岡田斗司夫『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』

(弁護士の、福井健策との対談。)
少し前まで、ユーチューブにしても、ニコニコにしても、いろいろな「パロディ」的な、ちょっとふざけた、2次創作的な動画がたくさんあったが、ある時、ことごとく、削除されていった印象がある。
(こういったことは、今までも、何度もあったのだろう。)
似たようなことは、さまざまにあるのだろう。あるブログのコメントが、少し後で見ると、削除されていたりというのも、細かいことだが、なんなのかな、とは思う
そういったものを「削除」する場合の、「暴力」性といいますか、言論・表現の自由の制限という面について、どこまで考えられているのか、とは正直、そう簡単にそういうものを削除してもいいんだと考える、ナイーブさ、
権威主義
な印象を受ける。きっと、こういうものを削除しちゃえばいいんだ、と指示する人の中には、世間で比較的名前の知られた有名人であったりなどして、こんな「無名」の人間の言論の自由なんて、自分の不快の感情から比較したら、価値は少ないんだから、少しくらいはいいんだ、という「傲慢」な部分もなくはないんじゃないか、とは思うのだが(もちろん、本人のいろいろな「権利」が侵害されているといった、利害の衝突が実際にあると言いたいのだろうから、単純には非難できないのかは知らないが)。
つまり、ある人が「パブリック」にしたものを、そう簡単に、情報操作をするべきなのだろうか。もし、そういったことが普通に行われるとするなら、どういった
ルール
によって、そういった行動は整理されるべきなのだろうか。
例えば、こういった場合によく使われた論法は、そうやって動画やコメントを削除された側が、

  • 反論の場を持っているか

が重要だ、と。ある批判を受け、それによって、自分の意図がねじ曲げられていると考える人がいたとして、問題はその人にそういった言われのない弾圧(デマ)を、あらがう(打ち消す)ための「表現の場」があるのかどうか、ということであった。
そう考えるなら、現代のネット社会は、表現をする場所だけは、あまりにも、たくさんある。もちろん、そこが多くの人が見る場所かどうかは、全然別の話だが。
インターネット以前の世界においては、そもそも、

  • 他人が見ることが可能な「掲示板」

というのは、非常に限られていた。テレビ、新聞、雑誌、ラジオ。あと、

  • 駅の待合わせ場所にある、連絡板?

これは、半分、冗談だが、つまりは、これくらいしかなかった、ということである。インターネットは、この連絡板を「無限大」に引き延ばしたもの、と考えられる。
そうすると、今度は逆に、それが、「どこ」にあるのか、が分明ではなくなった。
しかし、ネットワーク理論が示しているように、世界中はあまりに広いように思われるが、友達の友達の友達の友達くらいで、だいたい、世界中の人が「友達」ってことになっちゃう、という話があるように、それなりに合理的なリンクを辿れば、けっこう、目的の場所に辿りついたりもする。
もちろん、その場合には、ネット検索の力は大きかったりもする。
掲題の著者は、自らは、おたく的な評論家として、有名な方だが、上記にあるような、「無名のコンテンツ・クリエーターの立場」で、

とはなんなのか、を考える。
以前、ハッカー宣言という本を紹介したが、私が「著作権」や「特許権」のようなものが、決定的にダメだと思うのは、一言で言えば、

  • 2次創作

を否定していることだと思う。あらゆる、クリエイティブなものは、2次創作としてしかありえない。そもそも、自分独自とか言っている時点で意味不明だろう。言葉は全て過去から、「意味」をもって引き継がれてきたものであり、新語とは、過去の言葉によって定義されて(文脈化されて)始めて意味をなすのだから。
コミケなどの2次創作は、創造物として劣るとか言っているエラそうな奴等こそが、過去の哲学者の文章を引用して、
2次創作
をしているわけで(そりゃあ、過去の哲学者の言葉は著作権が切れてるんでしょうよ)、自分が何をやっているのか、分かってないんでしょうね。
そもそも、私は芸術という言葉が嫌いだ。
以前、ウィリアム・モリスの「民衆の芸術」というエッセイを紹介したが、縄文人が自分の作っている土器を「芸術」などという言葉で表現しただろうか。これは「これ」でしかないなにか、であって、それ以上でもそれ以下でもない。勝手にレッテルをはりやがって、余計なお世話なのだ。
芸術だろうがなんだろうが、あらゆる表現は、

  • (カント的な意味での)学者としての論文

と考えるべきだ。それこそが唯一、

  • パブリック

なものであり、これ以外の「パブリック」を認めない、ということである。こういった、人間の「啓蒙(自由)」の運動を、制限する一切の「囲い込み」に、私は反対する。

岡田 そういうことです。クリエイターを救うというと、コンテンツをどうやってマネタイズして、貧乏なクリエイターが食べられるようにするかと考えてしまいがちです。
けれど僕らが救うべきは、食うや喰わずで創作を行っている貧乏なプロクリエイターではなく、無料で作品を作っているプチクリエイターなんですよ。こうした無料のクリエイターこそが、文化の多様性を生み出す最大多数です。だから、制度設計は彼らのことを最優先に考えるべきであり、マネタイズする人の最大利益を考えるのは間違っています。

例えば、著作権論者たちはなぜ、自分がツイッターで、つぶやいた一言を読みたいと思っている読者から金銭をまきあげないのだろうか。自分の創作物は「著作権」があると主張するなら、それだって「商品」だということだろう。つまりそれは、ツイッターのつぶやきを
芸術(商品)
じゃないと思っているわけであろう。つまり、芸術(商品)とそうでないものがあると、思っているわけである。しかし、その差ってなんだ? たんに、値札がついているかそうでないかでしかないではないか。
値札をつけたら芸術か。値札をとったら便所の落書きか。なにその二枚舌。いい加減にしてほしいわ。

岡田 僕が子どもの頃、コピー機が登場しました。その頃は1枚コピーするのに100円くらいかかったから、誰も本を丸ごとコピーしようなんてしませんでした。コピーが1枚10円になっても、その分の手間賃を考えると割に合わないからコピーしません。でも、コピーした方が手間とコストが少なくて済むのだったら、誰もがコピーするだろうし、本の定価なんて守れないに決まってますよ。
結局、コンテンツ産業はタイムラグの中で商売していただけなんじゃないでしょうか。コピーをタダでできる、抵抗感なくできる、そういう技術が登場するまでのタイムラグにはビジネスチャンスがありますが、もう技術が追いついてしまいました。だから、もうそういうタイムラグを前提にした商売は、手じまいしないといけない。そうでないと、大勢の人間を乗せたまま、タイタニック号みたいに沈没することになるでしょう。

そもそも、今の電子書籍も、ちゃんちゃら、おかしい。使いづらい。普通にパソコンでテキストファイルの方が、

  • どれだけ「利用者の利便性」に供するか。

利用者のことを考えてるのだろうか。あんな「囲い込み」、何十年かすれば、なくなってるんでしょう。だって、不便じゃないか。
未来は、科学が発達して、より便利になっていくと思っていたら、人間が人間を拘束して、便利になる運動を抑圧してくる。
例えば、科学の論文がもし、だれもが見ることができず、一部の既得権者によって、隠されていたら、今の世界はありえただろうか。相対性理論量子力学も、だれも知ることができない、秘伝の奥義とされていたら、そして、こういった理論によって生み出されるものを
魔術
と称して、秘密結社化されていたら。
こういったことは、当然のこととして、プログラミングにおける、フリーウェアについても言える。あるソフトウェアとは、その
ソースコード
と「同値」である。つまり、その「動作」において、可述的ということである。そうであるなら、この「ソースコード」の「公開」は非常に重要ではないか。ある、ソフトウェアのバグによる、人類の損害は、この「ソースコード」を公開することによって、未然に防がれるかもしれない。また、ここから、さらに、クリエイティブなソフトウェアが

  • 2次創作

として生まれるかもしれない。
もちろん、だからといって、今こうして存在する「著作権」や「特許権」が、ないがしろにされるべき、ということが言いたいわけではない。こういうものが、必要かどうかは、検討されていけばいい。
とにかく、私が不快なのは、最初にも書いたが、他人の二次創作(ユーチューブなどにあがっていた、パロディ動画には、それなりに、人々に影響を与えたものもあったはずなのだ)を、くだらない「社会通念」を盾に
焚書坑儒
しておいて、平気な顔で生きている、くだらない「既得権者」たちの傲慢さであり、こういうことをやっておいて、
言論の自由
とか、別の所ではえらそうに説教しているその二枚舌なんですけどね...。

なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門

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