこびることこそが「大人」になることだ、と主張し始める。
宮台さんとは、こういった転向左翼の一人と考えることができ、彼の日常論も、こういった議論の延長で生まれたと言える。
(というか、311以前の言論人はすべからく保守だったと言っていいだろう、彼らのリベラルなパフォーマンスはこういった保守的な
全共闘的左翼否定
をベースとした国家運営を提言する人たちの議論であり、必然的に左翼を否定するところから始まる。その上で「リベラル」という名の保守を、「左翼的理念を除去」した上で、作ろうとする人たちでしかなかった...。)
経済的な裕福さは、あらゆることに優先する。もし、これが実現できるのなら、多くの人たちは、何も言わない。これさえ実現できれば、あとの大抵のことは、瑣末な問題にすぎないから。しかし、これは逆に言うなら、経済的に発展している社会は、必然的に、保守化の方向を強めてしまうことを意味するだろう。
これだけ長く続いた、日本の保守化は、日本のさまざまなシステムを、融通の利かない、ガチガチの利害で動かなくなった社会にしてしまう。
しかし、これをそれぞれの人々の立場で考えるなら、一人一人はどう振る舞うことが「賢い」選択となるあろうか。当然、郷に入りては郷に従え、だ。国民は卑屈なまでに、保守化する。保守におもねり、自分の食い扶持とする。その典型が、
原発というボロネオの環
であったわけだろう。あらゆる日本文化は、たった一言
原発賛成
の文字をキャンバスの隅に書くことで、膨大な金額を恵んでもらえる。まさに、
ドラッグ
であり、国民はまるで国家を歌うように、原発賛成を歌い、ヒトラーを礼賛するように、原発安全を復唱する。すべての道はローマへ通じるではなく、すべての道は原発推進に通じる。まさに、原発という「錬金術」が戦後自民党政治を支える。
しかしそれは、
311
までの世界である。ここから日本は変わる。というか変わらざるをえなくなる。
まず、日本そのものの冷戦内における、戦後の特権的地位がどんどん失われる。今では、インドだろうと中国だろうと韓国だろうと
儲かればいい
という時代になった。彼らの商魂逞しいハングリーな戦略は言わば国内の貧困層を貧困ゆえに徹底して底辺で使い尽すビジネス戦略と言えるだろう(そしてそれは、発展途上国ゆえの、国内法整備の遅れをうまく使った戦術と言える)。ところは、日本はあまりにも「先進国」然となってしまったため、国内にそういった福祉の治外法権が存在しえない。つまり、日本はあまりに「完成」してしまっている。つまり、あまりに「いい国」にしてしまったがために、必然的に日本の労働者は単価ばかりが高い、国際競争力のない存在となってしまっただけでなく、さまざまな公共財がやたらと高価になってしまい、膨大な税金を国民は毎年納めなければ、このばかでかい
図体
を維持できなくなってしまっている。
つまり、必然的に日本のプレステージは失われ、未来予想図は、暗いものとなる。一日一日、日本は仕事がない、お金が海外から入ってこない、厳しい未来を国民が皮膚感覚とするようになる。
つまり、311によって、日本の保守化の時代は終焉を迎える。日本が貧しくなるのと同時に、日本国内にはさまざまな矛盾が露出してくる。一方において、一般大衆は、今の税の体系はまだまだ逆進性が高いと感じ、お金のない家庭から取りすぎと思うだろう。他方、エリートたちお金持ちは、他国の例をだして、逆にもっと日本は金持ち優遇をしなければならないと言い始める。むしろそのことが、日本の競争力を落とすことになっている、と。
しかし、そういったことは全て、国会や地方議会の政策決定機関が決めていることであって、私たちには、いつのまにか自分が取られる税金の金額が決定している、という感覚になる。
311以降、日本のGDPが上がらないということは、国内の
パイ
を国民みんなで分けあって生きることを意味する。つまり、みんなうぃんうぃんと「勝手に」ならない。つまり、経済成長が勝手に「だれも」の収入を日々上げていくことで、「昨日より今日の方がいい生活になった」という生活の向上を感じられなくなる。どこかで、それなりに、バランスよく国民内で「配分」しないと、へたをすると、国民の半分が「下がってる」なんていう未来も見えてくる(まさに、絶望の国だ)。
つまり、国民は今の生活を維持したいのなら、それなりに「主張」をしなければ、実現しなくなる。つまり、「政治的」に行動をしなければ、下がっていく一方ということさえ考えられる。
自分がこういったサービスを国からもらいたい、と思うなら、まずそれを主張して、国なり日本中の人に分かってもらわなければ、まず、始まらないだろう。
では、どういった「パフォーマンス」が考えられるか。
いや。
そうじゃない。
基本的に日本は、国民主権の国であり、国民一人一人が「やってはならない」ことなどあるわけがない。なにをやってもいい(つまり、一人の国民の行動として、これをやってはならない、というものなど「ない」という意味で)ということが、主体ということの意味のはずだ。
ここで、もう一度、全共闘運動に戻ってくる。
311以前の言論人の、左翼否定パフォーマンスは、つまり、あの全共闘的な大学を隔離しての、暴力的お祭を否定したわけだ。しかし、その否定した理屈はなんだったのだろう。つまり、そういった行動は
恥ずかしい
からじゃないのか。恥ずかしいから、かっこ悪いから、もうそういう時代じゃないから、ファッションとして選択しない、というくらいの意味しかないんじゃないだろうか。
もちろん、歴史的な運動としての全共闘運動の「幼児性」を指摘することはそれは事実としてそうだったのだろう(実際、火炎瓶などの暴力闘争は、たしかにベトナム戦争などとのアナロジーから、そんなことを言っている場合じゃない、という感覚があったとしても、普通に考えれば、さまざまな物的損害をもたらすわけで、幼稚な行動と言われてもしょうがないだろう...)。しかし、過去がそうだったから、ということが、未来において、
否定(左翼否定、全共闘否定)
でしかないというのは、あまり弁証法的じゃない。つまり、もし「必要」なら、今度は大人のデモをすればいいのである。
なにか言いたいことがあるんだろ?
だったら、デモでしょ?
言いたいことを言って歩き回るんじゃないんですか?
そうしないと、「自分の言いたいこと」を聞いてくれる、「他人」に出会わないでしょ?
そもそも、全共闘以降の言論人は、デモをやったことない。デモ童貞、デモ処女であり、だから、デモというのがどういうものかを知らない。知らないから、なんとなく「恐い」。だから、できるだけ、さまざまな問題を他の手段で解決できないか、と考えてしまう。そもそも、
集団行動
の問題をほとんど考えていない。こういったことが、自分の喫緊の課題だと思ったことがない。
国民の行動としては、これに尽きると言えるだろうが、では、物を考える人たちにとっては、これだけでは終わらない。そのことが成立しうる
条件
は何かと問う「義務」があるだろう。いったい、どういった条件が整っていれば、国民は気軽にデモができるだろう。デモが国民の「権利」ならば、そのデモをやりにくくしている、さまざまな「圧力」を排除することは、
なによりも重要
なことにならないだろうか。これが、この前の外国人報道協会での柄谷さんの発言の意味だろう。
政治とは「私の意志」で国家の行動を決める運動のことと考えるなら、国民は自分の行動で国家の行動を「制御」しなければならない。つまり、必然的に国民による、国家への、さまざまな働きかけが「起きる」のである。どっかのエリートが勝手に「よくなるようにしてくれる」というのは、経済成長時代の幻想であり、その「効率性」はたんなる差別増幅装置でしかなくなる。つまり、国民は面倒だろうが嫌だろうが、自分の権利を主張するために立ち上がらざるをえないのだ。
では、どんな条件が整うことが、国民の政治参加、つまり、デモを実現するだろう。まずもってダメなのは、デモを国家が大量のカメラをもってきて、映像を撮影していることだろう。つまり、デモに参加している人たちを徹底して特定して、彼らの個人情報を国家が収拾していることは、国民がデモに参加しやすい環境にする、という「当然の権利」に反する行動となる。即刻、やめさせなければならない。
次に、デモを警察がとりかこみ、たいしたいざこざがあったわけでもないのに、
不当に逮捕
するような行動は、「絶対」に許してはならない。こういった全共闘時代の悪習を続ける限り、国民がデモに参加しやすい雰囲気を醸成することはできない。極力、警察権力によるデモへの介入を許してはならない。
また、警察による、不当なデモ行動の動きの制限も許してはならない。もちろん、私たちのデモがさまざまな交通に迷惑にならないように行動することは必要であるがそれは、警察などの国家の「意志」によってコントロールされるものではない。もちろん、なんらかの交通整理は必要だったとしても、基本的にはその行動は「自由」なはずだ。いや、「自由」を勝ち取らなければならない。
そうでなければ、私たちはいつまでたっても、デモを気楽にできないだろう...。
しかし、今回言いたかったことは、そういうことではない。個々具体的な問題、たとえば、原発をどうするかとか、放射能の人体への影響とどうみつもるかとか、デモに参加すべきかとか、そういった問題はそれぞれに大切であるだろうが、こういった個別の問題は一部識者も言うように、それなりに専門的な研究によって、ある程度の風景が見えてくるところもあるので、大いに議論のある問題だろうが、そういったことではない。思想というのは、そういったものの「前提」になっている条件を考えることなのだろう。
(確かに自分の権利の侵害を考える(そのリベラルな条件を考える)ことは、実感であるという意味では、考えやすいのだろうが、そういうことなら、別に思想家である必要はない。だって、自分のことなら、みんな自分で考えて「ないものねだり」をしているわけで、つまり普通の「クレーム」なんでしょ。私が言っているのは、自分を少し離れた対象を含めて、この社会がうまく回る前提を考えることであって、つまりは「左翼」的ということになる...。)
たとえば、どんな条件があれば、もっと日本人はデモをやりやすくなるだろう。デモなりなんなりの国民の意志表示が必要なことだと考えるなら、こういった条件を考える人たちが、思想家と呼ぶにふさわしいのではないか。どのような条件によって、対話は成立するのか、どのような条件が大衆運動を、その本来の意味において機能させるのか...。