ジェフ・ジャービス『パブリック』

この本を、どういった視点で読むか。この本は、一言で言えば、掲題の著者がディープなフェースブックツイッターなどのSNSユーザーで、その有用さを理解するがゆえに、いわゆる「プライバシー規制」の法的な動きと、そういったものとの対立を、SNSユーザー側の「自由」擁護から、抗議している、という感じだろうか。
こういった問題が著者が、なぜあらたまって、検討しているのかは、一般に、「プライバシー規制」を目指す法スキームと、著者が日常的にSNS上で公開していることとの差異が目立っているからなのだろう。掲題の本のタイトルの「パブリック」という言葉は、そのこととの関係を示唆している。

でも、隠すことはある。僕にも私生活がある。僕はすべてをパブリックにすべきだと言っているのではなく、そうする理由があるものだけを公開すればいいと思う。

僕の出発点は、他人を僕のガラス張りの家に引き込まないよう、できる限り慎重になりたいということだ。特に僕の家族、そして仕事仲間と友人たちを巻き込まないように。インターネットの黎明期には、こう書いたTシャツが流行った。「このことをブログに書きます」。僕は聞いたことをつぶやく前に、許可を得ている。だが、他者のプライバシーと自分のパブリックを区別しようと必死に努力しても、自分がパブリックにした事柄の関連でやむをえず周囲にわかってしまうこともある。

こうした取るに足らないとも言えない例外を除けば、僕はほとんどの行動や発言や考えをパブリックにしてもかまわない。だけど、僕はその全部、思案や懸念、願望や不安のすべてを公開することはない。だいたい、他人は誰もそんなことを気にしちゃいない。ネットの露出狂だと思われたくない----すでにそう思われているかもしれないが。ブログを書いていること自体もそうだし、局部のことを書いていればなおさら、そんな評判がたってもおかしくない。だから、パブリックにする時には、その理由を自問するようにしている。

著者が言いたいことは、まずもって、自分のプライバシーをさらけだす「自由」が自分にはある、という主張であろう。その場合、問題は、それとの関わりで、
他人にとってのさまざまなこと
が一緒に「公開」されてしまうケースがある、という部分になる。そうした場合、著者の基本的な態度は「許可(パーミッション)」をとる、というところにある。しかし、そうはいっても、そんな細かいことから、わざわざ、許可をとっていたら、きりがない。
そもそも、こういった「メモ」的な情報は、ユーザーの「ライフログ」的な活用と関係して実践されていたわけで、あまり、他人のプライバシーに配慮ばかりしていると、なにを言っているのか分からない文章になり、まずもって大事な自分にとっての有用さが担保されなくなる。
しかし、さらなる、そもそも論がそこにはある。そもそも、そんな個人的なことに、だれが興味を持つのか。基本的に、人々は本質的に自分にしか興味がないのであって、他人がなにをやってるかなんて、どうでもいいわけだろう。人は他人に無関心、というのが、私の基本的な考えであるだけに、あまりこういったことに、こだわることも違うように思える。
つまり、このフレームは「自己責任」論だということである。まあ、アナーキズムですね。この世の中にやっちゃならねえ、ことがたとえあったとしても、そんなことは自分で考えて自分で判断して振る舞え、と。なんでも、他人に命令されることを待って、言われたことだけやって「自分は間違ってない」ばっかり言ってるような生き方は違うんじゃないか、もっと、人は自由な存在なんじゃないか、といったところだろうか。
例えば、フェースブックは、そういった「公開」問題を、フェースブックを開発する側が、基本は「なんでも書き込まさせる」という方針だけに(そうやって、馬鹿なユーザーが間違って書き込んだ「価値」を、今後の企業運営に使いたい)、今度はそれらを
公開するかどうかの「設定」
を嫌になるくらい細かくやれるように、せざるをえなくなってしまった。少しでも面倒なことがありそうなら、そんな他人のサーバーの上に置かないで、自分の家の中のメモにでも書いておけばいいんじゃないか、と思わなくもないが、フェースブックとしては、あらゆるメモをここの中で管理させたいんでしょうね。だって、そういった馬鹿なユーザーがフェースブックに書き込んでくれることで、管理側が貴重な情報をゲットできる可能性がありますからね(もちろん、そういったユーザーのプライベートな生態は、企業の欲しがる「宝の山」でしょう)。まあ、だてに
無料
でやってるってことじゃないんでしょう。
そういう意味では、ツイッターのシンプルなストラクチャーは、分かりやすくていい。

  • その情報であなたが何をするつもりかをはっきりさせる

ブロガーが、「これをブログに書いてもいいですか?」と訪ねる時、彼らはそれまでの会話がプライベートなものだという前提に立っている。企業も同じようにすべきだ。第三者にデータを売ったり与えたりしたことを当局に強制されて明かすのではなく、その意図を最初から明らかにすべきだ。透明性がなければ、インフォームド・コンセントも信頼もありえに。

  • 情報を守る

誰かの情報を託された時、それをきちんと守るのはあなたの責任だ。たとえば、あなたが買い物客のクレジットカード番号を、あなたの不注意から盗難や流出の危険にさらしたり、オンラインゲームの会社でユーザのメールアドレスとパスワードを流出させてしまえば、あなたに対する信頼は失われるだろう。

  • 情報源を明らかにする

情報源に正当な評価を与えずに、その情報だけを流すのは、一種の窃盗だ。情報がどこからきたかは大切な問題だ。その情報の功績をオンラインで射止めるいちばん簡単なやり方は、リンクを貼ることだ。

  • 自分の情報にアクセスできるようにする

自分についてどんな情報が所有されているかを、本人が見ることができなければならない。本人がそれを適宜訂正したり、それに反論したりできなければならない。ヤフーは、ターゲッティング広告のカテゴリーを自分で変えられるツールをユーザーに与えている。信用調査会社は、僕らについての彼らの意見を僕らに開示することを義務づけられている。僕らの情報----僕らが生み出すものも含めて(僕らがつくるビデオも、友達のリストも、購買記録も)----は、もち運べなければならない。僕らはこの資料をコピーしたりもち出したりできなればならない(結局、それは僕たちについてのことだから)。

こうやって見ると、著者の立場は、非常に「古典的」と言っていいだろう。しごく、まっとうなことを言っているように思える。
宇野さんのリトピー本の「盗用」疑惑を自身のツイッターで、反論されていたのを読んだが、その対応がどこまで「誠実」なのかは、私には判断できなかった。
ただ思ったことは、こういったことは、これからも繰り返されるんじゃないか、ということだ。ブログは、無名の作者が、たんに無名で、無料で書き続けているなにかでしかない。他方、有名人たちは、そういった言論活動で飯を食べているのであって、偉そうに説教をしているが、ネタがなくなれば、一行も書けなくなる。だったら、そのネタをどこかから拾ってくるしかない。
そう考えたとき、作家が「無意識」という言葉を使うのは「卑怯」じゃないか、というふうにも思わなくはない。つまりそれは、匿名の言論だから、盗用して何が悪いと言っているようにしか聞こえない。
無意識とは、精神分析において、臨床医が、患者の治療の過程で、患者の「反応」から、発見するものであって、その意味とは、その治療の過程における、医者と患者との対関係において、正当化されるものであろう。だとするなら、それをその文脈から離れて議論することは、どこか文学の越権行為に思えなくもない。
もし、無意識なるものが「外在的に」存在するなら、人間に「意志」は必要ない、ということになるだろう。私たち人間が意志を表明しなくても、エリートは勝手に、大衆を
代弁
できる正当化の手段を調達できる。つまり、無意識を「計算」すればいい。そうすれば、どんなに大衆が文句を言っていても、
どうせお前(たち)の「無意識」はこう言ってるんだから、そういった「意志」の表明(熟議)は無意味だ
ということになるだろう。
こういった問題に対する回答は、基本的には、古典的な文献学といいますか、ようするに、参照先を常に、提示し続けることしかないのだろう。そういった古典的なコミュニケーションの延長で考える、というのが掲題の著者の視点ではあることが分かる。
そもそも、私には、プライベートとパブリックを分けるという感覚がよく分からない。というのは、あらゆることがプライベートであって、そうでないものがあるという意味がよく分からないからであるのだが、では、ある領域が「パブリック」であるということにしたとき、その「パブリック」な領域については、どんな扱いの差が生まれる、というのであろうか。
パブリックという表現には、つまり、自分ではない「相手」のプライバシーという意識がある。パブリック論者の主張は、本来、

  • 他人の隠していることをどれだけ「晒す」ことが認められるべきか

というところに論点があったはずである。ある人が、不妊で悩んでいて、養子をもらう選択をしたとする。子供には、大きくなるまで内緒にして、その事実を受け止められる年齢になったら、教えようとしていたとき、どこかの誰かが、それを調べ上げて、ネットに晒したとしよう。子供はまず、その事実以上に、その事実が「最初」に自分に教えられなかったことにショックを受けるであろう。
しかし、こうも考えられる。そもそも隠し事というのは無理なのだ、と。あらゆる事実は、真実のもとに晒されるのであって、ばれない嘘はない。最初に隠そうとしたことが、姑息だったんだ、と。
このように考えるなら、あらゆる「隠し事」がそもそも非倫理的で、守るに値しない、となる。人にはだれでも、表現の自由があるのだから、なんでも、やりたいという人を抑え込んで、やらないようにさせる、ということが、もともと、無理な相談だったのだ、と考える。
この問題の、おもしろいところは、「晒す人」には、「価値」が生まれることだろう。人が隠しているということは、その情報には価値があることを意味しているはずで、それを語る人その人そのものが、人々にとって、「有用」ということになる。
ジャーナリズムも文学も社会科学も、はたまた、自然科学だって、言ってしまえば、他人の隠していることの、暴露合戦であろう。それを、最初に言った人が、
勝ち
だというのだろう。
しかし、もともと、表現の自由とは、そういうことなのだろう。つまり、それを分かって発言しているのかどうか、なのだろう。つまり、言いたいことは、なにが「倫理」的なのかを、なにか外在的な規範によって、担保されたいと思うことが、卑怯であり低劣な態度なのだろう。
そんなことは自分で考えろ、ということで、これを言ったら、相手に迷惑がかかって、恨まれるんじゃないか、と思っても、「言いたい」なら、その覚悟で言うのであって、なぜそれを言うのかには、その「大義」があるのだろう、と。
つまり、そういった個人個人のことまで、なんで他人が、「規範」はこれです、なんて教育しなきゃなんないなんて思うわけ。そんなことは、人それぞれにきまってるのであって、相手が嫌がることをわざわざやっておいた後で、「なんでそんなことでくよくよしてんだ」と逆ギレするって、最低のKYだってことでしょう。
当たり前だが、相手が何を考えているのか分からない人と、ビジネスなんてできるはずがない。相手とお酒でも飲みかわして、相手の人となりを分かった上で、相手が嫌がることはなるべくしないように注意するのが、人間のまっとうな生き方であろう。つまり、ネットだろうが、どこだろうが、普通なわけだ。
しかし、他方において、また変なことを考えたりもする。
私は、そもそも、君主制の国では、「パブリック」は浸透しないと思っている。つまり、君主制というのは、基本は、主権が国民に「ない」から、君主なのだろう。国民とは、あくまで「臣民」のことなのであって、なぜ、臣民がこの国に生をさずかり生きているのかといったら、ひとえに、君主さまに滅私奉公するためであろう。
これは、もちろん、日本的な表現を使うなら、「建前」というものである。しかし、「パブリック」とは、そういうことだろう。そういった建前を生きるから、人々は自暴自棄になることなく、その二つの自分をバランスをとって、存在している。
(例えば戦前の天皇機関説がなぜ、あそこまでの右翼からの感情的反発を招いたのかといえば、ようするに「お前が言うか」問題なんですよね。天皇が自分で、そう自分のことを決めたた、と言うなら、敗戦直後の人間宣言のようなもので、だれだって、受け入れざるをえないとなる。ところが、どこの馬の骨だかわかんない奴(本当は偉い学者なんでしょうが)が、急に現れて、「君主って、そういうもんなんだよ、分かれ」って言われたら、なに勝手に君主を「お前が」規定してんだよ、って話になるわけでしょう。問題はその中身じゃなくて、それを決めるのが、誰なのか、の問題だったんだと思うんですけどね...。)
たとえば、もし、自分の子供がよく分からず、自国の君主やその子息を、嘲笑したり、「いじめ」たりしている言論をネット上に、吐き出し続けていたとするなら、どういうことになるだろう。
この場合の、「どうなるか」は、その子供やその親がどうなるか、ではない。大事なことは、こういうことが、一人あれば、その後、何人だって、同じことが起き、しまいには、そういうコミュニケーションが「普通」になるだろうと、「だれも」が考えるだろう、ということである。つまり、君主の「権威」が失墜していく、前兆と考えるだろう、ということを示唆している。
しかし、そういった発言がもし「匿名」であるなら、その言論の弾圧は比較的容易と考えられなくもない。例えば、日本における匿名言論の、究極の形態と言える、2ちゃんねるなら、そのスレを、とにかく、削除してしまえばいい。また、特定の投稿ごとに、管理者が削除することは、普通に今までも行われていたであろう。便所の落書きを、清掃会社の人が「掃除」するのは、普通のことだ。
実名の場合、「その人」の人権がどうしても問題になってしまう。その人の発言を抹殺すれば、その人の人権が侵害された、ということになるだろう。たとえそれが、君主と関係する問題でも(今でも、週刊誌と宮内庁は仲が悪そうだが)、どうしても、発言する当人には「人権」を考慮しないわけにはいかず、
大問題
になってしまう。そして、そういった「トラブル」を繰り返すことほど、君主の側が嫌うことはないだろう。君主の理想は「無為の支配」であって、君主がなにも、国民を「操作」しなくても、彼らの人格が全体の雰囲気を、理想的な状態に置くことであるのは、老子荘子の時代から変わっていない。
私に言わせれば、実名言論とは、「君主に並ぶ」固有名を、立ち上げる、一種の「革命」的な行為だと思っている。主権がもし君主にしかないなら、臣民である国民それぞれが、自らの「主権」を要求する、
自らを君主と並ぶほどの、価値ある存在で、君主と「同列」に発言をし、その発言が君主と同列に並ぶレベルの「神命」を下せる、といった
自らを「偶像崇拝」の対象
と比肩させようとする、「反キリスト」並みの行為と言えるだろう。そう考えるなら、あらゆる言論はそもそも、匿名でしかありえない、ということになるだろう。
しかし、他方において、匿名には、以下のような問題がある。

しかし匿名は臆病者の隠れ蓑にもなる。匿名の怪物----といっても人間で、ウォークラフトのキャラクターではない----がネットで人々を攻撃し、ジュリア・アリソンをいじめ、公人についての噂や嘘を広め、政治家のウィキページを破壊し、僕のブログにくだらないコメントを書き込む。僕はそうした書き込みをする人に、もし、僕と同じように実名を公開してコメントをする気概があるなら、もっとその意見に敬意を払うだろうと言っている。
実名制はネットでの人づき合いをより実のあるものにした。それがフェイスブックの鍵になる要因だった。

ここには、二つの視点がある。一つは、匿名は匿名でない、という面である。つまり、匿名と言っておきながら、書いている人(少なくとも、端末)は、かなりの確度で(少なくともプロバイダー視点では)特定可能で、むしろ、そういった特定をされないようにすることの方が「面倒」ということである。
もう一つは、上記の引用にもあるように、これが「SNS的繋がり」の視点で、「匿名」と言われていることであろう。つまり、「つっこまれる」側から見て、つっこんできた側が「特定」できない、という指摘だということである。
つまり、ここの前提には、「SNS的繋がり」についての考察が欠かせない、というところがポイントだと言えるだろう。

社会的破産の法則 より多くの人とつながれば、より多くの人に煩わされることにもなる。彼らは期待を抱く。あなたが彼らのコメントや質問に答えることを望み、中傷メールさえ送りつけ、今ではフェイスブックツイッターやクオラといったユーザー同士が質問し合う新しいサービスで、あなたにちょっかいをかけてくる。もうたくさん! 僕がメール破産を宣言してから、ずいぶんと経っている。全部のメールに、というか知人からのメールにだって返事ができないし、ましてやソーシャルメディアの新しい友達に返答することなど、とうてい無理なことだ。電話が話し中だった時代、僕の時間も関心も限られているように見えた時代が懐かしい。テクニカルタームで言いかえよう。<パブリックであること>は規模の拡大にうまく対応できない。
テクノロジーが引き起こすこうした問題は、テクノロジーを使って解決することができるかもしれない。フェイスブックのニュースフィードのアルゴリズムは、「コンテンツにつながっている友達の数、コンテンツの発信者、コンテンツの種類」によって僕らがもっとも興味をもちそうなニュースを予想してくれる。グーグルのGメールは迷惑メールを排除し、「重要」メールを取り出し、優先順位をつけてくれる。新しいテクノロジーが僕らの習慣をどう変えるかは容易に想像できる。その昔は、約束のものが遅れた時には「郵送中」と言ったものだ。メールに返信しなかった時には、「迷惑メールボックスに入っていた」と言い訳した。これからは、「グーグルがあなたを重要だと思ってくれなかったようだ」と言うだろう。グーグルのヴァイスプレジデント、マリッサ・メイヤーは、アルゴリズムが、メール、ニュース、つぶやき、フェイスブックの更新といったすべてのフィードを分類して、優先順に並べ変え、「自分だけのニュースストリーム」を流してくれる日を夢見ている。テクノロジーはそれを全部かなえられないし、僕らもそう望んでいるわけではない。しかし、散らかした責任の一端はテクノロジーにもあるのだから、片づけを手伝ってくれることを期待しよう。

「SNS的繋がり」の特徴は、一つは、その「インフレーション」にあると思われる。つまり、人数の問題である。私たちは、そもそも「暇」じゃないのだ。相手が、今日、何を食べたか、とか、興味がないわけじゃないけど、基本的には、どうでもいいわけである。暇なときのネタとしては、話題が広がり、また、興味深い熟議になるかもしれないけど、基本的に、
そんなもん読んでる場合じゃない
わけだ。他人のライフログなんて、どーでもいい。そんなに他人をアイドルみたいに、おっかけたいわけじゃない。他方において、相手にとってもそうなわけだ。相手も、そんな有用な話題を、体系立てて、長文ブログにしている暇なんてない。
この問題に対する、掲題の本の考えも、あまりに「古典的」と言えるだろう。

一面の法則 ニューヨークタイムズの一面に出て困ることは言うべきではない、というのはこれまでずっと言われてきたことだ。このウィキリークスの時代に、それはさらに現実味を増している。だが、僕はこのルールを逆さにしてみたい。一面に載せられることを言うわけだ----ツイッターフェイスブック、グーグルといった新しいメディアの一面に。

ようするに、他人が退屈するような、くだらないことを書いてそれを他人に読ませることは、他人への「迷惑」という面がある、ということであろう。
だからといって、それをやっては「いけない」ということではない。あなたには、それをやる「権利」も「自由」もある。
でも、そんなことばっかやってたら、友達に嫌がられるだろう? 掲題の本の最終的な主張は、ネットも一つの現実社会であるのだから、「パブリック」にするなら、他人を不快にさせることを無自覚に振る舞うのは非常識だ、という、まっとうな「社交論」だと読めなくはない...。

パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ

パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ