原発再稼働と国民の国政不信

ここのところの、原発再稼働についての推移を見ているに、私は、ソ連が崩壊し、共産圏が消滅していった、あの経緯を、重ね合わせずにはいられない。
いわゆる、政府寄り(御用学者気どり)の知識人が、さかんに、原発再稼働の「合理性」を、吹聴し、国民を説得するパフォーマンスをしても
まったく
国民は聞く耳をもたない。あい変わらず、原発反対は5割を超え、ますます、KY感が高まるだけ。結果として、再稼働に成功しようが失敗しようが、こうやって原発再稼働を後押しした知識人たちの、あまりの大衆との離れぶりが、強調されるだけの結果となっていることは興味深い。
なぜ大衆は、原発再稼働に反対するのか。言うまでもない。「そのため」に福島第一周辺に「住んでいた」人たちは、自らの故郷を追い出されて、戻ることすら叶わぬ、この今の状況を見て、

  • 自分までこんなことをされたらかなわない

と思っているからである。もし、こんな悲惨なことに自分がならないのならば、
あらゆる
手段を使ってでも阻止すべきだ、と思っているからである。しかし、よく考えれば、これほどに分かりやすく、理解しやすい「合理的行動」はないだろう。
この状況は、チェルノブイリとまったく重なるわけである。
国家の言うことを、へーこら聞いていたら、チェルノブイリになって、国民は住んでいる所を追い出される。つまり、

  • 政府への不信感

これに尽きる。今の政府、官僚。つまり、311以前に存在したエスタブリッシュは、たんにそうであるというだけで、国民の不信の対象であり、彼らが、支配階級から一掃されない限り、この不信が拭われることはない。
福島第一を起こした「主犯」である、経産省が、あい変わらず、保安院を「自称」して、泥棒が泥棒行為の「再犯行為」の
許可
を出している状況を見ても、どうしてKY知識人たちはこれで、大衆の「説得」が成功すると思ってるんですかね。
つまり、それが、ソ連であれば、ソ連という国家の消滅を意味していた。同様のことが、今の日本についても言える。つまり、

  • 日本という国家の消滅と「同値」の政権中枢の完全な(革命的)「交代」

が、すみやかに、完遂されない限り、その支配中枢が国民によって「信頼」されることは、もはや、ないのだ。
このことを、御用学者知識人は分かっていない。
つまり、もはや原発が残っているかどうかではないのだ。再稼働かどうかでさえない。そもそも、今の政治エスタブリッシュメントが、大衆の
警戒の的(まと)
でしかないから、どうあがいても、どんな決定をしようとしても、「全て反対」されるのであって、すみやかに、こういった連中が一掃され、国民の後押しによって推挙される人々の手に渡れば、国民の信頼は回復し、(そのような状態になっていれば、今言われているような、脱原発依存が進められていることは、国民だって「信用」し始めているので)国民の原発存続や再稼働への関心も弱まり、
政治はその本来の実務に集中
できるようになる...。
(ことほど左様に、中国のタオイズム的な発想は現代においても、有効なのだろう...。)