女たちの「女たちの<銃後>」

この前、紹介した本であるが、なんとか最後まで読んで、とにかく、印象は、非常に、おもしろかった。
それは、いろいろな意味でそう思うのだが、まずもって、戦前を語るということの必要を感じている現代の言論人を、あまり思いつかないなあ、という意味で、大変に貴重な本に思えた。
なぜ、現代の言論人たちは、戦前を語らないのだろう? もちろん、戦前を語るためには、戦前を調べなければならなだろう。そりゃあ、知らないのだから。しかし、それは「必要」なのではないか? 今を語るには、戦前を知らなければならないのではないか?
政治を語るということは、過去から現在へ至る今の、その全体を総括して、未来を展望するのではないか。私たちが目指す未来は、そういった過去の人たちの思いの延長にあるのであって、そういったものとまったく関係ないかのように、どっかから変な理屈をもってきて、「論理的」に導かれましたーとかいうのは(そりゃ、頭がいい人には、そんなこともできるんだろーが)、本当に、恐しさを感じる。
たとえば、新しい歴史教科書を作る会というものがあった。あの会が変だったのは、そこで選ばれる日本の尊敬「できる」先人の選び方、また、その選ばれる「理由」が、戦前の徳育と変わらない復古的価値観だと考えられたからであろう(そして、それを戦前のように、義務教育によって「強制」しよう、ということだったからだろう)。
しかし、だからといって、こういった過去の人たちが、なにを目指し、なにを考え生きていたのか、そういった人の中で、自分に対して尊敬を抱かずにいられない人がいるんじゃないか、と思うことは普通のことではないだろうか。

八木秋子がジャーナリズムに登場した早い時期の文章に「優れた女性」(『婦人公論』一九二七年一月号)という短文がある。この中で秋子は、優れた女性としてマルセル・マルチネの「夜」の女主人公マリエットをあげ、ロープシン『蒼ざめた馬』の主人公ジョージのことばをひく。ジョージは愛を哀願するエルナに向かっていう。

「ある女達は忠実な人の妻であったり、熱烈な恋人であったり、誠の深い友達であったりする。しかし彼女達は、優れたタイプの女----生まれながらに女王である女----とは較べものにならんよ。そういう優れた女は誰にも彼女の心を与えやしない。彼女の愛は選ばれた一人に与えるすばらしい贈物なんだ」

私は「夜」のマリエットについては、八木秋子が記す以上のことは知らない。しかしこのジョージのことばが引かれていることで、八木秋子の求めるものは充分うかがえるように思う。「生まれながらに女王である女」----このことばに秋子が託したものは、つねに自分以外に主人を持たない女、思想においても行動においてもつねに自分自身である女、である。それは、その五年前に書かれた「婦人の解放」(『種蒔く人』一九二二年二月号)の延長線上にある。そこで秋子は、婦人の解放にとって、「あらゆる思想の根本である自我の追求」の必要を説き、女の「自我の追求」の不徹底さ、臆病さをことば激しく論難している。

「自己を容赦なく掘り下げて、確実なる自我の姿を発見せんとする努力ほど真剣な苦しみはないであろう。女性の多くはその恐しさに堪えないで、つとめて避けようとする、そして大抵はよい加減な所で妥協してしまうのである。深刻さが足りないのだ」

こういうとき、実は彼女は自分自身を語っていたのだ。このとき秋子は、苦しい葛藤のすえに「婦人にとって絶えがたき恩愛の絆」と「経済的庇護」を断ち切って、夫と子どもを捨て、精神的にも経済的にも自立の第一歩を踏み出したばかりであった。彼女の文章が息せき切ったひびきを持つのも無理はない。
女たちの「銃後」

最近、保阪正康さんが本を書かれているが、

例えば、農村青年社は、当時において、徹底的に、弾圧されて当然のような組織であったのだろうか。もし違うなら、たとえそれが、戦前のことであろうと、
名誉回復
がはかられなければならないんじゃないのか(そうでなければ、また同じ過ちが繰り返されることに反対しない、という意志表示とされるだろう)。それが歴史の連続性ということであろう。
言うまでもないが、反体制の反対は、
普通の庶民
じゃ「ない」。反体制の反対は、
反革命
であって(これを、どこまで本気で考えているかで、凡庸かつ通俗的イデオローグを見分ける分かれ目となるでしょう)、例えば、戦前における、国防婦人会をどう考えるか、はこの分かりやすい例と言えるだろう。

いま、かつての国婦の活動家たちを訪ね歩いて話を聞くと、国婦とその背後にあった軍への民衆の支持がすけてみえる。
これまで、女は家にあるべきもの、として、よき嫁、よき妻、よき母を心がけてきた女たちが、ある日突然、夫の職業や地位によって国婦の役員になる。その結果、昼となく夜となく家をあけ、ときには、何日も泊りがけで軍事施設を慰問したり、中央の総会に出席したりもする----。この思いがけない状況の変化にとまどい、家族との軋轢に悩んだ女たちも多かった。
しかし一方で、「兵隊さんのため」と意気に燃えて夜昼なく活動した日々を、「わが生涯の最良の思出」として胸に暖めている女たちも多いのだ。
女たちの「銃後」

戦前において、国防婦人会は、日本の女性の歴史の中での、特異な点にある。前線へ送られる兵隊を、さまざまに、励ます活動を行った国防婦人会は、巨大な組織となる。しかし、その活動の「評価」ということになったとき、微妙となる。戦中の体制翼賛に、無批判に加担するものでしかなった、国防婦人会を、戦後の反戦平和の視点から評価することはできない。
しかし、他方において、日本の女性の人権獲得の歴史において、こういった庶民の女性たちが、
ほぼ始めてと言っていいくらいに、
社会に必要とされ、「公的」にイキイキと活動したことを考えたとき、その一定の評価をせざるをえない。
大事なことは、これを「歴史」の層において見る、ということであろう。日本の人権が、どういった歴史をたどって、今に至るのか。そのように考えるなら、そう簡単に、女性の歴史を、現在の視座において、見るわけにはいかないわけだ。

この山川の誤算の原因は、つまりは山川が、女ではあっても、大衆ではなかったからではないか。大衆の女たちとはまるきり切れた地点に立っている山川には、彼女らの抱く国家観は、理解にあまるものだった。大衆の女たちにとって、国家とは所与のもの、地震がこようが嵐が吹こうが、ひたすら耐えるしかない自然現象のごときものであったから----。
やはり山川は、<選ばれたるもの>である。大衆の愚かさに批判の刃を向けることがないのは、つまりは山川が、大衆ではないからであろう。彼女にとって、いうならば大衆は、つねに指導・教育さるべき<愚民>である。愚民のおろかさ批判したってはじまらない。問題は、それをどう指導し、どう教育するか、である。
女たちの「銃後」

掲題の著者は、山川菊栄への違和感を彼女の「エリート」性に見る。大事なことは、それだけ、昭和初期の人権感覚は、まだまだ、発展していたとは言えないレベルだった、ということであろう。昭和初期の庶民の女性たちにとって、はたして、
国家
とは、なにかを考える糸口があったのか。彼女たちは、彼女たちの庶民感覚レベルで必死に考えて生きたのであれば、そう簡単に批判はできないだろう。
しかし、そうだとしても、また、同じ歴史を繰り返すことを
しょうがない
と言えるのかどうかは、別だろう。
311のとき、東京の近くのスーパーに日用食品が、ほとんど無くなったことは、記憶に新しい。私には、この21世紀に、戦前のような、こんな事態がまた起きるということが、不思議であった。
なぜ、あんなことになったのだろうか。
このことを考えるにおいても、戦前の「戦争経済学」がどういったものであったのかを総括することは重要に思える。

原朗の「戦時統制経済の開始」(『岩波講座日本史20』所収)によれば、一九三九年度の財政支出の総額は一四三億六四〇〇万、うち軍事費は、臨時費を含めると六八億六六〇〇万円で、全体の四八%。四〇年度は、これが一気に八三億七三〇〇万円にはね上り、それにともなって、財政規模も一七九億四二〇〇万と急膨張している。これに対して、日中戦争開始以前、三六年度の軍事費は一二億余円であったから、八倍近くにも軍事費が増加したわけだ。
増大する軍事費は、増税、強制貯蓄、国債割当て等の民衆から吸い上げられる。四〇年度は大幅な税制改革が行なわれ、日中戦争開始前一人当り約二〇円であった税金が、七〇円にもはね上がっている。前年施行された九・一八ストップ令(三九年九月一八日の水準に、物価や賃金を凍結するというもの)によって、賃金上昇を押えられた上でのこの大増税であるから、民衆、とくにサラリーマンの暮しは、厳しい<冬の時代>を迎えることになった。
しかし、それ以上に問題なのは物不足だった。日本のような資源小国が、壮大な物の浪費である戦争をはじめたのだから、党是である。日中戦争開始以来、軍需物資の確保のために強力な経済統制が加えられたが、それはまず貿易統制から始まり、物資統制、価格統制に及んでゆく。貿易統制によって、輸入はそのほとんどが軍需資材で占められ、国内の物資も軍需用に動員される。したがって、民衆の暮しに必要な消費物資は、輸入制限による原料不足の上に製造制限を受け、物不足が深刻化する。
女たちの「銃後」

物不足は、価格の高騰を生む。開戦以来、物価はジリジリと上昇し、三九年、九・一八ストップ令で価格統制を行なったにもかかわらず、四〇年の小売物価指数は、開戦前の二倍近くになっている。
女たちの「銃後」

日中戦争の開戦から、日本国内の経済は完全に、戦中経済となる。
驚くべきは、軍事費の巨大さで、国家予算の半分に迫るわけで、こんだけのお金をもし、今の自衛隊が使っていたら、どうなっているか、ということでしょう(今の、公務員の人件費の、かなりの部分は、自衛隊員だという話らしいですが)。
言うまでもないが、こんな予算を、いつまでも組めるわけがない。
庶民は、税金が3倍以上に一挙に上がって、賃金はすえおき。
これが、もし、今起きたらって考えたら、ぞっとしませんかね。しかし、まだ、貯金があれば、一瞬はしのげそうな気がするじゃないですか。
しかし、そもそも、市場がなくなるわけですね。つまり、商品が
売ってない。
もちろん、当時の国民の主食も日本人なんですから、お米なわけですが、そのお米だって売ってない。とにかく、なんにも売ってない。311の後のように、なにもない。
その一つの原因として、「農民の売り惜しみ」を考えることができるでしょう。

第三は、農民の売り惜しみである。三九年は繭や雑穀が高値だったので、農民の懐はあたたかい。米を現金化する必要に迫られないので、米不足が騒がれれば騒がれるほど、先行の高値を見越して売惜しみする。
女たちの「銃後」

ある商品が品薄であるなら、その商品を定価で市場に出すことは、商売人の素人であろう。いくら高くしても売れるなら、まずやることは、
売らない
ことであろう。市場に出さなくていい。どうせ、値上がりすることは 分かっているのだから。
しかし、そうやって主食が、いつまでも売られなければ、国民はジリ貧なわけで、
なんとかしなきゃならない
となる。といっても、戦争をやめるわけいはいかないというなら、あとは、なにができるというのだろう? つまり、商売行為に国家が「禁止」する。
つまり、農家から、無理矢理、お米を巻き上げる、わけだ。

米不足の原因の一つは、農民の売り惜しみにある----。この認識のもとに、一九四〇年三月末、政府は米穀応急措置改正法を成立させ、米と麦を農民から強制的に買上げることを決定した。米は一二〇〇万石、大麦二〇〇万石、小麦三〇〇万石、裸麦一五〇万石の買上げが決定された。
生産県を中心に買上げ量を割当て、その実行は地方長官にまかされた。
女たちの「銃後」

つまり、無理矢理、国が買い上げて、国民に
配る。
もう、ここまで来れば、社会主義ですね。
なぜ、配給経済はだめなのか。まず配給を行うということは、一律に平等に行うということを意味する。このことは、一見よさそうだが、例えば、地方によっては、ほとんど、砂糖を使った生活をしていなかったとしても、なぜか、そういう人にまで、砂糖が配られるということになる。
すると、必然として、一人一人の配分は少なくなる。ということは、どういうことになるか。国民は「全員」無駄使いをしてはいけない、となる。無駄に使えば、足りなくなるので、「みんな」がそれらを大切に使わなければならない、ということになる。
つまり、国民は「ぜいたくをしてはならない」ということになる。

七・七禁令実施後初の興亜奉公日の八月一日、東京の街角には、「ぜいたくは敵だ!」と書かれた一五〇〇枚の立看板が立った。そして、ぜいたく退治の婦人挺身隊が盛り場に出勤し、派手な服装や指輪をした女を見つけると、「華美な服装はつつしみませう 指輪はこの際全廃しませう」と書いたカードを手渡した。
この日出勤した女たちの話によると、カードを渡された若い娘が、「この着物は染め直しの着物で贅沢ではございません」と反発したとか、帽子は贅沢だといわれた「一人の婦人はヒステリックに、口惜しいと言って、帽子を滅茶苦茶に壊してしまった」とか、かなり女たちに反発をかったらしい。
女たちの「銃後」

国家が国民に、ぜいたくをするな、と言い始めると、大変なことになる。
まず、
ぜいたくは敵
だとしよう。すると、今、「ぜいたく」なものを作ったり、売ったりしている、人々は、「敵」だということになる。今すぐ、その仕事をやめなければならない。
ということは、論理的に日本人は、全員、商売をしてはならない、ということになる。
あらゆる職業が、なんらかの意味で、「嗜好品」であるだろう。お米だって、たくさん食べようとすれば、「嗜好品」「ぜいたく」だ。安い、ひえ、や、粟、を食べてればいいんだとすれば、国のお金でえ、お米などという「ぜいたく」品を食べようとしている行為が、
非国民
だということになる。

九月一日から、東京市の料理店等では、朝食一円以上、昼食は二円五〇銭、夕食五円、おすしは一個一〇銭以上のものは供してはならぬ、ということになった。警視庁は、四一年一月までに、特殊食店の従業員を三分の一に減らすことを打ち出し、長野県でも、各地で、待合、料亭等は午後一一時閉店、「クダまく客、故意に長居する客は容赦なく送り出すこと」などと、料芸組合で申し合わせしている。(『信毎』八月一三日)
一一月一日からダンスホールは閉鎖。一〇月三一日最後の夜、「各ホールは名残りのステップを求めて詰めかけた人達で何んと大入り満員、平日の三倍から五倍という人出が芋の子を揉むようにホールいっぱいを埋めて押し合いヘシ合い...」(『東朝』一一月一日)。その結果ダンサー、女給、芸者等の失業が相ついだ。
中小商工業者たちの受けた打撃も大きかった。七・七禁令で、数多くの女物高級衣料が禁止対象になった結果、呉服屋は大恐慌。なんとか化学的処置を施して金糸、銀糸の光を消そうとしたり、一〇月七日までの猶予機期間内に売りつくそうと半値以下で叩き売ったり......。これにつけこんで行商人が出没し、大手呉服商から安く買い叩いて繭高景気の農村に持ちこみ、農家の主婦たちに高級着物を売りつけることも多かったらしい。(『信毎』八月六日)
七・七禁令と同時に、暴利行為等取締禁則が改正され、価格統制が強化される一方、マル公、マル停等のマーク表示が義務づけられた。マル公とは、三八年七月政府が設定した「公定価格品」、マル停とは、三九年九・一八ストップ令によって価格凍結された「価格停止品」のマークである。これらの措置で商店は打撃を受けた上に、配給統制の実施で、一地区一店というように配給店が整備されてゆく結果、とくに米屋の転廃業が大きな問題となっている。小工業主や職人も、この年強力に推進された企業整理と相まって、転廃業を余儀なくされた者が多い。
こうした商人や職人は、どこへ行くか。一つは軍需工場であり、もう一つは「満州」である。「転業だ さあ満州へ」(『東朝』一一月一八日)----こんな呼びかけが、秋以降、さかんに見られるようになる。
女たちの「銃後」

そして、配給が恐しいのは、人々が配給によって「しか」生活必需品を購入する手段がなくなることを意味する。つまり、あらゆる私たちの行為は、いったん、
国家
を通してしか、できなくなる。つまり、私たちが生きるということが、
国家が生かさせてくれる
ということと、完全に同値の事態となる。国家が「こいつは生意気だから配給させてやらない」と考えたら、私たちは、飢えて死ぬ。私たちのライフラインは、国家と同値になる。

山中恒によれば、日中戦争当初までは、まだまだ逃亡兵も数多くいたが、「大東亜戦争」段階になると全くみられなくなるという。配給制度の確立によって、配給通帳を持たない逃亡兵は、たちまち糧道を断たれるからだ。(「銃後の現在」『小国民体験をさぐる』一九八一年所収)
四〇年、制度化された配給と隣組制は、民衆一人一人を縦横に網の目にからめとり、しっかりと「国家」につなぎとめた。
女たちの「銃後」

この後、日本で行われた、最も大きな政策が「疎開」である。
東京などの、主要な都市は、工場などを中心に、空襲を受けている間、都会の子供を中心とした多くの人が、地方の田舎に、親戚などの伝手のある人もない人も、逃げる。
しかし、逃げるとは簡単に言うが、なぜ、地方は彼らを受け入れなければならないのか。というか、ただでさえ、地方の田舎だって、生活が苦しいのだろう。そんな、急にやってきた都会の人たちの分の、食料があるわけもない。
もちろん、そんな急に都会からやってきた、ボンボンたちが、田舎でなにかできるわけもない。農民になろうったって、そんな簡単に受け入れられないどころか、相当の覚悟がなければ、農業なんてやれるわけがない。
そもそも、人数が多すぎる。
しかし、ある意味、「その間」は、まだましだった、と言えるのかもしれない。つまり、人々は助け合って、よくやっていた。
少ない配給にも我慢し、疎開にも、田舎の人も都会の人も、助け合いながら、なんとかがんばっていた。なぜなら、それもこれも、
欲しがりません、「勝つ」までは
だったのだから。目標がある間は、人はなんとか、がんばり通せるものなのだろう。ある意味で、戦争のその間は、国民が究極の意味で、協力し合った、「すばらしい」」時代だったのかもしれない。
しかし、こういった5年ほどの生活も、終わりを迎える。つまり、敗戦である。
負けた。
負けるということは、どういうことか。
今までの、さまざまな、大義名分が「なくなった」ということである。「勝つ」ため、「勝つ」まで、と、みんなで心を一つにしてやってきた、その「よって立つところのもの」が、なくなった、ということである。
これが、私たちの、3つくらい上の世代の人生だった、ということであろう。
じゃあ、どう思うか。彼らは、たんに軽蔑の対象か。そんなに単純なことではないだろう。
今日本は、高度経済成長が終わり、グローバル化の中で、格差社会が実現されようとしている。工場は世界に逃げ、仕事はなくなり、多くの人々が、生活保護で生き始めている。しかし、生活保護とは、一種の
配給制
であろう。細かく使途を管理されている時点で、彼らの自由意志はない、ということになる(私は、この考えの延長から、ベーシック・インカムは、そう簡単に、うまくいかないだろう、と思っている)。もし、生活保護を受けなければならない人々が、さらに、拡大していったとき、日本という国はどうなるのだろうか。今、格差の拡大を「しょうがない」と言っている人が、年配の人なら、どうせ逃げ切り問題でしかないわけだから、他人事でいいでしょう。しかし、若い、これからの子供たちにとって、この問題は切実になる可能性がある(親のすねをかじれている間は、あまり問題が顕在化しないのかもしれないが)。
もし、こういったバッドエンドの方へ、日本経済が向かうとしたとき、間違いなく、日本経済は、上記のような、戦中の統制システムと非常に似た形を呈するだろう。そのような意味からも、過去の日本の歴史を学ぶことには、大きな意味があると思えるのだが...。