日本社会の歴史の中でのヤクザという存在

この前まで、いろいろ、「一般意志2.0」という本について書いてきたが、最後に素朴にその本について思ったことを書いておきたい。
この本は、「政治の危機」と書き、たしかに、それらしき例(国の借金や税金)について、その名前は出てくる。しかし、全体として、著者が、
なにを問題だと考えているのか
が、少なくとも直接は書かれてなく、よく分からない。
つまり、巷では、どうも政治の危機が叫ばれているようで、自分もよくは分からないが、どうもそういった「政治の危機」と呼ばれているような事態があるのだろうとは、「感覚」する、といった感じだろうか...。
ようするに、著者はなにが問題だと思ってこの本を書いたのか。なにが解決されなければならない問題だと思っているのか、読んでいるこちらには、よく分からない感じがした(こういう「抽象的」な本を書く人は違うんですかね)。分からないが、いろいろな提案は書かれている。でも、著者の問題意識がよく分からないので、それで、そういった提案が実現される未来になったとして、はたして、なにが今と変わるのか、まあ、なにかが変わるのはいいでしょう。しかし、そう変わることによって、なにが今と違って「2.0」にすべきだった、と思えるのかが、いま一歩よく分からない。
これが「エッセイ」として書かれているのだから、あまり多くを求めるのは違うのかもしれない。
しかし、それ以上に、この本は
文学
なんじゃないか、と思えるようになってきた。もっと言って、新たな「文学」理論をやろうとしていると考えた方が正しいように思えてきた(おそらく著者自身がそういう文学青年なのだろう)。
著者は「夢」という。それは、フロイトラカン精神分析を意識しているのだろうが、そういったことは一般に、文芸批評や文学として豊穣に語られてきた伝統がある。
著者が勝負しているのは、間違いなく、そういった分野であろう。新たな未来の文学においては、さまざまに「ITテクノロジー」が関係しているだろうし、そういった文学的な関心と、民主主義の間にも、深い繋がりが、未来社会においてはイメージされているだろう(つまり、未来は、より「心理学」化しているだろう、という話で、こういう「一般論」なら、別に、ほとんどの人は賛成するだろう...)。
だから、そういったものと現実政治や現実生活を、あまり直結させない方がいいのだろう。あまり現代社会との関係をここに読みとろうとするのは、違う気がしてきた...。
例えば、その本には、まったく書かれていないが、現代の民主主義を考える上で、二つの大きなポイントがあると思っている。
一つは、天下り、と言われているもので、もう一つが、「ヤクザ」などのアンダーグラウンドの組織である。
天下りは、言うまでもなく、一般には、国家官僚が官僚を辞めるときに、大企業の顧問のような立場で、再就職するという慣行である(もちろんこれは、大企業その下請けにもあるのだろう)。なぜ、こんなことが起きるのかといえば、官僚組織が最初から、定年までいる場所ではないからだろう。少なくとも、今までは、そうやって回ってきた。
そうすると、問題は、そうやって辞めた官僚を「高待遇」で受け入れてくれる組織というのが、一体あるのか、ということになる。
もし、天下り先がなければ、だれも官僚になったって、いい思いはできないと思うようになり、優秀な人が官僚になろうとしなくなるだろう。
しかし、である。
まだ、一人や二人ならいいでしょう。しかし、日本の公務員は膨大です。どうして、なんの得にもならない人を厚遇しなければならないか。
しかし、この困難を「一瞬」で解決する方法がある。
嫌でも、国家のお目付け役を抱えていないと、損をする社会にしてしまえばいい、というわけです。
つまり、官僚の天下りを企業が、受け入れないと、企業は「リスク」を抱えてしまう、とすればいい。
これが、videonews.com でもやっていた、全国一律で都道府県で起こった、暴力団条例ですね。
とにかく、暴力団との「付き合い」が見つかったら、犯罪を構成できる、というわけです。しかし、付き合い、とはなんでしょう? たまたま、すれちがったって、「付き合い」と言えないことはないでしょう。たまたま、駅で声をかけられても、「付き合い」でしょう。つまり、「付き合い」を取り締るということによって、人々の行動の自由を「規制」しているわけですね。
この条例は、集団結社の自由を否定する、明確な憲法違反でしょう。だから、国会で法律にすることなく、条例という、この前の、青少年条例と同じ手法を選択している。
それにしても、なぜ警察は、こんな明らかな憲法違反の条例を、強行しているのか。
ここまでの議論の文脈から明らかでしょう。
できるだけ、法を「曖昧」にすることで、権力側(法行使側)は、自由裁量を手に入れる。ある人は、掴まえるけど、別の人は掴まえない。一見同じような罪状に見えるけど、そうやって差別をする。それによって、各共同体は、
権力行使側への「わいろ」が定常的に必要になっていく。いつも、権力行使側に「朝貢」をしていない組織は、
真っ先
に、取締の対象にされることになる。警察にとって、なによりもの関心は、
天下り
なのです。そのためなら、あらゆることを行う。法だろうと条例だろうと、「そのため」に利用できるなら、なんでも利用するということです(逆に言えば、警察がなかなか、天下りをできなくなってきている、近年の傾向があるから、こういった「憲法違反」ぎりぎりの条例を使ってでも、なりふりかまっていられなくなっている現状がある、ということなのでしょうが...)。
しかし、これが「権力」の本質でしょう。
もちろん、そういった「天下り」が社会的に見ても、非常に少なく数えるほどなら、まだ、影響は少ないでしょう。しかし、これをどんどん大きくしていったとき、民間はどんだけの天下りを「経費」としなければならなくなるか。こういったことが、日本企業の競争力を減退させないのか。
あらゆる組織は、その組織自体の「オートノミー」をもっている。それぞれの組織はそれぞれの組織内部の、都合によって、集団行動をするのであって、そう単純ではない。
例えば、そもそも日本社会が、「やくざ」というものと、どういう関係にあり続けてきたのか、その「歴史」を問うことなく、未来を設計することは、反動的であろう。
日本には、警察がある。
警察があるということは、その警察が仕事とすることがある、ということである。
軽犯罪に始まり、多くの重大犯罪が存在する。
そういった、警察の仕事の中において(この場合検察ですが)、「破防法」というのは、非常に興味深い例であった。オウム真理教に適用され、話題を呼んだが(ヤクザや新左翼も射程にあるのでしょう)、videonews.com でも、この破防法と、今回の暴力団条例は、非常に似ていることに注目している。つまり、犯罪を犯すのは、個人であるという近代法の考えをあきらめ、
組織
に犯罪を同定する、という手法である。ある個人が、なぜか、その組織に属している、ということになっていたとすると、それだけで、その人には「罪」が発生する、というのである。近代法の原則の、その個人が犯罪を行ったどうかではなく、組織の一員に「なっていることになっている」かどうかが、その人の罪を確定してしまう。
つまり、より「有機体」的な、共同体的人間の定義が、一般的になっていく。私たち一人一人が人間では「ない」となる。「一般意志2.0」のように、その
集団
の意志(集団的無意識)が、まるでその「人間」のように、評価されたり、罪を問われたりしていく。今でも、左翼がどうだとか、若者がどうだとか、そういった一般論(つまり、比喩)が、多く語られるが、こういった比喩を比喩でなく、マジで受け止めるコミュニケーションが一般的になっていく。
若者はだめ(左翼はだめ)、と言うと、日本中の若者に(左翼に)「罪」が発生する、というような、非常に「集団」一律的な、コミュニケーションが、本気(マジ)で実施されていく...。
もちろん、ヤクザは戦前から存在したわけだが、破防法のオウムのように、ヤクザという組織を警察が「認知」したとき、どういった「弁証法」が起きるだろう。
まず、その時点で、日本社会は、以下の「バランス」として、定位されるだろう。

  • 警察 - ヤクザ - その他

言うまでもなく、ヤクザの構成員には、さまざまな犯罪を犯して「しまった」人は歴史的にたくさんいる。しかし、だからといって、その組「自体」が、犯罪をやれと、各組員に指示するということではない(そんなに簡単に考えるべきではない)。つまり、そういった多くの犯罪は、基本的に末端のヤクザの暴走と考えられる(組織とはそういうものである)。
では、こういった組織に対して、警察は、どういった態度で、接することになるのか。言うまでもなく、お互いが「利用」の関係になる。そうやって、日本社会は今まで来たと考えられる。
警察は今まで、基本的に民事不介入の原則を守ってきた。しかし、ポピュリズムの圧力により、警察はさまざまな、国民のトラブルに積極的に介入するようになる。しまいには、人々が誰と「付き合って」いるのかにまで、口を出すようになった(警察は私たちが、だれと「付き合って」いるのかを、監視するのが仕事になった。なぜなら、私たちが暴力団と「付き合って」いないことをチェックしなければならないのだから、恋人とデートしようと思ったときも、その相手が「誰」か(「暴力団」でないか)を確認することが仕事になったわけだ)。
つまり、ヤクザの取り締りはむしろ、大衆の「欲望」だと言えるだろう。

この暴対法の思想とは、どんなものだったのか。立案にあたった当時の警察官僚による解説を通して見てみよう。警察庁捜査第二課長だった石附弘の論文「暴力団対策法の制定背景」は、暴対法の思想をよくあらわしている。
この暴対法の思想は、「暴力団」というものは、違法行為をおこなうかいなかにかかわりなく、その存在そのものが「市民の敵」「社会の敵」であり、市民自身の手によって「暴力団」が生きていけないような社会をつくりだすことが必要だ、というところにある。
まず、「暴力団」とは何か。「その団体の構成員が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長すろそれがある団体」をいうと規定されている。この規定はまったく形式的な性格のもので、ここから、前に見たように、1.組員が生計の維持に組を利用していること、2.前科をもつ者一定の比率を占めていること、3.組が階層構造を組織していること、という三つの形式的基準を満たす団体が「指定暴力団」とされることになる。
しかも、このようなものである「暴力団」が「社会の中に深く根ざしている」と石附論文はいう。彼らの規定に従うともともとまったく反社会的な団体、社会の敵であるという「暴力団」が、社会に深く根ざしているというのはまことに不思議な話である。
そして、だから、「暴力団」の違法行為を取り締まるだけでは不充分で、それが社会に深く根ざしている、その根を断ち切ることが必要だ、ということになる。石附論文は、「暴力団」を「社会的に孤立させ」「社会の中で存在し得ない環境、条件を作りだしていく」ことが必要だというのである。
したがって、「一般社会が暴力団に対する確固とした対決意識をもって、力を合わせて自衛のための活動を展開していく」ことを警察が市民に対して求めていくことになる。と同時に、警察のほうは、たとえ法律で認められている合法的な行為であっても、「暴力団」がやれば取り締まれるようにする必要がある、というのである。つまり、「行政処分」によって「非犯罪的不当行為」を押さえ込めるようにしなければならない、というのだ。そして、それが暴対法制定の目的なのである。
この法案の中身を知ったとき、私は憲法に定められた基本的権利を蹂躙するものだ、と思った。

近代ヤクザ肯定論 山口組の90年 (ちくま文庫)

近代ヤクザ肯定論 山口組の90年 (ちくま文庫)

警察が暴力団を取り締るということが、結局、「何」をしていることになるのか。私たちは、そういった「名前」でなにかを分かったような気になっている。しかし、上記にあるように、暴力団の「定義」とは、いったい一般の集団と何が違うのか。なにも違わないということは、いつ国家が、あらゆる国民集団を「暴力団」呼ばわりしてこないとも限らない、ことを意味する。そういった、レッテルとかブランドといった、無意味なもので、思考をした気になってはならない。
まず、暴力団がどうやってリクルートされた構成員で組織されているのか。彼らは、言うまでもなく、かたぎの組織に属することを「選択」しなかった人たちを意味する。つまり、彼らも
市民社会
が生み出した存在なのである。市民社会から「現れた」なにかであることには変わらない。自分たちの中から生み出された、それから目をそらすことは許されない。そういった人たちが、市民社会のいわゆる「外」で、存在を始める。しかし、だからといって、彼らが非合法な活動をしていると言うことは正確ではない。それは、末端には、一般の組織と同じように、非合法なことをして、儲けようという人があらわれることはある。また、こういった人たちで構成されているだけに、そういった末端の活動が起きやすい、ということは言えるだろう。
では、こういった組織を「壊滅」させる、ということが、どういった事態を生むと考えられるか。

格差が拡大するなかで、職に就けず、社会的にドロップアウトすていっている若者は確実に増えている。こうしたドロップアウト層が集団を形成すて違法行為をおこなう例が増えているのも事実である。「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」といわれるものの多くは、こうした格差社会から脱落した青年層によっておこなわれている。アウトローの供給源は、潤沢になりつつあるといわなければならない。
そして、ヤクザ組織は、こうしたドロップアウト集団を直接みずからのもとに吸収するのではなく、間接的に囲いこむ配置をとっているのだ。
つまり、組のなかに、窓口になる組員を定めて、その組員が単独で、こうしたドロップアウト集団をコントロールする。たとえば、振り込め詐欺をやっているグループをガードしてやる。あるいは、組が転売目的で取得した銀行口座を提供したり、安全な拠点となる部屋を紹介したり、いわば犯罪インフラを提供してやる。そして、担当組員は、この詐欺グループに対する監視・監督労働をおこないながら、そこからカスリをとっていくわけである。このとき、窓口になる担当者は一人にしておく。素人の若者は、パクられると簡単にうたって[自白して]しまう。だから、組に害が及ばないように、その組員一人で切れるようにしておくのである。
警察の取締が厳しくなっているから、ヤクザが自分たちで直接、振り込め詐欺グループを結成し運営することはやりにくいし、ほぼできないといっていい。だから、外部のグループをコントロールしようとするわけだ。一方、若者のドロップアウト集団のほうでも、ヤクザはさまざまなノウハウ、コネクション、パイプをもっているから、提携するメリットは大いにある。双方が利害が一致して、ヤクザがコントロールする外部詐欺グループができあがるわけである。ヤクザの側から見れば、シノギアウトソーシングである。
こうして、抗争などで動くコアな組員はますます高齢化し内部化する一方で、振り込め詐欺リセット屋口座屋などで手足となって働く実働部隊はますます低年齢化し外部化----フリーター化・派遣化----していっているというのが最近のヤクザの姿なのだ。
近代ヤクザ肯定論 山口組の90年 (ちくま文庫)

上記で指摘した、市民社会が、どうしようもなく「生み出した」なにかが、暴力団に入らなかったからといって、そういった存在が「いなくなった」わけではない。そうしたいと思ってもそうはいかないのである。
彼らは存在論的に存在するわけで、その上で、どういった「秩序」を構想するのか、と考えなければならない。
私たちは「警察」に、仮面ライダーのような、正義の味方をイメージする。しかし、警察官だって、人間である。危険なこと、面倒なことに、わざわざ関与したいと思うだろうか。また、どういった「理屈」によって、彼らに、私たち市民を守らせようとするのか。大事なことは、犯罪現場はどこも危険であり、警察官自身が死ぬケースも考えられる。そういった現場に、本気で彼らが関与してくれると思う人は、正義のヒーローが
まったく自分と関係ないのに
あらわれるという、お花畑だということだろう。最後の最後に、自分のために、本気で命を投げ出してくれる人は、あなたを愛している人しかいない。本気で、マジで、自分のために生きてくれる人というのが、一体どこにいるのかと、考えてみてもらいたい。
おそらく、こういった暴力団の徹底撲滅(掲題の本にもあるが、明らかに、近代ヤクザが経済犯罪化していったバブルの頃からの、ヤクザ自体の体質の変様がこういった動きを加速している面は、いなめないだろう)によって、逆説的に、東京の治安は「悪化」し、外国のさまざまなマフィアも活動しやすくなることが予想される。それまでの日本社会がもっていたさまざまな、
治安のよさ
などの美徳は警察への信頼感の低下(検挙率の低下)と共に、失われていくのではないか、と。しかし、それは、一時的には当然で、警察とヤクザによって生み出されていた「均衡」の秩序が、その一方のアンダーグラウンド化によって、バランスが崩れるのだから。
中間団体の腐敗が嫌だからと、撲滅すれば、私たち個人は剥き出しのまま国家との関係を強いられることになる。対抗勢力がなければ、私たちは国家となにごとにおいても心中せざるをえなくなるだろうが、はたして、そういった蜜月を夢想しても、国家の側は私たちの見返りに答えるほどの、甲斐性があるとどうして言えるだろう(彼らは私たち一人を相手にしているほど、暇ではない)。中間団体の出自のうさんくささから、こういった夾雑物を排除した国家との「二人だけ」の社会秩序を夢想しがちであるが、そう単純ではないだろう...。
ある
秩序
を破壊するのは簡単だか、その焼け野原を管理することに、だれも興味がないなら、より「信頼」のない不安定な状態が生まれる。
しかし大事なことは、本質的にそのことに「警察」は「無関心」だということである。なぜなら、上記で指摘したように、建前がどうであれ、彼らの関心はただただ、
天下り
であって、それさえ実現できるなら、ほかはどうだっていい、という「組織の論理」なのだから。
オウムにしろ新左翼にしろ暴力団にしろ、こういった組織を徹底的に撲滅したところで、そこに所属しただろう、ような潜在的

が存在し続けることには変わらない。自分の目の前から「組織」を見えなくすれば、そういった個まで、いなくなるわけではない。彼ら一人一人にも生きてきた「文脈」がある。彼ら一人一人の
文学
がある。そして、そういった存在は何度も言うが、この市民社会の存在条件が生み出しているのであって、その条件が変わることがない限り、いつまでも生まれ続けることに変わりはない...。
そういった、彼ら、この「市民社会」が生み出した、市民社会の申し子たちと、どういった「秩序」によって共存していくのか。そういった認識なしに、未来社会を
ユートピア
とすることは、空想的かつ反動的でしかない...。