雇用と人事

videonews.com で毎週、無料でアップされている、原発の審議会が、ある意味、非常におもしろい。というのは、これが「一般意志2.0」の典型だと思うからだ。これほど分かりやすい例は、ないんじゃないかと思うのだ。
ところが、だれも注目しない。
新聞もテレビもとりあげない。
私が正直、うんざりだと思うのは、こういった「具体例」が、実際、日々行われているのに、ツイッターでも、もりあがらない。具体例を、検討する人があらわれないことじゃないだろうか。
そういった審議会は「公開」されている。だとすれば、これと「一般意志2.0」で紹介されている劇場型熟議(と観衆の「つっこみ」)から、比較されている議論が見受けられないのも、なんなのかなと思うわけだ。
そう考えると人々は、本当に「一般意志2.0」を読んだのかなと思わなくもない。ここで提示されているイメージと、今のリアル政治を比較して、どういった「乖離」があるのかを検討するような、ケーススタディが生まれないことに、違和感がある。
もっと言えば、「一般意志2.0」のイメージと、現在の日本の法体系との、関係を検討しているような、若い法律畑の学生さんなどの研究的な感想も見受けられない。「一般意志2.0」に描かれているような、どこかユング的とも言いたくなるような、(テクノロジーを介した)集合的無意識(つまり、集合知)と、現代法との関係は、どうなっているのか、とか、もっとそういった、「現場」を考えた議論が、各所であっていいんじゃないかと思うのだが。
日本の若い法律畑の人たちが、こういった具体例を、どこまで実現可能なものか、またその理念がどこまで、今の日本の憲法や、現行法制の理念と整合的なのか、みたいな視点で考えたものがあってもいい。
「一般意志2.0」は、
劇場型熟議(と観衆の「つっこみ」)
を提言している。だったら、その可否なんかどうでもいいから、具体的にやればいいではないか。ネット上で。この原発の審議会を
ケーススタディ
として。ニコニコ動画のような、一過性のものだけじゃなく、ストック的な形で、ほんと「はてな」とか、こういうアーキテクチャを作ってほしいわ。今、実際に、いい具体例があるんだから、やっちゃえばいい(提案されているもののような完全なものでなくても、ある程度それで「集合知」を実現できるようなものを)。なんで言わないんだろ?
例えば、だれも「注目」していないが、この審議会は非常に「変」なことになっている。新日鉄の人が審議会の議長になっているわけで、この審議会が
利害当事者
が「差配」しているという、変な審議だということである。どうも、民主、自民、公明、「の」推薦のようで、つまり、原発推進議員の強い意志によって、議長がそういうことになっているということなのだから、確かに今の議論は反対派に論客がそろっていておもしろいのだが、最後の最後は議長の「まとめ」なのだから、もう
玉虫色
が最初から決定しているわけであろう(だからこそ、観衆の「つっこみ」がいるんじゃないのか?)。
そう考えると、なににおいても、「人事」が全て決めている。そりゃあ、「無意識」に期待してみたいというのは、分からなくはないけど、むしろ、利害当事者は、それを
乗り越えて
自らの利益を実現するのだろう。万難を廃して、自らの利益を実現するのが、企業人ですよね。
そういった利害当事者になる人が、議長になってはならんだろうと、民主主義の基礎の基礎として思うのだが(そこが、日本の民主主義が遅れている理由なのだろうか)。
よく考えてみると、今の日本のほとんどの問題は、こういった「人事」に関連して、生まれているように思える。上記の例では、結局、官僚が人選をしているのだが(そこに、利害関係を官僚と一致する政治家の意向も反映する)、こういった人選を事実上、官僚がやっている限り、絶対的に、こういった審議会を始めるときの、
官僚の意向
を超えたものになる「はずがない」。そういったことを考えて「深謀遠慮」されて、人選がされているのだから、最初から結論が決まってなければならないのだ。
同じことは、裁判官にも言える。変な国民のための判決なんて、一度でも出したら、その裁判官は、間違いなく、左遷される。つまり、裁判は、絶対に保守的になる。それは、人事を握っているのが誰かによって、最初から決定しているのだ。
同じことは、民間企業でも言える。どこの企業も、入社してから経営に関わるような、立場に出世するのは数えるほどで、それで上の年代は、それまでの競争で負けた側は辞めていく。
しかし、これが「官僚」制の本質なんじゃないだろうか。
定年までを、サラリーマンとして生きる多くの人々にとって、人事こそ全てである。人事が、自分がその会社を辞めるのか辞めないのかを決定する。だとするなら、ここが「民主的」にならない限り、いくら、熟議を民主的にしても、変わらないんじゃないか、という印象を拭えない。
では、どういったシステムが求められているのだろう。
長期的な未来予想図として言うなら、やはり、年功序列は、理想的ではない。年功序列があるから、肩叩きが行われる。だとするなら、基本的に、新入社員も長年のベテランも
同じ仕事
をしているような社会の方が、バランスがいいように思う。年配は管理職以外いらなく、管理職に人が足りてるなら、ベテランは定年前に次々と辞めていくようなシステムは、あまり民主的ではない。
逆に言えば、若くても、能力が認められれば、管理的立場に置いてもいい。ただし、そういった立場だからって、極端な収入の「差」にしなければいい。
結局、共同体の問題は、人事であり、人の流動性に、さまざまな人々の思惑がからむために、政治のゲームが各ビジネス(案件)ではなく、人事の方に変わってしまうところなのだろう(中国の儒教社会とは、そういった官吏の登用が全てになってしまった社会と言えるだろう)。だったら、各共同体内の人事を拘束する方向ではなく、その内部のポジションをできるだけ緩くするかわりに、中にいることを人々がそれほど「ストレス」に思わないようにする一方で、その中から、外に出て、別の共同体に入るなり、逆に外から中に入ってきやすくするなりの、
人の流動性
を、各共同体間で、あまりストレスなく実現するシステムが、さらに求められるだろう。
では、こういった各個人が、あまり生きることに「ストレス」を感じることなく、
緩く
仕事をしていきながら、しかし、社会的な効率が達成できるような条件とは、どういったものがあるだろうか...。
私は、民主党の「子ども手当」の賛成派である。その理由は、これが「子供の」BI(ベーシック・インカム)だからである。子供は収入がない。しかし、親はその子供を育てる「能力」に欠けている可能性がある。だとするなら、子供は、ある局面において、
自活
できる条件が必要だと思うからである。もちろん、「子ども手当」は親に支給されているわけで、その理想と一致しているわけではないが、そういった「弱い」存在を、結局は誰かがサポートしなければならない、という理念は一貫している。また、この理念を延長していけば、能力がありながら、経済的理由で、進学を「したくてもできない」というケースを減らせる可能性がある。
同じことは、老人にも言えるだろう。もし、日本国民の「老後の不安」を解消できたなら、国民の消費意欲は増し、景気は上向くであろう。
しかし、私たちのイメージは、老後はいくらお金があっても、若い頃の貯金が減っていくばかりで、いつか、一円も無くなったとき、飢えて死ぬのだろう、というもので、老後にどうなっているのかはまったく予測不能で、恐くて貯金しか趣味がない、みたいな感じになっている。
しかも、大病をわずらったら、いったい誰が助けてくれるのか。大病になって、お金がなかったら、治療できずに死ね、ということか、と。
実際、老人の「仕事」は、ほぼないに等しい。現代社会が、老人社会になろうとしているのに、今だに、何十歳以上は、使いづらいから、お断りみたいな、現場ばかりである。若いピチピチしたギャルにしか、社会自体が興味がない。
自分たちの体が衰えてきているのに、自分たちのイメージしている自画像は、いつまでも、ハタチの頃のピチピチのまま。
そのイメージのギャップこそが、今の日本社会の、ちぐはぐさを説明しているのかもしれない...。