福島第一原発の事故を契機にして、日本社会の
ガン
があぶりだされた。
つまり、「原発賛成派」という、とてつもなく、やっかいな「ガン」。
原発が日本を二分する。原発こそが、踏み絵。敵と味方を分ける、橋頭堡になる。
私は、福島第一原発の事故から、貨幣に対して、疑問をもつようになってきた。
どうして、貨幣を使わなければならないのか。
その問いは、どうして「原発を推進している奴ら」と同じ共同体を生きなければならないのか、という憤りと言ってもいいかもしれない。
私が、ある日、原発で生み出されたエネルギーを使いたくない、と考えたとき、そもそもそれをさせない、現行法が「存在する」ことが、大きな壁であることに気付く。どこかのだれかが、私に原発で生み出されるエネルギーを使うことを「強制」している。それ以外のエネルギーを「選んで」使うことを邪魔している。
だれかが、私を「強制」している。私は抗議し、今ここにある、強制から
自由
になることを要求する。私は、今、原発に賛成する全ての人たちとの、付き合いを拒否する。私は彼らと同じ空気を吸うこと、同じ人間と分類されることを拒否する。
私は、今、原発を推進する人たちが売ろうとする商品の一切に対して、
不買運動
を呼び掛ける。彼らが「あなたのためだから」と指し出すサービスの一切の受け取りを拒否する。
そのように考えてきたとき、そもそも貨幣の「普遍性」が、私にはうさんくさく思えるようになってきた。
結局、なぜ、こういった連中が「つけあがる」のかと言えば、彼らが、お金さえもっていれば、他人を「支配」できると思っているからである。
資本主義は自由と、その結果としての効率性と安定性の間の二律背反を常に抱えているというのが私の理論的な立場といえるでしょう。現在の経済学の多数派である新古典派経済学では、資本守備を支える市場経済は、純粋化すればするほど、効率性も安定性も増してゆくと考えます。逆に言えば、なにか経済がうまくゆかず効率性と安定性がうまく実現しないとすれば、それは取り除くべき不純物が市場に含まれているからだと考える。一九八〇年代から始まり、現在進行しているグローバル化は、まさに世界規模でのその純粋化の実験を進めていると考えらまれます。市場経済を邪魔する夾雑物が少しでもあると、貿易や資本の自由化によってそれを排除してゆく。そうやって世界中をより純粋な市場で覆い尽くす。その結果、新古典派経済学の理想の市場が出現するはずです。そこえは神の見えざる手が働き、効率性も安定性も備えたような市場が成立する。
しかし私が新古典派経済学を批判するのは、それが貨幣を絶対に必要としている経済であることを忘却しているからです。貨幣を使わない経済とはどのようなものか。マルセル・モースのいう互酬性にもとづく贈与論の世界ですが、大澤さんがナシを持っていたとし、私がリンゴを持っていたとする。私は大澤さんの持っているリンゴが食べたい、けれども、私が持っているリンゴを大澤さんが欲しいと思わない限り、そこでは交換が成立しない。ここには無駄、経済的な非効率があります。これでは経済は発展してゆかない。しかしそこに貨幣がありさえすれば、貨幣を仲立ちとして受け取ればいいわけです。私と大澤さんの間で「欲求の二重の一致」が起きる必要はなく、貨幣の存在が飛躍的な経済発展を可能にする。貨幣が自由にするものはそれだけではありません。貨幣は、いますぐそれを使わない自由も与えてくれる。私は大澤さんにモノを売っても、すぐにモノを買わなくてもいい。交換の時間も場所も自由になる。物々交換や贈与交換では相手が信用できる人物かどうかが問われますが、貨幣があれば、それさえ受け取ってくれれば、相手の人種も身分も性差も信頼性も問わない。マルクスは貨幣は平等主義者だ、といっています。貨幣を持っている限り、人間は「貨幣を所有している人間」という普遍的な存在になる。もちろん、持っている貨幣の多寡によって不平等は生じますが、それはあくまで不平等であって本質的な差別ではない。「貨幣を受け取ってくれない人間」こそがまさしく異質な人間であるわけです。そういう意味で貨幣は人間に自由を与える。
さらにいえば貨幣が可能にする交換の自由こそが、資本主義を必然的に不安定にしてしまう。貨幣を使わない自由をみんなが同時に行使するとどうなるか。貨幣の持つ唯一の力は、他のものを買う手段だということです。貨幣を使わないということは、モノを買わないことです。だれもが貨幣の力を使わない自由を行使すると、結局モノに対する需要がなくなる。それが不況です。不況がさらに悪化すれば恐慌になる。逆に、人々が貨幣を使う自由を同時に行使すると、今度はインフレになる。貨幣は一方で自由と効率をもたらしますが、必然的に不安定性を生み出す。常に経済を危機に陥しれる可能性を持っている。だが、貨幣を無くせば、世の中はうんと安定しますが、効率性は失われる。従来の経済学はこの二律背反をまったく無視してきたというのが私の主張です。
(岩井克人「資本主義は人類最期の選択肢か?」)
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私はこういった「普遍性」は、非倫理的だと思う。私は、原発推進の思想をもっている人が、「お金をあげる」という彼らの「慈善事業」を受けることを、断固拒否する。そのためには、
彼らの施しを受けない「ため」の貨幣
が求められてはいないか?
こういった「貨幣」普遍主義者は言う。お金があれば、だれだって、最後は、他人を思うがままに変えることができる、と。お金は普遍的なんだから、どんな鬼畜の所業によって集めたものでも、結局最後は、だれでもそれを欲しがる、と。
つまり、お金は、神の御技(みな)を通した、供物(くもつ)。鬼畜たちが、人々をどん底の奈落に突き落とした、汚れた手も、お金という、
濾過装置
をひとたび、くぐり抜けさせれば、その汚れた手の平も、清められ、だれもそれが鬼畜の所業を繰り返した「手」であることを忘れる、と。
しかし、なぜそれを受け入れなければならないのか。
ひとたび電気になってしまえば、それが原発によって生み出されたものなのか、それ以外からのものなのかは、「ちゃんぽん」され区別がつかなくなる(同じように、原発が生み出した放射性物質は、今。必死になって、海に捨てている。海に捨てることによって、海水の
拡散
能力を使って、不浄な物質の濃度を下げられる、と。そうやって、現代という工業最優先の「汚染社会」は進行を止めることはない...)。自分は原発によって生み出された電気を使いたくない。しかし、国家は「ちゃんぽん」を「強制」する。ならば、
どうするか。
こういった場合、二つの方向が検討されうる。
- 国家を変える。
- 国家を変えなくても、上記の主旨が実現できる「からくり」をつくる。
近年のネット「社交界」主義者たちは、基本的に前者になるだろう。ようするに、嫌なら自分で社会を変えろ、と。
自分で動いて社会を変えることをせず、ネット上で自分の不満ばかりを吐き出している人々を、こういった連中は、どうも気に入らないらしく、自分が考える理想のネット住民ではないらしく、
説教
がしたいのらしい。または、こういった「堕落」したネット住民に、彼らが理想とするようなネット住民と同じ「市民権」が与えられていることが、許せないらしい。つまり、
差別
が必要だと言っているのだろう。一種の道徳的「排外主義」だと言えるだろう。
こちらの説教の特徴は、つまり、
自己責任論
だということである。あらゆることは、そもそもはお前の行動の責任なんだから、他人にそれを押し付けることは、ネット住民の真の姿ではない、と。原発にしたって、311以前に、お前が一度でも反対の行動をしたことがあるのか、と。今まで反対の「行動」をしたことがなくて、今ごろ、それを
他人が悪い
というのは、都合がよすぎる、と。もし悪い奴がいるとするなら、
みんな。
一億総懺悔でなければならない、と。
こういった考えがなぜ、ネット住民において主張されるのかは、つまり、ネット上では、いつでもだれでも、自分の主張を行う
場所
があるからだろう。また、主張をすれば、
社交界
なのだから、だれかが反論することもできる。つまり、このシステムによって、究極的に国家官僚は、犯罪を
行うことはなくなる。
国家官僚のあらゆる行動は、ネット住民の監視下において、すべて批評され続けるのだから、その行動がダメなら、
その場で止められる。
だから、その場で、だれも止めなかったということは、官僚に罪がない、と同値となる。どんなに官僚がひどい犯罪を行ってもそれは、「一億総懺悔」という形でしか、罪を形成できなくなる。つまり、究極的な
責任システムの崩壊
である。
なぜ、原発をやめられないのか。それは、多くの官僚が、原発関連の施設に天下っているので、彼らの利権が毀損されるから、官僚の
友達
が、みんなで彼らの「利権」を守ってあげたい、と行動するからだろう。
たとえば、女子アナとプロ野球選手が結婚するケースが多いことが言われるがこれは、同じ
職場仲間
だから、と言われている。仕事場が同じであれば、懇意になることも多いのだろう。
同じような意味で、日本の大手マスコミと、国家官僚は、完全な
職場仲間
と言えるだろう。お互い、もちつもたれつで、利害をバーターし合っている。官僚たちが困っていれば、大マスコミ・ジャーナリストたちが、彼らを
助ける。
その代わりに、長期的な懇意な関係を勝ち取る。
ということは、大手マスコミは絶対に、官僚の「損」になることを
言わない。
どんなときも、結局は官僚にとって、ありがたいと感謝されることしか言わない。
- 大マスコミ=官僚の味方
(そういった意味で、大新聞と大テレビは、完全に国家のプロパガンダ放送となる。それは、
いつの時代も変わらない。
一つだけ違ってきていることがあるとするなら、現代の若者は、そのどちらも「消費」しなくなっている、ということではないだろうか。情報はネットにいくらでもあるわけで、大新聞様と大テレビ様の、ありがたい施しは「不要」になってきている、と...。)
では、政治家はどうだろう。政治家とは、何年かに一度行われる、選挙で選ばれる「なにか」にすぎない。つまり、選ばれなかったら政治家ではない。つまり、いつ消えていなくなるか分からない連中であって、大マスコミにとって、彼らは
友達
ではない。多くの識者が指摘しているように、近年の金権政治抹殺の大マスコミによるキャンペーンによって起きたことは、政治家の権力の低下である。政治家に力がなくなっていった。それに代わって台頭してきたのが、官僚である。つまり、官僚と大マスコミ、大ジャーナリストの連合体が、政治家という
国民の代表
を無力化してきたのが、近年の政治だと整理できるだろう。その象徴として、小沢民主党議員があげられる。政治家の弱体化は、国家官僚によって、たとえ、政権政党であっても、検察という暴力装置を使って実現できる。政治家が国民の意志を代表して行動しようとすると、官僚の
友達
である、大マスコミ、大ジャーナリスト、検察が、よってたかって、彼らをパージする...。
私は、そもそも「自由」主義者なわけで、他人を強制「したい」という言論を行うことに、鳥肌が立つ。人それぞれ勝手に生きて、勝手に発言することは、全ての前提であって、他人の言論を「コントロール」すべき、というような
自分を棚に上げた
他者強制的な発言をする「貴族」に、あまり共感をしたことがない。そもそも、日本の大マスコミは、
戦前の治安維持法
に反対できなかった。彼らはそれを総括したのだろうか。
言論の自由
以上の無上の価値がありうるか。しかし、そうであることと、自分がなにかに価値を見出すことは矛盾しない。今ある、原発が問題であると考える自分の立場からは、現行の原発の維持、原発の増設、海外への原発の輸出、を推進する、野田政権を認めることはできない。彼らと同調することはできない。
もし、自己責任論を逃れ、国家を自分の手で変えるなどという、大仰なことを目指すことなく、上記の自分の要求を満たす社会を目指すとするなら、どういった形がありうるか。
問題はなにか。
他人なんてどうでもいい。
まずは「自分が」原発のエネルギーに依存しない生き方が可能かを問うことだろう。
そういう、原発から生み出される電気を使わない「実践」しかないだろう。それができる「条件」を自分たちで生み出していくしかない。
そして、最も重要なことは、原発推進派と共に「生きない」ということである。彼らの利益になることをやらない。彼らが売り出す商品、サービスの徹底した不買運動こそが、その「価値」を主張する最大の手段だろう。
彼らの汚らわしい手から生み出される「貨幣」を、断固拒否し、使わない。
つまり、非原発貨幣(地域通貨)、の創出である。
この貨幣は、原発を認めることができないという「価値」を体現するために、作られる貨幣と言えるだろう。
この貨幣の重要なところは、なぜこの貨幣を使うのか、というところにある。なぜ、現行の貨幣を使うことを拒否して、これを使うのか。それは、この貨幣を使うことが、
- 自分はあらゆる原発を拒否する
という意志を体現している、と考える、というところから始まる。つまり、今までの貨幣は、原発推進派によって、汚れているので、それを使いたくない人たちが、それぞれ集まって、「あえて」こちらを使うのである。
たとえば、もしこの貨幣を、原発推進派が手に入れたとしよう。そして、この貨幣を「原発推進」の自分の立場を変えずに、使おうとした、としよう。その場合、この貨幣の発行元は、そいつが所有している、貨幣の
有効権
を剥奪し、それと同じ額を、原発反対基金にプールする「強制力」をもたせる(もちろん、この通貨を使って原発を作ろうとしたなら、それが分かった時点で、そいつが持っている通貨は全て無効にされる)。
もちろん、原発推進派は、この処置に抗議してくるかもしれない。しかし、そもそもこの貨幣を生み出すときに、このことを「規約」に入れることで「約束」させるのだから、こういった処置に「同意」した人しか、この貨幣を所有しなくなるのだから、そもそも、原発推進派は、この貨幣を最初から持たないのだ。
この地域通貨のいいところは、このようにして、こうやって原発推進派と共に生きたくない人たちが、彼らと商業活動をやらないための手段を実現しているところだろう。
つまり、大事なことは、このようにして、
- 健全な敵対性(シャンタル・ムフの意味において)
を、「市場」において復活させることにある。
もちろん、上記にあるように、この貨幣を所有している人は、一貫して原発反対の信念を自分に課さなれば、無価値なものをもっていることになってしまう。しかし、逆に言えば、この貨幣をもつことが、着実に原発のない社会の実現を自らが「選んでいる」証明にもなっているわけで、つまりは、
倫理的
な生き方が、これによってやれていることを意味するだろう。
こうやって、私たちは、
反原発「経済圏」
を作る。よく考えてみると、なぜ人々は(地域)通貨を発行しないのかは疑問だ。なぜ、国家が発行している通貨ばかり使いたがるのか。さまざまな地域通貨がありえるはずなのだ。
- その地域の発展を目指して作られる通貨
- 子供たちみんなが学校に通えるように経済的支援をしていくことを目的とした通貨
- 飢えて死ぬ人を生み出さないことを目的とした通貨
つまり、倫理的通貨が...。
(そもそも、貨幣とは「無価値」なものの、別名である(つまり、無価値なものを価値とする「メタ」的な「存在」)。だれでも、これが「貨幣」だと宣言する「自由」がある。だれにも、通貨発行の「自由」があるのだ。特に、現代のインターネット社会は、貨幣という「情報」をネット上に「アバター」化できる。もっと、ネット上に「地域通貨」があふれても不思議じゃない...)