冨谷至『中国義士伝』

日本の敗戦を特徴づけたものとはなんだろう。間違いなく、それが、「義士」的な傾向を色濃くもったことであっただろう。
日本のある軍人が死ぬ。彼は、赤紙で徴兵されたのだろうか。なぜその人は死んだのか。なぜその戦場で死んだのか。しかし、その死に方は著しく「自殺」的であった。カミカゼ特攻隊に始まり、血の血判状を書いた、廻天でしたっけ、そんなものではおさまらないだろう。もう、ほとんどの日本人は「自殺」したようなものではなかったのだろうか。
なぜ、日本人の闘い方がそのような形になったのかを考えると、間違いなく、
教育
がある。教育がある意味、「義士」的な態度を涵養(=マインド・コントロール)するものがあった。江戸時代からの水戸学派的な(朱子学的色彩をもつ)国体思想をベースに、明治以降の
文部省
は、幼い子供の頃から、殉国を刷り込む。
しかしそれは、本当に「儒教」だったのだろうか?

教育勅語」にはもちろん、「爾臣民父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」とあり、「親子・兄弟・夫婦・朋友」の関係の重要性を述べる儒教的「五倫」の思想が示されている。しかし、儒教においてもっとも大切なのは、自然的関係である「親子」の関係である。それに対して、「教育勅語」においては、残りの四つの関係はすべて「君臣」(天皇と臣民)関係の下位に位置し、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、緊急事態には天皇とその臣民の関係がすべての価値に優先される構造になる。国家の大事には、当人の命さえもなげうって天皇の命に従い、国家への奉仕を優先しなければならない。儒教的語彙を用いながら、これは本来の儒教思想とはまったく異質なものである。

朱子学的普遍と東アジア

朱子学的普遍と東アジア

もともと日本の明治政府は、薩長の「軍隊」によって、成立してきた過程をもつため、基本的な発想は「軍隊」の
自生的生成の「論理」
にあったのではないか。いかに、明治以降、日本の軍隊を維持し「最強」化していくか。国家安寧の条件を二つあげるとするなら、

  • 一番「強い」国家の側に「味方」する(強者の尻に敷かれる)。
  • 世界の最強国に並びうる「最強」の軍隊をもつ。

この二つを実現する国家は、そう簡単に滅ばないだろう、と考えられるかもしれない。
前者について、よく言われるように、日本がナチス・ドイツが世界を征服するという「判断」をしたため、ドイツと同盟する選択を選んだことが、日本の第二次大戦の敗北へと至ったということだろう。
では後者についてはどうか。どうやって、日本の軍隊を最強にするか。まず必要なのは、参謀であろう。しかし参謀がいくら優秀でも、彼らの意のままに動いてくれる、手駒がなければ、彼らのアイデアもアイデア倒れになるだろう。しかもそういった手駒は、なるべく「色」がついていない方が使い勝手がいい。また、
使い捨て
ができ、いくらでも「補充」がきく方が便利だ。そして、なによりも自ら進んで、そういった「むちゃぶり」を率先して実行する「鉄砲玉」となることを「喜ぶ」ような「変態」こそ「使える」。
つまり、
教育
である。戦力はまずは、国内から調達するしかないだろう。つまり、国民を使うしかない(そうすれば、国内のすべての国民「から」鉄砲玉を選べることになるわけで、いくらでも補充できる)。では、国民をどういう「色」に染めておくか。もちろん、率先して鉄砲玉をかってでるような、気質の涵養となる。
そこで考えられたのが、「平常時」と「非常時」の区別だろう。平常時においては、基本的に戦前と戦後は変わらない。まったくの、アナーキーでいいのだ。国民は勝手にお金儲けを好きなだけやって、享楽の限りを尽そうが、だれも文句を言わない。しかし、
非常時
においては、国民はあらゆることをなげうって、国家にすべてをさしだせ、と平常時において常に
約束
をさせておく。この方法の強力なところは、基本的に毎日は「平常時」だから、この約束には、実感がないことだろう。「非常時」は起きない限り、戦前も戦後もなかったわけだ(この問題は、福島第一原発において、再度、繰り返されたと言っていいだろう)。
では、その非常時ルールで、国民はなにを約束させられたか。まさに、非常時においては、国民は
国家の命令にはなんでも従うロボット
になれ、ということだろう。その場合、なにが問題となるか。

  • そう命令されることを国民は、どういった理屈で「納得」するか。
  • そう命令されても、その命令に「優先」する価値が国民にはないのか。

ここが、儒教と関係してくる。大事なことは「価値」である。人が動く理由は、価値に「随伴」する。国家は国民に「自由を捨てろ」と命令する。その命令に国民が従おうと思うには、自由を捨てる「価値」を認めた、ということだろう。
なぜ国家の命令「なら」、自由を捨ててもいい、と思うということになるのか。それは、
君主
の命令だからだ。ここで問題になる。なぜ君主の命令だと、そうなるのか。つまり、なぜ君主は
特別
なのか。ここにこそ、
教育というマインド・コントロール儒教の矛盾
がある。儒教において、なぜ、君主を特別に扱うようになるのかは、ある種のアナロジーが「コンセンサス」となりうる、という「自然法」的な発想である。

儒教の説く教理は、孝(親に対する敬慕)と悌(兄弟間の和睦)というア・プリオリな人間の情をア・ポステリオリな君臣関係----忠義に敷衍し、国家という疑似家族の組織体をつくりあげ支配体制を強固たらしめるものであった。

私たちが「当然」と思っている、孝と悌に対して、国家を
疑似家族
と考えることで、敷衍させる。しかし、孝悌とは、ある意味「生まれる前」から自らの存在が「要請」する前提であって、だれだって親や兄弟と共同体にならないで成長できるなど思いもしないだろう。
他方において、国家とはそういうものとは違う。それは、「いつか」出来たものにすぎない。つまり、いつか誰かが、「契約」して出来たものであって、なぜ自分がそこに所属していることになっているのか、というのは少しも自明ではない。たとえば、自らを国家と自称している組織が多数あったとき、なぜ、自分は「向こう」ではなく「こっち」なのかは、まったく、人工的な話であって、なにかの理屈から引出せるような「必然」などあるわけがない。
大事なことは、「ア・ポステリオリな君臣関係」は、「ア・プリオリ」ではない、ということである。だとするなら、そういった関係を、孝悌と「同一」に考えるようになるためには、「ア・ポステリオリ」な「契機」が必要だと考えるわけである。
なぜ自分は、ある君主に仕えようと思うようになるのだろうか。それは、なぜ自分が孝悌の関係と「同じような」関係を、他人と結ぼうと思うか、つまり、
義兄弟
となろうとするのか、と同型であり、つまりは、それ以前からの、さまざまな個人的な関係が、しいては君主への、
個人的な「疑似」家族関係
を志向していく「場合がある」、ということである。

李陵の一気呵成の言葉を黙って聞いていた蘇武は、目を開いて静かに口を開いた。
「我々父と子は、さほどの功績もないのに陛下に取り立てていただき、将軍として末席に連なり、通侯という最高位の爵位も賜わりました。我ら兄弟も同じく目をかけていただき、肝脳、地に塗ることもいとわないと心に決めております。いま、命をかけてお役にたてるならば、たとえ斧で首をはねられ、釜ゆでにされたとしても、むしろ喜ばしい、誇るべきことと思っております。子が父に仕え、子が父のために命を捨てる、何も恨むことはございません。どうか、これ以上はおっしゃらないでいただきたく存じます」
丁寧な言葉のなかに不屈の意志を感じさせる。李陵はもはや、継ぐべき言葉はなかった。数日間、彼らは親交をあたため、やがて別れの日がやってきた。
「子卿どの、今一度......」
李陵の最後の嘆願を遮るかのように、蘇武はいった。
「私は、もはや死んだものと思っております。王よ、どうしても私を降伏させたいと思われるならば、どうかこの宴ののち、貴方の面前で死なせていただきたい」

------王、必ず武を降さんと欲せば、請う、今日の驩をおわりて、死を前に致さん------

「王よ」と匈奴右校王の官位で呼ばれたこと、それは匈奴人と化した己に対する蘇武の評価ではないか。眼前の蘇武との間には深くて大きな溝が横たわること、また蘇武の崇高さと己の惨めさを感じさせられたのである。
「ああ、彼こそ義士。私と衛律の罪は、白日の下にさらされよう」
悄然としてバイカルを後にした李陵であった。

項羽と劉邦の覇権をめぐっての争いのなか、項羽に味方につくように説得された韓信は、次のように答えた。
「私は、項王に仕えたとき、その処遇は郎中でしかなく、私の提言は聞き入れられませんでした。だから私は愛想をつかし、漢についたのであす。漢王は私を上将軍にも引き立ててくださり、自分の着ているものを私に着せてくださり、これも食べろと食事を勧めてくださいました。私の言葉には耳を傾けてくださり、提案もうけいれられました。だから、今日のこの私があるのです。人が心を許して私に接してくださる、それを裏切るのは、人としてとるべきことではありません。命をかけてもそれを守らねばなりません」(『史記』准陰侯列伝)
韓信は最後には、劉邦に裏切られ、「狡兎死して、良狗煮らる」ということになるのだが。

よく考えてみれば、これは当然のことではないだろうか。なぜ、そういった関係が、後天的に結ばれるのか。それは、「そうしたい」と思うようになる、文脈があるからだろう。主人と臣下は、そうなるまでに、そうなりたいと思う個人的な人間関係があったから成立するわけだろう。
もちろん、最初はその関係が非常に薄い場合もあるだろう。そして、長い関係が続くことが、その関係を深めるということもありうる。つまりは、後天的なわけだ。
そのように考えるなら、日本の「教育勅語」は本末転倒している。アプリオリに私たちには、無上の「主人」が存在する、と。つまり、日本の「ニセ儒教」は、上記にあるような、主人と臣下の、
ヘーゲル的な弁証法
をたどる必要なく、アプリオリに君主関係を獲得できている、と言うのだ(しかし、こんなに簡単に、国家が「家族」になるというなら、人が出会い、理解し合っていき、
義兄弟
の契りの杯をかわすようになる、という「しち面倒くさいプロセス」など不要だ、というのだろう。だって、最初から「家族」だと言うのだから。なんとも、私たちが日々の生活の中で信頼を獲得し結んでいく
義兄弟
を、「こんなもの無意味だ」と侮辱されているのと変わらなくないか。私が、こんなどっかの頭のいい優等生がこねくりまわした
神学的理屈
を、「ニセ儒教」と言うのも、そういったところにある。なんとも、安っぽい「儒教」なものだ)。そして、その由縁が、
古事記日本書紀の「神話」聖書
にある、と。こういった、国家の主人の系譜が神々に起源をもつ、というような形の「神話」作成は、東アジア文化では、比較的、多くあったのではないだろうか。君主が自らの権力を正統化するとき、必ずこういった系譜作りが起こなわれてきたと言える(それと、前政権の存在の抹消。日本においても、天武天皇以前の、過去の無文字文化時代の、さまざまな豪族の存在は、歴史記述から抹消されたのだろう)。
しかし、そういったものは、言わば、緯書や道教や土着の信仰といったものの系譜に分類されるべきものではないだろうか。経書、つまり、朱子学的なパースペクティブにおいては、
鬼神は語らず
であって、つまり、徹底して科学的にやるのが朱子学であって、そういった正道を外れてしまえば、なんでもありの「トンデモ」になりさがってしまう。
軍隊は、こういった自ら命を投げ出す「忠君の士」を欲する。その「需要」が、国家宗教化の方向に向かう。
(私はそれは、ゼロ年代サブカルチャーについても言えると思っている。自衛隊がもし、戦前の皇軍の復活を目指すなら、どうやって今のちゃらい若者を、皇軍兵に、
動員
するのかが問われるだろう。それは、結局は今の若者のカルチャーを徹底して分析することになるのではないか。そこから、彼らを「動かす」「操作する」「動員する」契機が探される...。)
しかしそういった、
神崇拝
概念が日本軍人たちの「自殺」的戦闘行為になっていったと考えることは、正しくないだろう(実際、こういった神々の神秘的崇拝は、多くの国民も、否定はしなくても、なにげには非現実的に思っていたに違いなく、それは現代の若者がそう思うことと変わらない)。そうではなく、三島由紀夫が言ったように、
そういった日本の神々を信じて(つまり、天皇を神と信じて)死んでいった、多くの国民への「同胞」感情
が、彼らの「裏切れない」という、「義士」的な自殺的戦闘に結果していくわけである。
そう考えるなら、どう考えても、
神道
のような、形式的ななにかは、その伝統において、一定の意味があるとしても、こういったものが、
人を本質的に動かす
と考えることは正しくない(これは、どちらかと言うと、アニミズム的な系譜において考えられるもので、たとえば、祭になぜ人々が参加するのか、といった意味でなら、その動員を考えられる、くらいのレベルの話だと思われる...)。
そうではなく、やはり問題なのは、東アジア儒教の「動員」能力なのだ。
掲題の本でとりあげられている、中国の義人は、漢の蘇武、唐の顔真卿、宋の文天祥であるが、その特徴は、それぞれ時代が違うことだろう。なぜ彼らが
義人
と呼ばれるのか。それは、彼らが「信念」に生きた。命を賭して(ある価値を)守ったと、後世の人たちが判断したからであるが(それは今の若者がワンピースを読んで感動することと「違わない」)、そこで問題なのが、彼らが命を賭けてでも守ろうとしたその
価値
とはなにか、となる。なぜ儒教がこれほど長い間、中国の中心的な国体思想でありえたのかは、この「価値」の産出の源泉と解釈されうる枠組みでありえたことが大きいだろう。
先ほどの三人に共通しているのが、死ぬまでの長い幽閉生活だろう。

蘇武を説得できなかったとの報告をうけた単干は、逆に意地になって降伏させようとした。説得が功を奏さないなら、今度は力ずくでもやるしかない。単干は蘇武を空になった穀物保存の穴のなかに閉じこめ、飲み物も食べ物も一切与えないことにした。武は仰向けになって降ってくる雪を口にうけ、身にまとっていた羊毛をむしって一緒に飲み込み、数日間生きながらえた。
蘇武のような精神力の人間には、このような強硬手段は、むしろ逆効果であり、いっそうその不屈さを強くする。しかし、匈奴には何か不気味な神懸かり的なものが感じられたのかもしれない。次の強硬手段、それは遥か北のバイカル湖、厳冬の無人の地にひとり移して、そこで牡羊を放牧させ、その羊が子を生むまでもどさないと。まこと蘇武が神秘性をもっていたなら、牡羊に子を生ませてみよという仕儀なのだろうか。

「鎮まれい!」
李季烈は、身を挺してそれをとどめ、館のなかに顔真卿を招き、自己に有利な方向での取りなしを強要したが、顔真卿がそれに応ずるはずもなかった。しばし彼を幽閉し、引き続き、味方に引き込み、また朝廷との交渉役を期待することにした。

顔真卿が李季烈のもとに拘留されてから、はや二年の歳月が過ぎた。

元、そして怱必烈はしかしながら彼に死を与えなかった。土牢に幽閉し、彼の変化を辛抱強くじっと待ったのである。さながら、バイカルの蘇武のように。坑顔を前にした顔真卿のように。そして、かの二人のように文天祥も節を貫き通す。
牢獄での生活は、三年の長きに至った。

彼らは捉えられ、幽閉される。なぜ、殺されず、幽閉なのかというと、幽閉した側の支配者たちが、彼を自分たちの味方にしようと、裏切らせようとするからである。国家は常に優秀な官僚を求めている。彼らがその栄華を誇れるのは、言うまでもなく、優秀な官僚が彼らを支えるからだ。問題はこの
象徴的意味
つまり、この
ゲーム性
にこそある。
義人の誉れの高い人を、もし自分たちの側に寝返らせられるとするなら、もしかしたら、その国家には、ある「正当性」があるのかもしれない。世界中から、この国家に仕えたいと人々が集まってくるかもしれない。
中国の歴史においても、そうやって捉えられた知識人が、その国に寝返ることは、よく起きることであった。実際に、そう寝返ることによって、自らの「寿命」を伸ばせることは間違いない。安穏とした日々を、もう一度おくれるようになる。しかしそれは、つい最近まで、自分の味方であった、国家やその君主、そこに住む、近所の人々、友人、を

として、生きるということであって、場合によっては、そういった人々を「殺す」ことを命令によって行うことにもなる。
しかし、たとえそうだったとしても、なぜ人間が明日へ命を繋ぐ、楽な方を選ばず、苦しい生き方を選ぶのか。それは、よく考えてみると、不思議なことである。
それは、その人が意地っぱりだとも言えるし、つまりは、愚かなわけだ。なぜなら、なにをもってしても、生き残ることは、第一歩であろう。そうでなかったら、なんのために、なにを実現しようと生まれてきたのか。人間が生を受けて、命を長らえさせること以外にやるべきことなどあるのか。
たとえば、彼ら3人が義人と呼ばれるとして、では、なぜ彼らそれぞれは、そのような態度をとったのか。そこに、著者は、「それぞれの時代」を見る。
先ほども言ったように、君臣の関係が、孝悌の「アナロジー」だとするなら、より時代をくだればくだるほど、より社会は複雑になり、君臣の関係は希薄になる。漢の蘇武はまだ、自分と君主の関係は、素朴に繋がっているという個人的関係を意識できただろう。
しかし、唐の顔真卿、宋の文天祥までくると、なぜ、今の君主との関係を絶対とするのかは、そういった個人的関係の延長では、簡単に説明できない。彼らがそれを実感するのは、むしろ、

において、と言えるだろう。つまり、そういった過去からの「義人」たちの振る舞いを、ものの文献で学ぶことで、なぜこういった行為が「礼賛」されてきたのか、その「正当性」はなんなのかを学ぶ、知識人的視点へと移っていく(顔真卿は、もともと、学問を営む家系だったことが、大きく影響している)。
ということはつまりは、自らを「知識人階級」と意識することと近くなると言ってもいい。例えば、科挙の試験は、その徹底して、カンニングなどの不正行為を介入させない、徹底した
平等
対策を行なった。このようにして、完全な「実力主義」にすることは、ある一つの利点が生まれる。つまり、試験合格者の「社会的なステータス」である。本当に実力がないと受からないなら、そうやって受かった人を社会が
尊敬
し始めるのだ(つまり、普遍性となる)。それは、そういった形式的な「厳格」さが生みだす(この点においてなら、日本の大学は、今では、私立はエスカレーターでお金持ちは、勝手に大学生になれるし、少しも尊敬しなくなっていると言えるのかもしれない)。
そういったユニバーサルな価値は、今度は逆に、それに受かった人たちに、自分たちへの矜持を感じさせる。数少ない、科挙に受かった人にやってもらわなければならない、重要な国家の使命が当然、存在する。彼らはその立場を担えることを、誇りに思うようになるだろう(宋の文天祥が、それである)。
つまり、大事なことは、こうやって近代社会に近づくにつれ、社会の複雑化が、そういった「義人」を、一部エリートのことを意味するようになっていくことであろう。
しかしこれは、上記で言った意味からも当然なわけだ。
そもそもそういった、君臣感情は、なんらかのア・ポステリオリなさまざまな関わり合いの中から生まれてくるものなのだから、そもそも、自分と関係のない、自分に言及されたこともない、会ったこともない人に、
あんたの恩人だよ
と言われて、なにかの感情が生まれるわけがないのだ。だから、むしろ現代においてこそ、人々は
身近な君臣
つまり、会社での関係や、さまざまなボランティアでの実践での、尊敬感情を育んでいるのであって、別に、こういった感情が失くなっているわけではない。たんに、そういった単位が、身近にしか意味を感じられないという意味で、「本来的」になっていると言えるだろう。
(そういう意味では、自由原理主義者は、完全に勘違いしている。むしろ、国家は国民に、どんどん介入すべきなのだ。国民が困っているなら、助ければいい。もっと助ければいい。そうすることによって、国民の贈与感情、負債感情を高めることで、いざとなったときの、さまざまな「動員」が成功する。困っている人は助け、能力のある人には誇りをもてる立場を与え、彼らの君臣感情に、内実を与えればいい。これは、いわゆる公共事業にばんばんお金を使う、無駄使い「社会主義」ではなく、各個人を手当てする政策であって、こういった福祉はむしろ、国民の感謝の感情を大きくし、少しの国家困難を国民が「我慢」してくれるようになる。自由原理主義者は、言っていることがどうこう以前に、そもそも、お前を誰も信用していないから、聞く耳をもたれない。人は自分に話しかけてくる人の言葉に耳を傾けるのであって、そういった信頼がつちかわれて、始めて、相手に耳を傾けるようになる。そういった、
努力(福祉)
をやらないから、自由原理主義だとするなら、そもそもその存在が自己撞着な矛盾なのだろう。だって、自由原理主義者は、自分には「福祉」やりまくりなんだろ? なにそれ orz)
なぜ、儒教がこれだけの長い間、東アジアの支配的なイデオロギーとなったのかは、その理論の、孝悌というア・プリオリな関係から、説明しようとするかなり基本的なベースから考えを出発させる体系だから、比較的、実感をもって人々に考察されたという面はあるだろう。そして、それ以上に大きいのは、そういった基本のベースができただけに、その原理を、
裏切らないで生きよう
とする、「義人」の伝統を生んだことが大きかったのではないだろうか。それは、生き方の見本であって、困難な問題があっても、
それでも
その信念を生きようとする。人々が感動するのは、そういった彼らが目指している対象の「具体性」ではない(その対象がどうかなんて、もうどうでもいいのだ)。みんな、頭も悪いし、利口とは言えない。こんなことをやって、頑固なダメ人間だろう(むしろ、そういったダメな人間であっても、そういった信念に生きるということが、逆説的に感動させるわけだ)。しかし、たとえそうだったとしても、その信念を貫こうとする、不屈の精神があって、それをなぜかその人はその一瞬一瞬、「やれた」という「歴史」的一回性、唯一性が
普遍性
となり、こういった感情を、再生産していく(こういう内面の個的な問題ということでは、ストア主義とも近い)。こういったものが、漫画「ワンピース」といったもののように、たとえフランクな形に変わっても、現代のサブカルチャーにおいても絶えず繰り返されていく...。

中国義士伝 (中公新書)

中国義士伝 (中公新書)