嫌「反体制」

ここのところ、

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

という本が話題であるが、買って読んでみて、思ったのは、この本は、311から繰り返されてきた、原発論争の、たいへんいい総括になっている、ということではないだろうか。
それは、この本でとりあげられている、トピックそれぞれが、非常にその「典型」となっていると思えるから、である。

これらに共通するのは、読んだ人が、
いろめきたつ
ような、かなりエキセントリックな発言になっていることであろう。
(私たちは、今、311による、精神的ショックから、なんとか、立ち直ろうとしている最中と言えるわけで、そういったプロセスにおいて、上記のような、幾つかの典型的タイプの「バックラッシュ」に対して、「免疫」をもつことが、次のステップへ進む上で、必要な作業、ということになるだろう。)
大橋弘忠という人については、原子力ムラの人々が、311以前に、どのような言論を行っていたのか、という典型として、(しかも、小出裕章さんとの対決という形で、)象徴的に示している。ここが、おそらく著者がそれなりに実感をもって、言いたかったことの核心なんじゃないだろうか。

ところが「私は水蒸気爆発の専門家です」と自称している大橋教授には、そういう誠意はありませんでした。それどころか、私は大橋教授が、水蒸気爆発という現象について、物理学的にきちんとした知識をもっているのかどうか、疑っています。なぜなら、大橋教授の書いた論文のリストを見ると、彼の専門が水蒸気爆発ではなく、コンピュータによる簡単なモデルのシミュレーションであることがわかるからです。
私自身、複雑系と呼ばれる分野で、コンピュータ・シミュレーションを用いた研究をしていたことがあるからよく知っているのですが、こんな手法で計算できるのは、単純な流体の抽象モデルの挙動を調べるくらいが関の山です。たとえばビーカーの中で水が沸騰する、という程度の現象を抽象的に論じることでさえ、非常に難しいのです。ましてや、原子力発電所で大事故が起きてメルトダウンが生じたときに、水蒸気爆発が起きるかどうか、というような、非常に具体的で複雑な事態は、決してシミュレートできません。もしできると思っているとしたら、それはとんでもない思い上がりです。
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

結局のところ、原発問題が、なぜ、311以降において、こういった「感情的反発」となるのかは、こういった「過去の総括」が十分でないから、さまざまな過去の「亡霊」が甦ってしまうからであろう。過去に、原子力村の一人一人がなにを言っていたのか。その一つ一つを「総括」しない限り、何度も何度も、責任者たちの過去の振る舞いが、ひっぱりだされて、そのたびに、釈明を求められるようになる。
香山リカという人については、いわゆる、心理学という学問の「あいまい」さが露呈しているように思える。精神分析は、患者との対関係において医者が患者に対してとる態度をあらわしているわけで、こういった社会問題に、その態度を適用しようとすると、どうしても、諸刃の剣になってしまう。一見、成功する場合もあるが、他方において、こういったように、かなり「トンデモ」な議論を、人様に開陳してしまうことにもなりがちなのだろう。
池田信夫という人については、私もこのブログで著者と似たような批判をした記憶もあり、また、著者の批判に基本的に同意であるので、今さら付け加えることもないという感じだろうか。
ということで、ここでは、百歩譲って、この人が何を言いたいのかを、「好意的に」解釈するなら、どういうふうに言えるのか、という方向で以下は思考実験をしてみたい。
ようするに、
原発を作る「自由」
を、「さまざまな」自由と同じ土俵に乗せなければならないんじゃないのか、という疑問なのであろう。そのルールはなんなんだ、と。
ここで、一回、原発ということを忘れて、私たちが、なにかのアイデアで、起業しようとしたとき、どんな場合であれば、そうやって、起業しようとしている人のビジネスを「禁止」に変えられるか、と問うてみよう。
自分が、原発が儲かりそうだと思って、世間は、原発いいじゃん、とついこの前まで言っていたわけだ。じゃあ、自分の全財産を原発に投資した、としよう。
ところが、ある日を境に、原発はやっぱりダメだ、と言い始める人があらわれ、「民主主義」によって、原発が禁止になったとする。
すると、全財産を投資した人は、スッカンピンになる。
困る、と。
私は池田信夫という人の主張は、一般意志2.0 に近いと思っている。一般意志2.0 は、かなりオブラートに包んで書かれているが、あの本が言いたいことは、ようするに、素人(大衆)が「直接」に、政治的決定に関与することで、ポピュリズムによって、

が、ないがしろにされ、国家が道を誤る(人々の、自由や権利が、侵害される)ことを避けたいから、と言えるだろう。
大衆の無知による、政治的誤選択を回避する、最も簡単な方法は、大衆に「直接」は選択させない、ということになる。
大衆は、直接は、政治的選択に介在させないが、大衆には言論の自由は、存在する。つまり、これは一種の「貴族制」なのだろう。国民のあらゆる「つぶやき」は、
貴族院の議員
に対して、ぶつけられ、その言説は、彼らに、「届く」ようなインターフェースを用意することで、大衆の「不満」を打ち消し、削ぐ。
池田信夫という人が嫌うのは、大衆のポピュリズムによって、自分たちの「イノベーション」が邪魔をされ、「こうやれば間違いなく儲かる」という「計算」の根底を、ひっくりかえされる、という「リスク」が
耐えられない
のだろう。原発推進派に、
今回は
池田信夫のような、口の悪い奴がいるので、俺こいつ嫌いだから、こいつが嫌がることをやりたいんで、原発なんて「開発」できないようにしてしまえ、もし、池田信夫のような嫌な奴が原発推進派がいなかったら、許してやってもよかったんだけどなー、みたいな。
こういった、ポピュリズムが沸騰されたら、俺は一生、儲けられねーじゃねーかー、といったところでしょうか。
つまり、そうやってランダムにポピュリズム的選択によって、国家がグラインド飛行を繰り返すことが耐えられない。
(近年、嫌韓という言葉がはやったが、つまり、これは、

ということになるだろうか。)
そもそも、自由主義は、民主主義と相性が悪い。自由であれば、才能のある奴が儲かるわけで、必然的に格差社会となる。つまり、東大に入ったような人が成功して儲かるのが、自由主義なわけだ。しかし、もしそうなっていないとしたら、それは「社会」が、完全な自由主義になっていなく、民主主義が「邪魔」をしているから、ということになるだろう。
つまり、諸悪の根源は、民主主義だということになるだろう。では、もし、民主主義、つまり、選挙がなく、政治家がいなかったら、どういう社会になっている、と考えられるだろう。
そもそも、日本の今の現状においてさえ、基本的に日本のほとんど全てのことは、官僚がやっている。ということは、国会議員もいらないわけで、すべて、官僚の方々にやってもらえばいい、ということになるだろう。
こうやって、わりきってしまうと、社会は実に単純に「縮減」される。
まず、60年代の全共闘世代のような、「反体制」は、ナンセンスとなる。言うまでもないだろう。優秀な官僚が判断をするのだから、社会はうまくいくのであって、その「うまくいくもの」に、いちゃもんをつける、「反体制=左翼」は、その今ある社会の秩序に、いちゃもんをつける、非常にたちの悪い「不良」ということになる。社会のルールを変えたいなら、官僚にお願いをすればいいのであって、全共闘のように火炎瓶を投げるようなのは、時代遅れ。逆に、そんなことをしたら、市民に迷惑がかかるのであって、そんな「反社会的存在」は牢屋に入れて当然。
(たとえそうだとしても、なるべく、高校生は教師が気に入らないからといって、簡単に退学にさせられるような社会は、精神衛生上あまりよくないとは思うんですけどね...。)
つまり、

  • 嫌「反体制」

となるわけだ。
池田信夫という人にしてみれば、今の社会的合意のラインは、中西準子的なリスク論の延長にあるということになるのだろう(実際、アメリカの政治の現場も、ある程度、そういった形での実績があるのであろうし、日本の官僚も、かなり、真面目に信じているのだろう)、むしろ、社会は「自由」のために、こういった「公害」を忍従しなければならない、ということなのだろうorz。
そんなことを言う自分は、どんな考えなんだ、となるわけですが、自分としましては、比較的、ジョン・グレイの「暫定的正当性」のようなアイデアに近くありまして、今の政治が、民主主義(選挙)を採用しているなら、それには、それなりの利点があるのだろうから、あまり、急激な変化は望ましくないのだろうな、という程度の、かなり「保守的」な考えになるだろうか。
たとえ、民主主義が、なんらかの「ベスト」でない行動を起こすことがあるとしても、人には「愚行権」って、あると思っているので、ある程度は忍従せにゃ、なんないんだろう、とは思うわけだ(それも、私たちが現場で学んでいく、高い授業料なわけだ)。
たとえ、大衆が多くの場合、専門的な知識をもっていないとしても、それなりに、集合知を信じる立場なもので、投票には、それなりの「真理」が反映されているんだろーなー、と考えるだけに、私は、それほど大衆に絶望していない、ということになるだろうか。
まあ、どっちみち、国民全員が、それなりに啓蒙されて、意識が高くなっていってもらわなくちゃ、エリートだけ良くても、国の未来は明るく元気にはならない、という考えということですかね。
ハーバーマスが、ギリシア金融危機で、金融政策を優先するがゆえに、国内の民主主義がないがしろにされた事態を皮肉っていた。

EUの危機およびユーロ危機の舞台の主役たちは、二〇〇年以来、金融産業の糸に操られてびくびく揺れている。その主役たちが今や、共演者のギリシア首相にとさかを逆立て怒りを向けたのだ。この首相は、自分たちが力を誇示していても実は操り人形にしかすぎないことを、思いきってベールを取って見せてしまったのだ。その後、[メルケルサルコジから]譴責されて、折れてしまった。この転向ぶりにとらわれて、こうした一連の舞台からなにを学ぶべきかを、われわれは忘れてはならない。
(ユルゲン・ハーバーマス「民主主義の尊厳を救え!」)

世界 2012年 02月号 [雑誌]

世界 2012年 02月号 [雑誌]

金融の舞台こそ、民主主義を最も嫌う分野であるだろうし、こういった、民主主義の「ネグレクト」が進むことは、今後激しさを増すのだろう...。)
こんな感じで、かなり「保守的」な部分がありまして、過去の日本人が、こういった未来を夢見ていた、というなら、私たちは、基本的にそういった方向を目指すべきだろう、と思うし、かといって、今ある慣習をことごとく破壊して、今生きている人たちの生活基盤を抹消して、国民内の心理的不和を大きくする
急激な変化
は、社会秩序的に、採用をためらうのは、普通だろう、と。マキャベリ的に、その場その場に合わせて、個々具体的な「技法」によって、
漸進
的な、グネグネと曲りくねった道をたどりながら、でも、少しずつ漸進してくれているならいいなー、という感じでしょうか。
しかし、そんな甘っちょろいことを言ってるからダメなんだとダメ出しをされそうですが、たとえば、環境倫理学者のキャリコットは、エコロジーの考えから「人間中心主義」を基本的に否定する。こう言うと、現代的な観念からは、かなりエキセントリックな話になってくる。
「人間中心主義」の否定とは、あらゆることに優先して、人間の自由や権利が優先されなくていい、という考えなわけで、かなり、「危険」な印象をおびてくるわけです。

保全生物学者のデイヴィッド・エーレンフェルドが、人間中心主義的(アンセロポーセントリック)でない環境倫理へのアプローチを提唱したすぐれた論文は、正当にも古典的名論文として高い評価を受けているが、その中で、彼は絶滅の危機にあるヒューストン・ヒキガエルの例を挙げて、つぎのように語っている。「このヒキガエルが人間にとってなんらかの資源的価値があることは証明されていないし、また今後も証明されるとは思えない。そして、このヒキガエルが絶滅しても、他種のヒキガエルがとって代わるだけであり、ヒューストンの市街地やその郊外の環境に影響を与える可能性はない」。
同じような例として幾千もの生物種を挙げることができるだろう。絶滅の危機に瀕している生物種はあまた存在するが、それらが滅んでも、たいていはっきりわかるほどに人間の幸福を減少させたり、人間の権利を著しく縮小させることはない。にもかかわらず、資源にならない生物種を行き当たりばったり人間の影響によって絶滅させることに対して、エーレンフェルドを筆頭として多くの人々が道徳的な不安を感じている。エーレンフェルドや似た精神の持ち主たちが抱くこのような環境倫理的な直観は、伝統的な人間中心主義の倫理では、説得力をもって明確に表現したり、裏づけたりすることはできない。しかし、このような直観がアメリカの「絶滅危惧種保護法」[一九七三年制定]の背後にあるのはあきらかである。

地球の洞察――多文化時代の環境哲学 (エコロジーの思想)

地球の洞察――多文化時代の環境哲学 (エコロジーの思想)

人間中心主義は、現代社会の全ての基本なわけで、それを否定する、ということは大変なことなわけです。今後、人口がどんどん増えて、地球上の食料で足りず、飢える人がでてくるかもしれない。そうした場合に、
でも、環境破壊は壊しちゃなんない
ということで、人々が飢えたり、今度は、今の中国のように、一人っ子政策のような形で、人口統制することが普通の世の中になっていくのかもしれない。
こういった問題をどう考えたらいいのか、といった難しい問題に直面するわけですね。
たとえば、結局、なぜ、今まで、人間は生きてこれたのか、と考えるなら、過去から同じような
慣習
を続けてきたからなのだろう、と考えるわけです。だとするなら、そういった過去の慣習を、簡単に捨てていいのか、という問いから考え始める。
そうすると、環境倫理学とは、結局は、土着の慣習、つまり、
各地域の伝統的「倫理」、を重視するようになる。たとえば、
ユダヤ教キリスト教イスラム教、ヒンズー教、仏教、道教儒教、日本仏教、禅、インディアンのシャーマニズム...
こういった各地域にあまねく、広がってきた、土俗の慣習的倫理には、そういった「人間中心主義」とは異なった、環境倫理学的なエートスが含まれていたのではないか、だから、人間は今まで、その地域の
決定的な壊滅に至る破壊
を「禁忌」として、こうして世代を重ねてこれたのではないか、という推論ができる。
だとするなら、こういった古典的価値観を、簡単に捨てることは、「合理的」なのかは、そんなに簡単なことではないのかもしれない、とは考えられるわけであるが、果してどうなんですかね...。