福岡政行『財務省解体論』

この本は、おかしい。題名から、どうやって財務省を解体するか、の方策が書かれていると思うだろう。ところが、どこにも、財務省を解体すべき、という記述がない(私は見つけられかった)。それなのに、それについての、説明もない。つまり、この本のタイトルは「誇大広告」、一種の「デマ」だと言いたくなる。
じゃあ、なにをこの本は言いたいのか。
基本的には、以前紹介した、公務員ムダ論の延長で、今の民主党によって行われている日本政治の問題点を整理したもの、と言えるだろう。
そう考えれば、確かに、今の日本の政治を完全に支配しているのは、財務省なのであり、この本の大半は、財務省についての分析に終始しているのだから、題名をこのようにしたがる、というのは、理解できなくもないのかもしれない。
民主党政権とは、脱官僚を掲げて、出発した政権であったはずだ。
ところが、そうやって始まった、鳩山は、あっという間に、総理大臣を辞めた。
つまり、この時点で、民主党
正当性
はなくなった。再選挙をしなければならなかった。ところが、その後を引き継いだ、財務官僚のあやつり人形であった、管総理大臣は、それまでの民主党政権公約をかたっぱしから無視して、財務省の口パクとなり、自身を顔に立てての選挙で惨敗する。
そこから、民主党は、民主党でなくなる。
もう違う何かだった、ということだろう。脱官僚と口にした時点で、官僚は、政治家が「命令」すること以外の「一切」の行動をやめる。なぜなら、政治家が脱官僚を口にしている限り、官僚が勝手にやったことは、官僚のミスであり、
自分は悪くない
と言い訳するにきまっているからだ。ところが、言うまでもないが、日本を実際に動かしているのは官僚なわけで、個々具体的な細部は、官僚しか知らないのだから、官僚の協力なしに政治が一歩として進むわけがない。これで完全に、日本の
動き
が止まった。レームダック状態となる。
そこからは、話は早かった。なんの手練手管ももちあわせていない、素人集団の民主党がそこからしたことは、自民党時代以上にひどい、
官僚依存国家
への、邁進であった。

霞が関からすれば、それは望みどおりのことだったはずであり、不適材不適所の大臣を自分たちの言いなりに手なずけるのが最善である。
全国の知事や市町村長に対してもそうした考え方をもっているのは基本的に変わらない。中途半端なやり手は官僚に歓迎されない。人気があり、あちらこちらへ行って短い挨拶をしていれば喜ばれ、本人もそれに満足しているような人物が最適だと考えているのである。
各省のトップである事務次官が集まる「事務次官等会議」が「閣議」より先に行なわれ、閣議で提出される事案を事前に調整していたという事例はあまりにも有名だ。
民主党政権ではこの会議の廃止を決定したが、結局のところ、その後に生まれた「各府省連絡会議」が同様の役割を果たすようになっている。

自民党には、まだ、それまでの政治や国会の蓄積があった。大臣はそれなりに経験を積んでステップアップしなければなれないなど、一定の規律もあった。ところが、そういった裏付けもない、ただ若いだけの素人を、やたら集めただけの、民主党には、本当に笑っちゃうくらいの
なにも知らない人
しかいなかった。しかし、それは官僚にとっては、逆に、「ありがたい」わけであろう。なんとでも、料理できる。ようするに、大臣は恥をかかない限り、官僚に感謝し続けるのだろう。そもそも、なんの信念もなく、棚からぼた餅で、大臣になったのだから。
ずっと前から言われていることであり、日本の、ほとんど「唯一」の政治課題とは、官僚の天下りのことであった。ところが、この問題は、一体いつになったら、だれも話題にしないくらいに
解決
するのであろうか。

国家公務員採用1種試験に合格したキャリア官僚たちは、課長までは横並びで出世していきながらも、そこから先はトーナメントのような出世レースを展開していく。
その上の審議官、部長のポストは数十しかなく、その上の局長になると、十程度と、さらに少なくなる。そして、トップに立つ事務次官になれるのは一人だけである。
このトーナメントに敗れた者は、それ以上の出世を望めないため、敗れた時点で退職するのが慣例になっている。そして、そういう者たちが”役所の子会社”ともいえる特殊法人独立行政法人などに再就職している。
敗者に対しては何も与えられないのだ普通の社会の論理だが、霞が関ではそうではない。敗者がそうして天下りしていけば、退職時と変わらない給与が支給されるのである。そういう構造である限り、世間がなんといっても、天下りを死守しようとするのも頷けよう。

つまり、天下りとは、解決できるのか? そもそも、なぜこの、天下りが問題なのかを分かっているのだろうか? だれもが、これを問題と言いながら、だれもこれの解決策を提示しない。そもそも、やる気があるのかな? やる気がないんだったら、これでいーじゃんって言ったらどうでしょう? どうも、この問題は根が深そうに思われる...。
非常に不思議なのは、国際社会の声として、IMFまでが、日本は消費税を上げろ上げろの大合唱で、説教をしてくる。国際社会の財政秩序を心配するのが、IMFなのだから、それだけ日本経済は深刻で、消費税は必要なのかな、と思ってしまうが、その裏側を知るにつけ、なんとも拍子抜けな話なわけだ。

IMF国際通貨基金)は日本の赤字大国ぶりに言及し、消費税の引き上げを”勧告”しているが、IMF財務省の有力な天下り先であり、現在のIMF副専務理事は前財務省の篠原尚之である。だとすればその勧告が、”財務省の意”を汲んだ教育的指導であり誘導であるのは当然のことになる。

日本は、純債権国で貿易黒字を長年続けてきて、国民資産が膨大にあって、...。そして、あのアメリカでさえ、消費税を「国民経済にあまりに影響が大きすぎる」として、採用していないのに、
消費税
ですか。選挙に勝つ気、あるんでしょうかね orz。
311以降、何度も語られた用語に「御用学者」というものがあった。別に、そういうレッテルを貼りたくて、こっちも使っているわけじゃないんですけど、だって、官僚自身が、そう言ってるんですもんね。依頼している当の本人たちが、そう言っているのだったら、国民がそう言うのは、しょうがなくないですかね。

以前のことだが、財務省の関係者が私の事務所に訪ねてきたことがあった。そのときには、ガソリン税の引き上げを考えているという話を聞かされた。それに対して私がもし「いいんじゃないですか」と答えていたならば、審議委員になったかもしれない。
しかし、そのときに聞かされた説明には整合性がとれない部分があったので、安易に賛同はできなかった。いくつかの質問をいて、結果的にはその案には無理があることを相手に確認させるかたちになったのだ。それでその後はすっかり音沙汰がなくなったのである。
霞が関の住人の一人にこの話をすると、「先生のようなタイプの人は審議委員には使わないんですよ」「御用学者として不適格ですから」と笑われた。
審議委員の報酬はたいした額ではない。私の恩師の教えは「御用学者にだけはなるな」というものだった。
私のことはともかく、財務省の官僚たちは、そのようにして自分たちにとって都合のいい人間ばかりを集めている側面が強いといえそうだ。

一定の見識があるなら、なぜ、自分は「御用学者」ではなかったか。なぜなら、これこれの理由で、と、
釈明
されたらいいだけなんじゃないですかね。そんな、「御用学者」と呼ばれることを、むきになって「レッテル貼り」などと怒らなくても。
言うまでもなく、税制とは、一つの国家の選択であって、どういう形態が選ばれるかは、国民の選択であるのだろう。当然、消費税というものも、その細かな差異はあるとして、考えられるのだろう。
しかし、今のまま、5パーセントを倍の、10パーセントにされて、さらに、まだまだ足りないとか、のたまわせておいて、国民はそれでいいんだろうか。

竹下さんはそのことを覚えていたのだろう。会食の席で突然、こう話されたのだ。
「福岡くん、私たち私立大学出と違って(竹下さんも私も早稲田大学卒業である)、東大出身の大蔵官僚は、複数税率なんて、よくわかっているんだよ。しかし、それは五パーセントと三パーセントに分けるというようなことではない。一〇パーセントという二桁に乗せたとき、一〇パーセントと五パーセントにする複数税率なんだよ。大蔵官僚の頭の中ではそういうふうに計算されているんだ」
直接そう言われて、冷や汗をかいたものだ。そのとき竹下さんは「政治にはなかなか百点満点はない」とも話されていた。それからしばらくして体調が悪くなり、二〇〇〇年に亡くなられた。
消費税の税率引き上げを考えるとき、いきなり一〇パーセントにするのか、八パーセントという段階を経るのかという問題はある。今現在は税率を引き上げるタイミングではないという前提での話だが、一〇パーセントにするときには少なくとも、基礎食料品や医療費の税率をそこまで引き上げてはならない。ゼロ税率にはできないにしても、当時の大蔵官僚が頭に描いていたという五パーセントのまま留めておくことだけは絶対に守られなければならない。

最低限、ここまでは譲れないんじゃないか? 本当に、消費税が5パーセントから10パーセントにされて、さらに、上がっていくという事態が、どういうことなのかを国民は分かっているのだろうか? みんな老人しかいなくなって、呆けちゃってるんじゃないか?
日本の人口は、今の一億二千万人から、2055年には、9千人になる。こう書くと身も蓋もないが、ここまで急激に減るということは、つまり、高齢化と少子化が、ものすごいことになっている、ことを意味する。これを前提として、もし、

  • 今の公務員の「規模」が、2055年においても、同じ大きさだったら

と考えてみよう。どう考えても、(少なくとも財政的には)身の丈に合わない、オーバースペックであろう(今でさえ、なぜ地方の議会が、あんなに高給をもらっているのだ、と他国と比較して言われる始末なのに)。しかし、逆に問うなら、どうやって、その規模を小さくできるのか? 今でさえ、上記の天下りに対して、なんの解決策さえ見出せていないのに。そもそも、こういう組織の(人数を含めた、給与を中心とする)
縮小
などできるのだろうか。国家公務員の権益は、あまりに甘い蜜であり、だれも手放したくない。だから、天下りなのに、どうして小さくなれると言うのだろう...。

財務省解体論

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