BUMP OF CHICKEN「車輪の唄」

人は、超能力をもっていない。だから、だれかになにかを伝えたかったら、言葉で相手に自分の要望を伝えなければならない。なにも言わなければ、その人がなにかを言いたいと思っていても、だれにも分からない。
まあ、当たり前のことであるが、BUMP の歌においては、ここで、つまづいてしまう若者が何度も何度も描かれる。
早い話が、これをなんの「つまづき」もなくできる人たちに、私たちは興味がない。そういった「強者」は勝手に、幸せだと思っていればいいし、幸せだと思ったまま死んでいかれたらいいのではないでしょうか。
「能力」があることは、素晴しいことだ。たいへんいいことだと思う。「能力者」たちは、ほっといても、勝手にサバイバルしていく。自分を傷つけることなく、他人を押し退けて、のし上がって「いける」ということは「才能」である。
私たちは、そういった勝手に生きていける人たちに、そもそも興味がない。そういう人たちは、きっと自分で自分が幸せだと「納得」して、嫌なら自分で他人を手段としてでも、自分が幸せに「なる」ように「変えて」、生涯を「幸せ」に終えられるのだろう。私たちは、そういった人たちの「自慢話」を「強制的」に共感している態度を強制「させ」られ、(嘘でも)共感したということにする態度を表明「させ」られることに、うんざりきているのだろう...。
そういった人は、「つまづいた」人であり、「こじれた」人であり、つまり、私たちが共感する人である。
どうしても次の一歩を踏み出せない。なぜ、そこで立ち止まってしまうのか。
それは、彼らが「自分に」正直だったから、と言えるだろう。それは、彼らが純粋無垢だったことを意味するわけではない。むしろ、彼らは自らの「だめ」さに、自らが傷つくことを「選んできた」ことに原因があると言えるだろう。

好きな時に好きなことをして 時々休み
また適当に歩き出していた。それがいつの間にか
誰かに何か求められて誰にも甘えられない
ライトからすぐ逃げたいよ だけど僕はスラッガー
ノーヒットノーランのままじゃ認められない。
そんな僕は存在しちゃいけない

物語の始まりはそう 成す術の無い僕らが主役
白いライト当てられて 期待を背負って
「頼むぜ我らがスラッガー
「まかせろ!!」 と僕は胸をたたく
この手よ今は震えないで この足よちゃんとボクを支えて
白いライトあてられて 怯えないように
帽子を深くかぶり直し 不敵に笑うスラッガー

BUMP OF CHICKENノーヒットノーラン

FLAME VEIN

FLAME VEIN

人間は共同行動の動物であると言われる。ということは、人間とは共同行動が「できる」から人間と「認められる」ということを意味する。しかし、人間が共同行動ができることは「自明」であろうか?
私たちは、社会が高度になればなるほど、若者たちに高い社会適応能力を求めることを「自明」に思うようになる。
なぜなら、自分たち大人が長い年月をかけてその作法を習得したことを「忘れ」て、それを「本能」と思い込むからである。ある文化が本能なら、ア・プリオリに子供は、最初から「できる」ことが「証明」されなければならない。そうでなければ、
人間
ではない。
しかし、なぜそう「できる」のかは、よく考えれば不思議なことである。それは、事実できていることから導かれる結論ではなく、自分が自分に対して「問う」ことによって、浮かび上がってくる、自分という
他者
に関係している、と言えるだろう。自分とは「他人」だろうか? 普通に考えれば、これは正しくない。もし、自分が他人だったら、他人でない人はいないことになり、自分はいない、ということになり、つまりは、人はいない、ということになるだろう。
しかし、「この手よ今は震えないで この足よちゃんとボクを支えて」と言っているとき、本当に自分は自分なのだろうか? 自分の命令に逆らい、逃げようとする自分をどうして「自分」と認めなければならないのだろう?
もし、それが自分なら、自分は自分に幻滅する。共同行動を行わない自分とは、他者に求められない自分であり、そういった自分を認めることは、他者による承認を与えられることのない自分を、失格者の自分を、
自分が人間ではない
という自分を生きなければならなくなる。他人に認められることによって、この共同体の中での自分の「価値」を見出したいと思っている自分が、その
資格がない
ことに気付くことは、一つの「ニヒリズム」である。
彼ら若者の特徴は、徹底した、自己評価の低さである。彼ら若者は自らを「嫌う」。自分が嫌いでありながら、常に自分と「直面」しなければならない。
しかし、よく考えてみよう。
自分が「嫌い」とは、どういうことか? 自分というものがいて、その自分が、「自分」と呼ばれているなにかを「嫌い」と言っている、ということである。ここには、間違いなく、ある「分裂」がある。もはや、自分を「自分」という一つのなにかを意味するもの、と考える「努力」を放棄しているのである。

君に嫌われた君の 沈黙が聞こえた
君の目の前に居るのに 遠くから聞こえた
発信源を探したら 辿り着いた水溜り
これが人の心なら 深さなど解らない

BUMP OF CHICKENメーデー

orbital period

orbital period

BUMP の歌において、このテーマは、何度も何度もあらわれる。自分を嫌う自分は、もはや、自分ではない。それは、自分とは別に「自分とはまったく別のオートノミーで存在するなにか」として認識される(つまり「比喩」として)。
しかし、そうであってもそれは「自分」である。ということは、どういうことだろう? つまり、ここにおいて、ある弁証法が始まることを意味する。
では、自分を嫌う自分は、どのように弁証法的展開を論証していくことになるのか。BUMP の歌におけるそれは、多くの場合、
他者
つまり、それは「超越的」ななにかであり、つまり、愛する人ということになる。

息は持つだろうか 深い心の底まで
君が沈めた君を 見つけるまで潜るつもりさ
苦しさと比例して 僕らは近づける

誰もが違う生き物 他人同士だから
寂しさを知った時は 温もりに気付けるんだ

怖いのさ 僕も君も
自分を見るのも見せるのも 或いは誰かを覗くのも
でも 精一杯送っていた 沈めた自分から
祈る様なメーデー
響く救難信号 深い心の片隅
こんなところにいたの 側においで 逃げなくていいよ

BUMP OF CHICKENメーデー
orbital period

自分が沈めた自分は、最も自分を知っていながら、最も自分と「遠い」。つまり、私たちはそれに「直面」することに耐えられない、怖い存在、ウムハイムリッヒな存在となる。
しかし、そんな「自分」は
本当の自分
である。今の苦しい自分の「本当」である。深い心の底にいる、その「自分」が自分に代わって行っていることは、メーデー(救難信号)。
助け
を呼んでいた、ということである。しかし、これは自分を嫌いな自分にとっては、矛盾であり受け入れられない。なぜなら、自分が嫌いなのだから、そんな嫌いな奴のことなんて、どうなったっていいにきまっているからだ。しかし、それは
自分
でもあるのだ。その「本当の」自分が求めることは「助け」だというのである...。
では、少し視点を変えて考えてみよう。
自分を嫌いな自分が、まず最初に行うことは何だろう。そんな自分を、自分から「隠す」ことであろう。では、その一番簡単な方法はなにか。言うまでもない。自分を
閉じ込めればいい。
この世界から自分を隠すのだ。目も閉じて、口も閉じて、自分だけの世界に逃げ込めばいい。
自分だけがいて、ほかになにもない。なにも起きない
閉じた世界。
しかし、そうやって、自分を閉じ込める壁の中には、なぜか「扉」を自分は作っていて、そこからの静かなノックの音を待っている...。

世界に誰もいない 気がした夜があって
自分がいない 気分に浸った朝があって
目は閉じてる方が楽 夢だけ見ればいい
口も閉じれば 呆れる嘘は聞かずに済む
そうやって作った 頑丈な扉
この世で一番固い壁で 囲んだ部屋
ところが孤独を望んだ筈の 両耳が待つのは
この世で一番柔らかい ノックの音

このままだっていいんだよ 勇気も元気も 生きる上では
無くて困る物じゃない あって困る事の方が多い
でもさ 壁だけでいい所に わざわざ扉作ったんだよ

BUMP OF CHICKEN「プレゼント」

present from you

present from you

ニヒリズム」の自分は、徹底的に自己評価が低く、自分に期待できない。こんな自分を社会は必要としていないことは、自明のことで、なぜ今自分がここにいるのか、いなくてもだれも困らないし、むしろ、邪魔でしかないとしか思えない。
だれにも必要とされてないのに、だれからも邪魔としか思われていないのに、なぜ自分は生きているのか。彼らの自己評価の低さは、彼らの主体的行動の徹底した、
排除
を結果する。彼らは、基本的に今こうある事実に、なんの反応も示すことはない。それは、
そうある
ものなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。今、目の前にある状況に、なにかの「意志」を応答するということはない。
しかし、それは「嘘」である。
救難信号を送り、部屋の扉のノックを待つ、自分は、本当は今ここにある、自分の壁を突き抜けたいのである。
しかし、この「ニヒリズム」は、そう容易なことでは、変わることはない。というか、変わらない。上記にあるような、「超越的な」他者は、その状況が、
要請
するなにか、であるわけだが、ということは、つまり、その条件が必然的に要請する存在だとしても、そのことによって、「超越的な」他者の存在を必然とするとは言えない。やはり、ここには大きな壁がある。この壁は、そう簡単には超えられないのである。
注意しなければならないことは、そもそも、この壁を突き破ることは、非常に難しく容易ではない、ということである。つまり、そう簡単には起きないのである。しかし、だからといって、まったく起きないわけではない。

町はとても静か過ぎて
「世界中に二人だけみたいだね」 と小さくこぼした
同時に言葉を失くした 坂を上りきった時
迎えてくれた朝焼けが あまりに綺麗過ぎて
笑っただろう あの時 僕の後ろ側で
振り返る事が出来なかった 僕は泣いてたから

この「弁証法」は、他者との「二人の世界」において起きる。しかし、それは他者がいるから起きるのではない。つまり、他者がいても、なにも起きない。この「世界中の中のたったの二人」は、一つの
世界
である。この世界において、上記で描いたような、「共同行動」の評価は意味をなくす。その評価は、「二人」においてしか意味をなくす。しかし、もともとそうだったのではないのか。評価とは、その評価をしてくれる、「その人」との関係だったのではなかったのか。どんなに世界中の人が、お前を罵倒しようと、「その人」があなたを評価してくれるのか、どうかだったのではないか。

響くベルが最後を告げる 君だけのドアが開く
何万歩より距離のある一歩 踏み出して君は言う
「約束だよ 必ず いつの日かまた会おう」
応えられず 俯いたまま 僕は手を振ったよ

線路沿いの下り坂を
風よりも早く飛ばしていく 君に追いつけと
錆びついた車輪 悲鳴を上げ
精一杯電車と並ぶけれど
ゆっくり離されてく
泣いてただろう あの時 ドアの向こう側で
顔見なくてもわかってたよ 声が震えてたから
約束だよ 必ず いつの日かまた会おう
離れていく 君に見えるように 大きく手を振ったよ

ニヒリズム」の自分。なにもしない自分は、「応えられず 俯いたまま」。しかし、その最後の最後で、その自分の嫌いな自分は、そのちょっとした
行動
を起こす。この、なにものに強いられたわけでもなく、ただ自分の中から、わきあがってきた行動が、そのかすかな若者の、ささやかな一歩を、描くのである...。

ユグドラシル

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