タイラー・コーエン『大停滞』

近年のTPP論議の不気味さは、いわゆる、経済学「優等生」たちの「模範的回答」が、アメリカ側の要求の丸飲み、だということだろう。
アメリカ側の、市場解放の要求に、優等生たちは、「原則論」から、言われるがままに行うことを、当然のこととしている。つまり、優等生たちはアメリカ以上に、原則主義なのだろう。
たとえば、TPPによって、日本の消費者は商品が安くなることで、利益を得る、と言うだけで、そこから生まれる日本での多くの失業者への共感は感じられない。彼は、大規模店舗法だろうがなんだろうがアメリカが要求すればなんでも賛成なのだろう。日本に、日本の企業がなくなり、外資しかなくなっても、彼はそれを「消費者の利益」と言うのだろう。しかし、消費者とはだれのことを言っているのだろう?
すべての消費者は、同時に、生産者ではないのか?
日本の近年の問題は、非常に高くなってきた、失業率だったのではないか? この問題の解決策を与えることなく、たんに日本の市場を、外資にくれてやるという発想は、売国奴以外のなんだというのだろう。
舶来の製品の使い方を嬉々としてネットに書き込み、外資の宣伝部隊を買って出る、多くの人々にも、疑問をもたざるをえない(憂国の士なら、それを凌駕するようなサービスを日本人が生み出せるように、東奔西走するもんじゃないのかな)。
しかし、言うまでもなく、各国は、自国の「国益」を考えて、さまざまに交渉のカードを切る。当たり前だが、自国が有利にならない契約など結ぶわけがない。
ソ連(現ロシア)だろうが、中国だろうが、どこだろうが、基本は保護貿易だ。いろいろ国内問題に直面するたびに、国益にもとづき、輸出制限をしてくる。中国のレアメタルが分かりやすいが、それが国家だろう。自国を外資にくれてやるような国民は、どこまで、頭の中が、おてんとうさんなんだ。
ところが、優等生たちは、違うようだ。自国の国民全てが、不利益となってでも、やらなければならない「原則」があるようだ。
そんなにTPPがいいなら、日本なんかやめて、アメリカの一部になればいい。日本をアメリカに売ればいいじゃないか。アメリカにくれればいい。そうすれば、こんなくだらない議論なんかやらなくても、アメリカと同じルールになる。
結局のところ、そこにあるものは、なんなのだろう。
なぜ、優等生たちは、アメリカの言うことを、なんでも実現しようとするのか。こう考えてみたらどうだろう。日本とアメリカを二つに分割するのだ。

  • 日本(成功組)+アメリカ(成功組)
  • 日本(貧困組)+アメリカ(貧困組)

日本を一つの利益共同体を考えない。上記のように、成功組と貧困組で、分割する。そして、前者が「勝ち残れる」システムを作ろうとする。後者から継続的にむしる「からくり」によって。
グローバリズムとは、これの全国版といえるだろう。
世界を、この二つの線で分ける。そして、前者の利益を「最大化」することが、「効率化」であり、善である、という理屈を推進する。
彼らには、ナショナリズムはない。かといって、世界的な公共的システムを考えているわけでもない。まあ、古くさい言い方をするなら、

の対立の先鋭化を自明だと考えているということになるだろうか。ところがなぜか、彼らは、この言葉を使わない。
マルクス資本論にしても、あれは、イギリスをモデルにしているだけに、一国資本主義で、「外部」を前提にしているところがある。つまり、外部が「ない」となったとき、つまり、世界中で競争を始めたとき、なにが起きるのか、だったのだろう。)
それはなぜかと考えたとき、大きな理由は、掲題の本にあるような、
大停滞
があるからだろう。そもそも、今の時代はなにをやっても、もうからなくなってしまった。つまり、なにをやってもだめだからこそ、反語的に、金融機関に「だけ」、極端なお金持ち(社長などの一部の経営者トップ)が、先進国で多くなった。
逆に言えば、そういう「貯金」的なビジネス以外、まともに、成長しなくなった。
つまり、
資本主義の終わり
ということなのだが、そう言うと、資本主義が終わるわけがない、という話になる。資本主義以外のシステムなどありえないのだから、終わりたくても終わるわけないだろ、と。
でも、「終わり」とは、そういう意味で言ってるんじゃない。終わりとは、ある意味で「完成」とも言えるわけで、つまり、最終形態。つまり、これは、ヘーゲル的な意味で言ってまして、つまり、もし資本主義がニアリー・イコールで成長しない、となったら、それって、「矛盾」じゃないのか? と言っているわけだ。
一種の、中世の始まり、とでも言ったらいいのだろうか。
なぜ、経済が成長しないのか。

スタンフォード大学の経済学者チャールズ・I・ジョーンズは、アメリカの経済成長の要因を設備投資の拡大、労働時間の増加、研究開発の活性化など、いくつかの後世要素に分類した。そのうえで一九五〇〜九三年の数字を見ると、経済成長の約八〇%は、過去の知識の応用と、教育および研究へのふんだんな投資の組み合わせにより実現していた。このような経済成長の方法をこの先繰り返すのは難しい。端的に言えば、私たちは過去の遺産を食いつぶしてきたのだ。

有意義なイノベーションをおこなうことが昔に比べて難しくなった結果、イノベーションを実現するために多くの資金を投じなくてはならなくなり、投資回収率が悪化しているのである。

近年のイノベーションはほとんどの人にとって、生活水準にごくわずかな漸進的改善しか生み出していないと言えそうだ。

そして、大事なことは、イノベーションとは「囲い込み」のことを意味するようになってきていることだろう。

近年のイノベーションの多くは、「公共財」でなく「私的財」の性格を帯びていると言えるだろう。今日のイノベーションは得てして、経済的・政治的な既得権を強化し、ロビー活動によって政府の支援を引き出し、ときには知的財産権の保護を過剰に求め、万人が用いるのではなく一部の人しか用いない商品を生み出している。

(たとえば、もし、だれもが銀行を起業できるなら、どうなるだろう。また、だれもが医者になれるなら。だれもが弁護士になれるなら。もちろん、資格試験があることが問題だと言っているわけではない。しかし、その理解度によって、段階的に資格を譲渡すればいいだろう。)
しかし、それ以上に、経済のグローバル化が大きいように思う。つまり、だれもナショナリズムを「実践」しなくなった。労働力を、わざわざ、国内で回そうとしなくなった。安ければ、海外で調達すればいい、と考えるようになった。なぜ、国内でナショナリズムによって、人をうんぬんしなければならないのかが、理解されなくなってきた。
インターネットによる情報社会がまず、引き起こした現象こそ、イノベーションの「まねっこ」だろう。あらゆるイノベーションは、光の速さで、世界中がパクる。どんな秘伝の技も、ネット上に情報としてアップされてしまえば、秘密でもなんでもなくなる。
さらに、電子決済のシステムや、物流や交通機関の発展によって、ある程度の物流費用をかけさえすれば、世界中から、それなりの早さで「あらゆる」物が届くようになり、「近所」かどうかに、あまり意味がなくなってきている。
もっと言えば、「意志疎通」さえ、テレビ会議を含め、ソーシャルメディアなど、完全にオンタイムで、場所の距離が問題でなくなった。
つまり、そうなってしまえば、あとは、
低賃金労働
の差でしななくなるのだから、必然的にそういったものが残っている、BRICsの方が先進国よりアドバンテージがあることになる。
つまり、先進国に「仕事はなくなる」。先進国の国民は全員、失業する。すべてのサービスは海外の労働者が先進国の国民に提供するようになり、先進国の国民は、やることがなく、ぼーっと毎日が過ぎさるだけの、
ニート
になる。そして、先進国の国民は、子供の頃から過保護が親に毎日、撮り溜められてきた、自分のライフログ。「栄光」の動画を摺り切れるまで見て、自分の自尊心をなぐさめて生きる。そして、ひたすら、
貯金
を切り崩して、日々貯金がなくなっていくのをマゾ的に眺めながら、刹那的に日々を生きていくことになる。
先進国の国民の「堕落」が「完成」するのは、その「貯金」がなくなったとき、となるだろう。
そこで近年、さかんになってきたビジネスが「金貸し」である。先進国の国民は、たんに散財をしていたら、「貯金」がなくなった時点で、先進国ではなくなり、昔の貧困国になるのだから、今もっている貯金を、BRICsなどに投資して、その「利子」で生きろ、ということになる。
しかし、このことが「さらに」国内の企業に投資されないのだから、より国内の「貧困」に拍車をかけることになる。
ではなぜ、TPPがこれほど話題になるのか。
それは、これがまずもって、農業の問題だからなのだろう。農業とは、畑や田んぼが「ある」ことが、成立の条件である。しかし、そういった土地が維持されるのは、それによって「儲かる」構造があるからだろう。だれだって、儲からないのに、やるわけがない。
こういった畑や田んぼの特徴は、一度放棄したら、再度元に戻すことが難しい、というところにある。また、ある程度の広い空間で、維持されていることが前提で、いくつかの農家が次々と放棄して、別の施設に使おうとしたとき、その空間をとりかこむようにある、別の農家が「成立」できなくなる可能性がある。
そして、これは「食」の問題とも関係してくる。なぜ、グローバル化が言われるのかは、流通によって距離に意味がなくなってくることと言えるが、そもそも、食とは鮮度の問題だったはずだ。遠くなればなるほど、運ぶ間に、食品は「腐り」商品価値がなくなるのではなかったのか。この問題を「留保付き」で解決したのが、冷凍技術や、さまざまな化学薬品による、保存薬品(防腐剤)を食料にかけて、腐らせなくする技術だろう。
現代において、保存薬品がかけられていない食品は、まず売っていない。じゃあ、保存薬品によって食料が腐らなくなったんだから、すべての問題が解決されて良かったじゃないかと思うかもしれないが、そもそも、保存薬品は「食料」じゃない。食料が腐らないというのは、
矛盾
である。腐るから食料なのであって、腐らないということは、それによって微生物が殺されているということだろう。微生物を殺すなら、それを体内にとりこんだとき、人体を殺さないのか、という疑問がわく。
この問題は、近年話題の放射性物質ダイオキシンなどとも同様の問題だと言えるだろう。つまり、
少量
なら「影響は無視できる」んじゃないのか、と考える人々があらわれる。いや。無視できるかどうかじゃない。経済的に無視できないと、「儲け」にならないから、無視「できなければならない」と、主張する人たちがうるさい、ということなのだろう。
つまり、なにが言いたいか。
食料は、どこか「資本主義」と矛盾している、と言いたいのだ。「保存薬品」を使わなければ、腐るのだとすれば、当然、流通は地産地消が前提になる。そうでない、矛盾していない、というのは、つまり、「保存薬品」万能主義のようなもので、そういった
科学信仰
によって成立しているなにかにすぎない。たとえば、なぜ日本において「水不足」を心配しないですんでいるのかの理由として、以下のようなことが言われることもある。

玉野井=槌田の理論によれば、環境の悪化は、水と大気の循環、そしてそれによる熱エントロピーの放出を妨げてしまうことから生じる。その一結果が砂漠化です。たとえば、槌田は砂漠化に対して水田を作ることを勧めています。彼の考えでは、雨が降らないから砂漠になるのではない。水がないから雨が降らないのだ。水田を作ると、そこから蒸発した水が雨として落ちてくる。「水循環」が始まる。

「世界史の構造」を読む

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ところが、こういった公共財のような考え方は、新古典派経済学と相性がよくない。TPPでやりだまにあげられている、農業、医療、知的財産権、さらに、教育も含めて、こういった分野は、著しく、「公共財」の性格をもっている。しかし、公共財の弱点は、その「効率性」を、測るメジャーがないことだ。
市場であれば、その価値は市場が勝手に選択する。そうすれば、それなりに効率的で、いいものでなければ、競争に負けて残らないだろうというダーウィン的な発想ができる。
ところが、公共財は、「それ」しかないから、比較にならない。たとえば、教育というのは、日本においても、基本的にやってることは、私が子供の頃と、そう変わっていないだろう。教科書もそうだろう。
しかし、世の中のあらゆることは、進歩しているのなら、学校教育にもっと「イノベーション」があってもよさそうではないか。ところが、驚くほどに、同じことが繰り返されている。
それはなぜか。教師の世界に「競争」がないからだろう。競争がないから、教師の方に、去年より今年、という改善のモチベーションが生まれない。
そしてこの、公共財の最大の例が、国家だろう。
国家は、大きくなればなるほど、非効率となる。
じゃあ、公共財なんていらないのか? そういうわけにはいかないだろう。電車などの交通機関や、インターネットのように、さまざまな「公共財」は、驚くべきほどに、人々の生活の基盤になっている。本当は、そういった「みんなで使っている」ものは、非常に大きな価値になっているはずなのだが、どうしてもその評価がやりにくい。
究極の世界とはなんだろう。人々の生活が、すべて「公共財」によって、生み出される世界なのかもしれない。

柄谷 貧困者には確かに貨幣がないのですが、貨幣を給付されることで、貧困が解消されるわけではない。資本主義経済の中に巻き込まれるから。ますます貧困化していく。それより、金がなくてお何とか食えるような社会環境をつくるべきでしょう。少し前の日本の社会には、それがあった。それは互酬的な経済があったからですね。それを取り戻すことはできないけれども、生産 - 消費協同組合や地域通貨のようなアソシエーションによって、回復することができると思います。
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新自由主義者たちの主張した「セーフティネット」論の決定的にだめなところは、お金がないと生きられないことを変えようとしないため、結局はどこまでもお金が必要でありながら、どこまでも給付額は減額され続けるパラドックスになることだろう。
セーフティネットとは、お金持ちが頭の中で考えるボンボンの思想だと言えよう。
恵む
と考えると、その額を恵む側が、いくらでも差配できる。つまり、

になれる。ということは、究極的にうまくいくわけがない、ということになるだろう。
私が、グローバリズムで他国の貧困層が裕福になってる、といったお坊ちゃんたちの、「優等生」発言が、気に入らない理由は、そもそも、国内という「身近」に毎日を不安に思い、悩んでいる人がこれだけいるのに、そういう身近な人の不安に答を与えることなく、どこか遠くの他人を
救済
しているつもりになっているその傲慢さじゃないだろうか。おそらく、こういった人たちに私のこの言葉は届かないのだろう。それほどに、身近な人々の不安な気持ちに対する感受性は鈍くなっている。もう同じ日本人とさえ思えないくらいに...。

大停滞

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