オギ・オーガス『性欲の科学』

(サイ・ガダムとの共著。)
往々にして、人間の科学は、思わしい成果を上げない。なぜなら、調査対象である、人間の方が身構えてしまうからである。人間は自らが調査対象と分かった途端に、その被調査者の「意図」に沿った行動を意識し始める。近年の日本の新聞の世論調査が、ほぼ
その新聞社の意図
通りに、答える傾向があることが分かりやすい。読売や産経の世論調査原発賛成に傾きがちなのは、こういった理由で説明できる。
このことは、人間が科学の対象であるということが、なかなかに「やっかい」な事態であることを意味している。つまり、
自己言及性
の問題である。自らが自らに問うとは、どういうことなのか? よく考えると不思議な事態である。嘘つきのパラドックスではないが、自分が自分に嘘をつくことは原理的にはできない。なぜなら、

  • 「嘘をついた」ことは本当だ

ということになり、結局、自分への言及は全て「自分にとっては」本当だということになるから。
ことほど左様に、人間は科学に耐えないのだが、一つだけこの問題を回避する方法がある。

  • まだ「観察」されていると思われる「前」の記録を使う

のである。自分が観察されていると気付かれた時点で、相手に身構えられることは避けられない。だったら、「身構え」が始まる以前の記録を使えばいい、ということになる。

2006年、AOLは65万7426人分の検索履歴を含むデータセットを公開した。個人の検索履歴データには、AOLユーザーの2006年1月1日から3月31日までの3ヶ月間の検察ワーズがすべて含まれている。そのなかに、僕たちが「ミスター・ビキニ」と呼ぶ、ユーザーナンバー2027268の人物の検索履歴があった。その一部を紹介しよう。

  • 大学のチアリーダー college cheerleaders
  • ハワイのチアリーダー cheerleaders in Hawaii
  • ビキニ姿の女の子の画像 pics of bikinis and girls
  • マスタベーションの弊害 the sin of masturbation
  • ビキニ姿のかわいい子 pretty girls in bikinis
  • ビキニ姿で肌を焼いている女の子 girls suntanning in bikinis
  • 大学のチアリーダーのビキニ姿の画像 college cheerleader pics in bikinis
  • noooooooo
  • 性欲についてのキリスト教のアドバイス christian advice on lust

AOLは、こうしたデータセットを公開したことで大きな非難を浴び、この一件は、ビジネス誌が選んだその年の「ビジネス界の失態101選」にも名を連ねた。公開されたデータは、ユーザーの個人名は伏せられたものだったが、データを分析すれば個人を特定することも可能だったので、ユーザーのプライバシーを著しく侵害するとみなされたのだ。データを公開した研究部門の責任者は解雇された。しかしAOLのデータは、オンライン行動を調査している研究者にとっては、類を見ない宝の山となっている。

もし人間の一人一人には欲望があるという立場にたつなら、今度は、

  • その一人一人の欲望が、具体的に「何」なのかを、確定する手段が存在するのか

に論点が移っていく。しかし、これを確定することは、よく考えてみると、なかなか難しい。
そこで、一つの「制限的」手法として、ある「切断面」によって、その人を「確定」させる、ということが考えられる。もちろん、それで十全ではないだろうが、統計的には、かなりの傾向が、かなりの確実性で言えないか、と考えるわけである。
そこで、ここで、選ばれているのが、私たちが毎日、行っている「ネット検索」における、

  • 入力した検索ワード群「そのもの」

である。もちろん、私たちが検索するときには、多くの場合、さまざまな意図によって行う。ある言葉の意図を、ど忘れして、やる場合もあるだろうし、もっと具体的に、宿題や研究の役に立つものをピンポイントで探している場合もあるだろう。しかし、そういった「意図」を比較的に「ほぼ同一」として考えやすいものが、

  • 性的なキーワード

となる。こういったものは、ほとんどの場合が、その人の性的嗜好の対象を、ネット空間から拾おうとしていると考えられるから、だ。
上記のAOLのデータベースのいい面は、ある個人と、その人が実行した検索ワード群が完全に紐付いていることである。このことによって、その人の「傾向」を考察することが可能になる。また、あくまでも、この検索キーワード「のみ」に注目することは、一般意志2.0 のようなものと較べても、あまりにも一断面すぎて、もの足りなく思えるだろうが、ストイックではあっても、一つの特徴を浮かび上がらせるには、むしろこういった特定の場面にのみ注目することが、より有効な手段と考えられる面も大きいと考えられる。
著者の、こういった人間の性的な傾向性へのアプローチは以下に集約される。

しかし実際には、人間の脳の味覚ソフトウェアは、たった5つの知覚情報に反応しているだけなのだ。甘味、塩味、酸味、うま味、苦味の5つだ(これに、脂肪味、金属味を加える学者もいる)。こうした味覚の「キュー(手がかり、反応を引き起こすきっかけ)」は、キューごとに異なる神経経路を通じて大脳に伝えられ、キューごとに異なる味覚を生み、キューごとに異なる役割を果たして進化に貢献している。

僕たちはこの章の冒頭で、歴史を通じて、人々の性的欲望を研究するのは難しかったと書いた。しかし、ドナルド・サイモンズは人々の性的欲望をよく理解し、男と女のセクシャル・キューについての理論を作り上げた。彼の理論は、いまなお、性的欲望の科学の拠り所となっている。そして今、僕たちはインターネットのおかげで、人々が欲望をいだくものについて、かつてないほど大量の情報を獲得できた。僕たちが、ドッグパイルの検索ワーズがすさまじい多様性を示しているのを初めて見たときは、性的欲望を分析していくつかの単純な基本要素にまとめるなんて無理じゃないかと思ったものだ。しかし味覚のソフトウェア、どんなに大量に見えるアピール要因も、限られた数のキューにまとめられる可能性を示している。

では、一般に人間には性欲が「ある」(つまり、性欲のアプリオリ性)という場合の、その「存在」の意味を理論的に補強するような例として、どんなものがあるだろうか。

1965年、カナダのマニトバ州で、生後2週間の男児デイヴィッド・アイマーに包茎切除手術を施しているとき、担当した泌尿器科医が誤って、電気焼灼針でデイヴィッドのペニス全体を焼き落としてしまった(北米では当時、宗教上の理由ではなく、衛生上の理由から割礼を行うのが一般的だった)。このゾッとするような悲劇に直面したライマー夫妻は、当時、性科学者としてもっとも高名だった、ジョンズ・ホプキンス大学ジョン・マネー博士に相談を持ちかけた。マネー博士は、性欲は、完全に社会環境からの刷り込みによって生まれると信じていた。彼はこう言って、ライマー夫妻を安心させた。「何も心配いりませんよ。奥さんが女の子を産んだ場合につけるだずだった名前を思い出してください。デイヴィッドに女性器をつける手術をしましょう。男性器を失った息子さんを娘として育てればいいんですよ」

彼女はすでに3歳の時点で、怒って自分のドレスを引き裂いた。人形と遊ぶのを嫌がり、おもちゃは車や銃を好んだ。なわとびの縄は、跳んで遊ぶのに使わないで、弟をむち打ったり、だれかを縛り上げたりするのに使った。幼少のころの記憶としてブレンダが思い出せるもっとも古いものには、父親に、「わたしもお父さんみたいにひげをそってもいい?」とたずねたことだという。学校では、男の子みたいな変な子だとのけ者にされ、いじめられ、拒絶された。ライマー夫妻はブレンダをガールスカウトに入れた。ブレンダはこう語っている。「デイジーで花輪を作って、こう思ったのを覚えています。『これがガールスカウトで最高に楽しいことなら、ガールスカウトなんてもうたくさん』。弟がカブスカウトボーイスカウトの年少版)でおもしろそうなことをやっていたんで、うらやましくてたまりませんでした」

ブレンダが心の葛藤に苦しんでいるのが傍目にも明らかになって、ライマー夫妻は追い詰められ、ついにほんとうのことを話した。彼女が14歳のときのことだった。ブレンダはこう述懐する。「それまで自分が感じていたことの理由が、それでやっとわかりました」。ブレンダはさっそく、名前をデイヴィッドに戻した。「僕は変な子じゃなかったんです」
彼は、乳房切除手術を浮けて、ホルモンによって作られた乳房を取り除き、陰茎形成手術で機能しない形だけのペニスを備えた。

まあ、ある意味、当たり前のことだが、哺乳類に雄と雌がいるように、人間の男女にも、大きく、その差異は存在している。つまり、そういった性の差異があることは間違いない(それなりに、ホルモン分泌などで差があるのだろう)。
しかし、そういったことと、インターネット上に氾濫している、アダルト情報の細かな差異(つまり、フェティシズム)が、単純な対応関係にあると考えるべきではないのだろう、と思っている(これが、私が「性欲なんて存在しないんじゃないか」と言うときの意味である)。

男性のビジュアルな性嗜好が形成される過程を解明する手がかりがいくつかある。ひとつは、女性の体のパーツへの嗜好は、中性刺激と無条件刺激の組み合わせを何度も見た後ではなく、何かひとつのものを見た後に芽ばえているように見えること。ふたつ目は、一生続くような性嗜好は、ほとんどが青年期に形成されていることだ。臨床医によれば、成人してから、別のパーツに初めて興味を持つことはめったにないという。もし男性の性的欲望ソフトが条件付けだけで働くのであれば、「年齢制限」はないはずだ。しかし実際には、ビジュアルな性嗜好が形成される時期は一定の期間に限られているらしい。神経科学者はその時期を「臨界期」と呼んでいる。

一般に、フェティシズムが存在する場合には、こういった「ある時期からの固定」を問題にしていると考えられるだろう。もしこういった、青年の間の短かい時間「のみ」の、「すりこみ」が存在するなら、こういった欲望を「存在」と呼ぶことには、一定の意味があるのかもしれない。
しかし、いずれにしろ、こういったものがサイバネティックス的な、ある時期における「フィードバック」によって獲得されていったと考えることは、性欲のアプリオリ性との、明確な差異を意味しているわけだ。
掲題の本は、中盤以降、女性の性的な嗜好の考察に移っていく。

女性にとっては、セックスは人生を一変させるほどの大きな投資になりかねない。セックスが、妊娠や授乳、10年以上にわたる子育てにつながることがあるからだ。そうした役割を全うするには、多大な時間とリソースとエネルギーを必要とする。おかしな男とセックスしたら、悲惨な結果になる恐れがある。

女性の神経系は、有益な情報を見つけ出し、それを入念に吟味し、評価を下すように作られているように思える。僕たちは、こうした女性の神経系に「ミス・マープル探偵団」という称号を授けた。

私の印象では、基本的に女性も男性も、その「性欲」の構造は、あまり変わらない印象を受ける(男の子と女の子の、性格の違いはあるとしても、だからといって「アプリオリ」な性欲が、そんなに違っているという感じはしない)。
むしろ、上記にあるように、女性が「臨界期」においても、ある種の「社会性」を一貫して、頭の中で考え続けている

  • 計算女

であるという事実にすぎず、男性はそういった面を比較的軽視している、という違いなのだろう。
ハーレクインロマンなど、女性向けのロマン小説の特徴が、こういった傾向を説明するのだろうが、その特徴は以下となるだろうか。

  • 相手の男性は、お金持ちで成功したビジネスマン。
  • 自分以外の女性にもてる。
  • 自分の女性としての魅力に気付きプロポーズしてくれる。

あとは、男性と同じように、背の高い男が好きとか、そういったフェティシズムはあるのだろうが、ようするに、こういった「条件」の中で、
バランス
をとって、幅をもって「計算」している、ということになるでしょうか。ただ、おもしろいのは、上の三つのうちの最後のもので、

ロマンス小説では、ヒロインが圧倒的な性的魅力を備えていることが当たり前になっているので、サラ・ウェンデルとキャンディ・タンは、そうした魅力を「マジック・フー・フー」と呼び、次のように述べている。
「マジック・フー・フーは万能なの。どんな病気も治しちゃう。心の病もセックスの病も治すのよ。ヒロインが、セックスに乗り気じゃなかったり、経験がなかったり、ぎこちなかったりしても、これさえあれば、ヒーローに無上の悦びを与えることができる。ヒロインがこれを初めて表に出したときは、ヒーローにも、ヒロイン自身にも、それはそれは驚くようなオルガスムをもたらすようになるの。それに、これがあれば、生まれたばかりの雛が初めて目にしたものを摺り込むより、さらに理性を超えた長期的なきずなを、あっという間に築けるの。ヒーローはマジック・フー・フーをひと口味わったら、もうおしまい。ほかのものでは、体も気持ちも満足できなくなるの」

つまり、問題は10年以上に続く「友好」関係を成立させる「条件」を、こういった女性の側の「計算」は、模索しているということが分かる。こういった問題は、経済学における、ナッシュ均衡を思い出させられるわけで、ようするに、幾つかのパラメーターがあって、その「均衡」が、「それなり」に満足できているかが問われている、ということになる。だから、例えば、お金持ちかどうかにしても、それなりに自分が、その男性を経済的に支えられる財力が女性の側あるなら、それほどのウェイトとはならないが、子供を有名大学に進学させたいとか思っているなら、自然とその「条件」は厳しくなるかもしれない、といったような話なのだろう。
しかし、こういった問題も、男の「欲望」の側にないようには、どうしても思えないわけで、男性向けのアニメでも、女の子の側が、その対象の男性には「優しい」ということが「萌え」要素になっているわけで、つまり、男性だって、それなりに、社会的な傾向を「計算」していることは、やっているのだと考えるべきなのだろう。
掲題の本において、補注も含めて、上記で紹介した、AOLの情報やネット上のアダルト・コンテンツやロマンス小説などの分析があり、このことが、まあ、一般には、分かっていたような、性欲の科学の、統計的な証明となっていて、そういったことがパラレルに再検討されている、となる。
そして、上記でも引用したように、あれほどに多様に思える、味覚が、5つくらいの基本的な感覚の組み合わせで、ほぼ完全に説明されるのと同様に、性欲も、幾つかの「キュー」で、完全に分類できるのでは、ということが、掲題の本の主題であった。
まあ、それが成功しているのか、なのだが、私が言いたかったことは、もう少し過激で、つまり、こういった欲望が、
存在論的に「ある」
と言うのは、ちょっと違うんじゃないか、という、私の解釈する、安冨「ハラスメント」論的な視点なわけです。
つまり、上記で「臨界期」の話がでますが、ある性的な嗜好をもった人がいたとしても、じゃあ、その人のその嗜好は、
いつ
から、発現したのか。その萌芽はアプリオリなのか、と考えると、まあ、そういった部分がまったくないわけではないでしょうが、まず、ほとんどが、「臨界期」の「すりこみ」みたいに考えられる、と。だとするなら、こういったものを
存在
と呼ぶのは、あまり適当ではないようにも思う。だって、だから「治療」が可能(反対の「すりこみ」で打ち消す)と考えるわけでしょう。
つまり、いくらでも「コンテキスト」によって、変わりうる(そこが、「臨界期」においては、変わりにくい、ということなんでしょうが)。つまり、キャラって言葉にしてもそうなんだけど、こういった性的な嗜好が、その人の
アイデンティティ
つまり、その人を「識別」する記号として、一対一に考えるべきじゃない、ということなんですよね。だって、変わるんですから。
つまり、もっと一般的に敷衍して言えば、日常生活においては、あまりこういった「欲望」のようなものが
ある
というふうに考えない方が「健康」なんじゃないか、ということなんですけどね。いろいろな問題に対して。
(一瞬一瞬の「同一」の行動が「反復」されることは、いくらでも起きえたからといって、それがいつまでも続くとは限らない。次にやったときは違ってるかもしれない。死ぬ間際に変わるかもしれない。つまり、そんなに「固定」してない、と。)
(そもそも、完全に社会的な意味での「計算」だけを考えるなら、上記のような「性欲」って、ほとんど意味不明でしょう。女性の体のパーツへのフェティシズムにしても。本気で、心理学者のお金儲けのための陰謀なんじゃないかと思ってしまう。実際、セックスにしても、子供をつくるというなら、女性の排卵期の5日間なのであって、それ以外の行為って、ずっと、「愛撫」といいますか、文化的なスキンシップに近いものなのでしょう。だから、こういった「行為」や「フェティッシュ」より、相手のことを考えて、思いやるとか、そっちの方がずっと大切で、むしろこういうのって、「神話」みたいなものなんじゃないか。つまり、逆ですよね。禁止なんだと思う。禁止されてるから、タブーとなっているから、さまざまな「価値」だと見られている。反転してるんだと思う...。)
最後に、最近見た、話題の映画「SHAME」について、考察したい。
最初は、アイルランド出身でニューヨークの都会に出てきているという、ここ最近私が考えている、田舎から都会へ出てくる労働者の二面性の問題を考察しているのかとも思ったのですが、まず、全体としては「性依存症」として描いている、ということですよね。つまり、最初から、
病気
の問題としている。その辺りの分析は、例えば、

面白いなぁと思ったのは、会社のオフィスで、コーヒーのカフェインの有害性について指摘された後にトイレでマスターベーションをしていた事。ストレス(負荷)がかかるとやっちゃうんですよね。アダルトサイトも貧乏ゆすりしながら見てましたし。
誰にも知られたくない嗜癖を上司に知られてしまったブランドンは、依存から立ち直るべく、エロ関係のもの一切を処分し、以前から好意を寄せていた女性との交際に踏み切ります。が、それも不手際に終わり、欠如を埋めるために、さらなる深みに嵌っていく。セルフコントロール可能と思われた領域から転落した彼の相貌には、性の官能性が死の欲動へと近づくような倒錯的な快楽とは程遠い、苦行の表情が浮かんでました。世間一般では反倫理的で眉をひそめたくなるようなプレイをやっても、身体を貫く快感は軋むような痛みにしかなっていないように見えてしまう。男性の生理は女には想像すらできない領域があって、彼の苦痛をわが身に引き寄せてリアルに感じることがとても難しかったです。
screenshot

つまり、作品としては、これは「病気」なのであって、その病気性が
アジェンダ
されてしまうような構造になってしまっていて、でも、そうやって問題を「病気」ってことにしてしまうと、もう言うことがないわけですよね(まあ、実際に、映画がそういう内容でしたね)。
つまり、少なからず、多くの大人たちがこういった傾向を帯びて、例えば、上記で分析してきたような、アダルト・コンテンツの「消費」などをやっているわけで、でも、そういった行動を、じゃあ一回やったからって、
病気
って、言いすぎなわけでしょう。
例えば、この映画でも、この「病気」とは別に、主人公の妹への、家族愛は、それなりにある、という描き方はされているわけですよね。つまり、
普通(の作法)
なところもあるわけですよね。
むしろ、ああいった「病的」な所に行ってしまう前の、境界線こそが、上記で分析してる「ほとんどの人」であって、つまり、映画のような極端な所までは行かないけれど、
ある程度
あそこで描かれたような行為の幾つかは、やったことがある、といったような「都会で暮らす田舎者」の、まさに、上記の引用で分析されているような、

  • 性の営みが「苦行」でもある

ような、孤独ななにかを、示唆するというような形の方が、よりリアリティがあるんじゃないかな、というような印象で映画を見てたんですが。結局、なんでも、
病気
って言っちゃうと、それから、話が膨らまないですよね。つまり、病気だから、上記の引用にあるような、
因果関係
で、もうクリアに「病気行動」として、描かれてしまう。でも、多くの場合、もうちょっと、ここまで、過激でないといいますか、そんなふうに読めなくもないけど、そこまで、あからさまではない、という感じでしょう。
例えば、日本なら、田舎から出てきた都会生活者には、キャバクラにはまるような人って、けっこう、多いんじゃないか、という印象を受ける(これは、近年の、AKB48の人気とも似ている)。
それは、キャバクラには、どこか、田舎共同体の「会話空間」が再現されている面があるからじゃないか、とは思わなくもない。ああいった会話の雰囲気が、田舎の牧歌的な「付き合い」を「再現」されているという感覚があるのではないか(その代償に、高額の料金を払うのでしょうが)。
例えば、映画でも、主人公は、そういった女性と、会話をする。その内容は完全に、エロトーク一色であったとしても、いずれにしろ、田舎から出てきた都会生活者が、
田舎共同体の「会話空間」
と似た感じで、「話すことがエロトークしかないとしても」会話ができるということは、一つのモチベーションであり行動原理となっているとは思われる。つまり、それなりに会話好きなら、いびつではあっても、こういった「手段」がある、ということなのでしょう。
しかし、こういった方向からの考察は、最初から、この作品を「病気」と定義するところから始めている印象があるわけでして(実際、監督の意図はそうでしょうから)、ちょっと合わない議論になってしまいますかね...。

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