「一般意志2.0」はユートピアか?

ここのところ、何回かこだわって書いてきたのだが、結局のところ、東さんという人の「一般意志2.0」という本が、なにが言いたいのか、または、どういった文脈でつぶやかれているのかが、今一歩分からなかった、というのが印象であった。
著者の論点のポイントがどこにフォーカスされているのかが分からないので、だったら、読者側が、なんとか(著者がどう読まれ「たい」かなどどうでもいいんで)読者側の視点で整理していくしかないんじゃないか。
この本のポイントは、二つの側面から両面攻撃のように、議論されているわけだが、その二つの視点が、一般的なアカデミズムの思想とどのように、著者が対決しているのか、という所がポイントなのではないだろうか。

  • 著者の今まで考えてきた持論(一種のフラットな人間観と、そこから導かれる、一種のエリート主義)。
  • それが「未来」の人類社会で「評価」されるという期待。

著者には、なにか昔から思っている持論のようなものがあるようなのだが、しかしそれは、今のアカデミズムと相性がよくなく、理解されない。分かってもらえない。
しかし、そういったものも、こと「政治」とか「民主主義」と関係して提示することで、人々の論点に引き上げたい、というところになるだろうか。
まず、一点目が一種の「フラットな人間」である。

荻上 東京にいるぼくらが口出しできる部分は非常に小さいですしね。たとえば、海外に行って、Uターン愛国者になって帰ってくる人っているじゃないですか。よく聞くのが、海外に留学したら周りから日本についての政治的な質問を投げかけられて、「外国の人はこんなに国家のことを考えている」と思うとかっていう。
ただ、これって典型的なディスコミュニケーションだと思うんですよ。そもそも外国の人も日本についてあまり知らない、漠然としたイメージしかないから、会話のネタとして「国」とか「文化」とかって話題を振ってくる。日本人だって外国人に、似たようなことをしているわけですよ。しかも、旅行や留学で「出会える」範囲の相手に触れて、そこでの空気を「海外ではこうなんだ」と思い、「他者と出会って変わった」と思い込んだりする。
それとはコインの裏表のようで、「他者に触れなければいけない」と思っている人たちが、じつは鏡に写った自分自身のような相手としかコミュニケーションできないという構図は、避けようがないのではないかという話ですよね。
それでも、限界を超えて「他者」を掘り下げていく人は、メディアの側や政治家でもぽつぽつと出てくると思うんですよ。たとえばルポライターやノンフィクション作家の人たちは、より「遠く」へ、より社会の「下」へとある種の競争をしている。そこにはマッチョな面もあるのだけれど、それでもそういう人たちはいる。
東 根拠なく言いますが、そのプロセスって今世紀の真ん中くらいに終わるんじゃないですかね。そもそもいまは、地球という惑星全体がすごい勢いでスーパーフラット化している。その勢いは、20世紀の最後の2〜30年からどんどん加速している。
たとえば、旅行で自由に移動できる範囲がかつてはヨーロッパ、アメリカ、そして日本だけだったのが、アジア、中国、インドといったところにまで広がり、いまや何十億という大衆が、ちょっと貯金すれば国外旅行に出られる時代に突入しはじめている。生まれた場所による格差はありつつもね。
荻上 昔から学生やバックパッカーが全財産を投げ打って旅行して、そのまま現地に住み着いた、なんて話はありますよね。
東 バックパッカーはまだ「探検」だったんだけど、いま起きているツーリズムの全面化はもはや探検でもなんでもなくて、本当に世界が「同じ」になりつつあるということだと思う。
世界中どこにいっても、同じようなブランド、商品があり、同じような街が広がっている。もちろんそれぞれの場所にそれぞれの名所、それぞれの観光地はくっついているわけだけど、人間社会はいままでなかったくらいに等質になりはじめている。
これからの社会思想はその等質な世界を前提にしなければならない。つまりぼくたちは、いまや地理的、空間的には他者をイメージできない世界に入りつつあって、さっき言ったみたいにこれからの他者は「すぐ隣りにいる他者」になってくるんですよね。
荻上 50年後は100億人口時代だと言われてますけど、100億総フラット時代になっている、と? ぼくは率直に、もっともっと時間がかかると思うんですが。そもそもトイレがない、下水もない、世界の半分くらいはいま、そんな状況ですから。
東 それでも、いままでの常識に照らせばかぎりなくフラットでしょうねえ。そのなかでももちろん貧富の格差はあるでしょうけど。
荻上 そうなると逆に、日本の状況と同じように、「みんなが中流化した」という言説が多くなって格差がケアされない、という状況にはなっていくんだろうなという気はしますよね。
で、より社会が分断されて、自分の国の内部の貧困や差別が露わになり、「かわいそうな人たち」を求めて海外へ行くという競争が成り立たなくなったときに、それらの問題を包括する概念がおそらく必要になってくる。「プロレタリアート」「プレカリアート」では包括しきれない、国や社会を超えて特定の階層の人たちを語り直す言説は、きっと出てくるという気がします。
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はるか未来においては、各地域による、人々の差異がなくなり、「みんな同じ」になっていく。同じであれば、自分が考えたことが相手に通じないということはなくなるだろう。自分が思っていることが、相手が分からないなら、相手が「分かろうとしない」ということになるだろう。
自分が言いたい「真意」を汲んでくれないのは、相手が「悪い」ということになる、と。
そう考えるなら、「他者」というのは、どこにもいなくなる、ということになる。自分が「分からない」他者は存在しないが、自分を分かろうとしない「敵」は、い続ける、ということになる。
このフラットな人間観を延長していけば、まず、「人権」や「平等」は、もはや「論点」ではなくなる。なぜなら、みんな「同じ」なのだから、
意志が通じない
という事態が「そもそも」起きないのだから。

荻上 「外れ値」を残すかどうかは参加者、プレイヤーたちの判断で決めるということですね。『一般意志2.0』ではアーレントなどにも言及されていて、そこで提示される熟議モデルの限界性も指摘されています。ただ一方でアーレントなどは、強大な差別、ときとしてジェノサイドなどを生み出してしまう人間へのブレーキとして、反実仮想としての熟議を提示していた面もありますよね。
東 それはもちろんそうですよね。
荻上 差別のブレーキとして、ノイズの歯止めをつくりたいという欲求は必ず出てくるだろうと思うのですが、それはいかがですか。
東 いや、だからおそらくは段階論だと思いますよ。やはり人類はそれなりに進歩しているわけで、100年、150年前に比べれば人権意識や平等意識は人類全体にずいぶん浸透したと考えていい、とぼくは思う。
荻上 ぼくも基本的にはそう思います。
東 人間が他人を完全にモノとしてみなし、奴隷を酷使して殺してしまったり、子供を鉱山に送り込むといったことは、「減っている」という前提の上で……
荻上 もちろん「それでもまだある」ということもまた前提の上で……
東 そう、そのうえで、「それはなくなるべきだ」という理念くらいは全世界に行き渡っているという前提のもとで、はじめて成立する議論だと思いますよ。だから、どの国でも通用する提案だとは思わない。人間が他の人間を動物のように扱っていた時代が終わって、人間はすべて人間なんだ、お互い尊重するべきだという理念が非常に大事だ、というのは当然の話です。
しかし、人間がお互いに人間として最大限に尊重することは社会にとって、あるいは個人にとってもあまりにも大きな負担でもあり、それにより身動きできなくなっているような段階もある。というか、最初の「無限の他者」の話に戻るけれど、ぼくは現代はそういう時代だと思うんですよ。ぼくの『一般意志2.0』は、その前提のうえで今度はそれをどうやって逆側に解除するかという話でもあるので、そこは単純に段階を踏んで受け取ってもらいたいですね。
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ここの議論は一番分かりやすい。つまり、著者のポイントは、「人権意識や平等意識」が浸透した「後」の世界を「心配」している。つまり、あまりそっちが完成しすぎると、さまざまなエントロピーが増大するから、今のうちに、そのバックラッシュを考えておこう、ということになる。つまり、逆に「人権」や「平等」の
制限
が人類社会には必要なんだ、と。
私がここのところ、こだわり続けていたのは、そもそもその「人権意識」や「平等意識」ということで、なにを言いたいのか、という、その「定義」なのだが、著者はそこを
華麗にスルー
し乗り越えちゃってるようだ(だから、こういった文系の人の議論は苦手なのだ)。
たとえば、稲葉振一郎さんの以下の本では、「公共」という言葉への忸怩たる思いが書かれている。

すでに述べたように「公共性」とはあいまいで煮え切らない言葉であり、ハーバーマスの Offentlichkeit はむしろ「公共圏」「公共領域」と訳すべきことは確かでしょう。またこれまで日本語圏において「公共性」なる言葉は、実際にはほとんどの場合「××が公共的であること」の意で、文法的に言えば形容動詞として用いられてきたと思われます。

しかしながらいまさら「公共性」という言葉を使用禁止にするのも癪だ、というのであれば、いま少し厳密----とは言わないまでも意識的にこと言葉を用いる必要があります。そこでとりあえず本書では以後「公共性」なる抽象名詞を、先に述べたような状況、様態を指す言葉として用います。そうすれば「公共圏」は、この「公共性」の理念、感覚が共有されている人々からなる社会領域、とでも言うべきものになります。

「公共性」論

「公共性」論

なぜ、こんな回りくどいことを稲葉さんが書かれているのか、ということですよね。
私たちは、千年王国を夢見たユートピア思想を捨て、この現実を「暫定的正当性」の上に考え、さまざまな諸条件を漸進的に「よりまし」な方に改訂していく、現実主義的な実践を生きているわけで、そういった「抽象的な」言葉で、なにかを考えているつもりになっているわけにはいかない。それはどういった「実証」によって、担保されるのか、と問うしかないだろう。
しかし、いずれにしろ、そうやって著者がさまざまなことを華麗にスルーしていくと、そもそも、
ファシズム
はなにが悪いのか、ということが、逆に疑問になっていくわけだ。

専門家に任せながら、それを大衆が監視するということしかないと思うんですよ。大衆が判断しちゃいけないんですよ。

熟議というのは専門家やスペシャリストがやればいいんですよ。決定権は僕は絶対に専門家に決定させるべきだと思っているわけ。なんでも。

僕のこの本って、最終的な結論っていうのは、読んでいただければ分かりますけど、読んでいただいてるから分かると思いますけど、全員が全員でものを決めなくていいって発想でもあるんですね。一部のエリートがものを決めていたとしても、その回りを大衆の無意識がとりかこんでいれば、いいんだと。いう。だから、熟議のまわりを一般意志がとりかこむ。それが、新しい時代の政治モデルで、今までは、選挙で政治に民意を反映してたんだけど、選挙じゃなくて常に可視化されてるネット上の、つぶやきたち。それが、政治家や官僚をとりまいているので、結局、政治家や官僚もその空気を読まなくてはならなくなるので、たえず、ちっちゃいデモやちっちゃい選挙がずっとネット上で起こってるような状態。

逆に共産党が一党支配だったとしても、たとえば一般意志2.0のようなシステムが導入されてしまえば、共産党のエリートたちは常に中国の10億の市民たちの動向とか気持ちみたいなものを配慮しないと政治が決定できなくなるのかもしれない。そうなれば、もう一種の民主化が達成されたということなのかもしれないですよね。だから、結局、政治家たちがどう選ばれるかとか、官僚の登用のシステムがどうなっているかとか、関係がない民主主義というのもあるのかもしれないのですよ。それが僕がこの本で言おうとしていることなんで。

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著者が思っている、昔からの疑問とは、まさにこういった、ドストエフスキーの「罪と罰」のような、

  • 「大衆が判断しちゃいけない」
  • 「決定権は僕は絶対に専門家に決定させるべき」

という、民主主義の否定の部分にあるのだろう(著者は「それ」を民主主義と呼ぶわけで、つまり「ニセ民主主義」)。しかし、問題はなぜ著者がそう考えるのか、というところにポイントがある。
(ようするに、「熟議を行っている専門家(政治家)と、それをとり囲む大衆による、つっこみ」の発展ということでは、だれも反対なんてしていない。専門家や政治家が、大衆の主張を、より「眺めて」もらえた方がベターであることにだれも反対などしていない。そうではなく、そういった実践的な取り組みと、上記のような著者の持論は、直接はなんの関係もないだろう? ということを言いたいわけだ。)
こうやって考えてくると、著者の見立てでは、そもそも中国「共産党の一党支配」さえ、なぜ悪いのかが分からなくなる(つまり、左翼のプロレタリア独裁でいいわけだ)。
そういう意味で、右翼の左翼批判の根拠を否定しているという意味で、右翼には評判が悪く、左翼の側からはその「人権」や「平等」の制限を主張する(大衆に選挙、選択「させない」)という意味で左翼には評判が悪く、著者の「闘い」は、どうやって自分の主張を「支持」してくれる人たちを発見「できる」か、ということになるんですかね...。