「資本主義社会」運動

みなさんは、この資本主義社会というものが、どういった原理によって、動いていると思っているだろうか。
たとえば、私たちが、この資本主義社会で、飢えて死にたくない、とする。生きたい、とする。そうした場合に行うことが、「お金集め」となる。つまり、自分にお金をくれる人を探すのだ。しかし、そういった人がいても、なんの代償もなく、自分にお金をくれるわけではない。お金をくれるとすれば、なんらかの、
交換
によってである。つまり、仕事だ。ところで、そういった仕事を自分にくれる人とは、だれなのか。言うまでもない。お金を持っている人である。背に腹は変えられないわけで、お金を持っている人しか、自分にお金をあげることはできないのだ。つまり、
お金持ち
である。私たちは、お金持ちに自分を
売って
生きているのだ。ということは、どういうことか。つまり、私たちは決して、お金持ちには逆らわない、ということを意味する。もう一度整理しよう。私が何を目的として
働く
のか。お金持ちの人の「手段」になることによって、である。つまり、お金持ちの人の人が「こういう世界になったらいいなー」と思ったことを、私が叶えるから、彼らからお金をもらえるのであって、つまりは、資本主義社会とは、

  • 労働者がお金持ちの「奴隷」である

ことを、含意するのだ。もちろん、新自由主義ではないが、それを「相対的」と言うことは可能だ。労働者だって、お金を溜めて、お金持ちになれば、立場は逆転する。今度は自分が、労働者を奴隷として使うことになる。
こういった言い方に反論する人はいる。労働者は、その仕事が嫌なら、その仕事を辞めればいーじゃん、いーじゃん。しかし、たとえそうだとしても、変わらないのだ。なぜなら、
別のお金持ち
の奴隷になるだけだからだ。生きるということが、働くということなら、この構造が変わることはない。マルクスはこれを、階級と言ったが、つまり、この関係が、

  • 奴隷労働を命令:お金持ち集合 --> 労働者集合

となっているわけで、つまりは、集団として見るなら、この奴隷関係が維持されていると言えなくもない、ということになる。
これを日本において、もっとも分かりやすく象徴しているのが、日本のバブル以降の、小泉新自由主義から、徹底して、

  • お金持ちの税金は、恐しいほど、下げられている

ということである。つまり、日本の近年の、借金体質は、完全に、お金持ち向け税金の引き下げと
平行
して、進んできたという事実である。つまり、単純に、お金持ち優遇を止めれば、日本は赤字国債をださなくてすむ、ということである。
しかし、この逆方向の動きは、この資本主義社会においては、
絶対
に起きることはない。なぜなら、そういった行為は、資本主義社会的労働者の動きに反するからである。
資本主義社会において、労働者はお金持ちの奴隷なのだから、労働者がお金持ちの損になるようなことを目指して行動してはならないに決まっているからだ。そんなことすれば、自分を雇ってくれている、お金持ちの方の不評を買ってしまう。すぐに解雇されるし、もちろん、世界中のお金持ちの誰一人も、そんな自分に損を与える奴を雇いたいと思わないだろう。
ということは、資本主義社会である限り、お金持ちは、どこまでも裕福になる、ということだけは、決定しているのだ。
しかし、そこまでして、お金持ちのお金を青天上に増やしたら、どういうことになるだろう。言うまでもない。その分け前に、あずかれない、
その他大勢
の、持つことのできる、所得は、それによって「相対的」に低下せざるをえない、という、たんなる分配上のリソースの問題となるわけだ。
今後、間違いなく、日本の消費税増税の主張は、大手マスコミを中心に、大きくなる。なぜなら、消費税こそ、お金持ちのお金を増やすために、最適の税制だからである。
資本主義の究極の理想は、お金持ちには、一切の税金がかからない。というか、お金持ちに、私たちが、税金を払うのである。彼らは
貴族
なのだから、彼らに貢ぐのが、私たち労働者の役目で、「だから」私たち労働者は給料がもらえる。つまり、労働者が、

  • お金持ちの人という「目的」

のために生き、奉仕する社会だということになるだろう。
そして、資本主義社会の「ドライブ」を加速すればするほど、この、隘路は深くなる。
だとするなら、私たちにできることは、この「ドライブ」を、少しでも遅らせることしかない、ということを意味している、ということなのだろうか...。
今、世界中は、グローバル競争の、まっただ中と言われている。世界中のどこの国も、所得税法人税を下げて、消費税を上げ、なんとかして、お金持ちを、自国に留めようという政策
ばかり
となっている。つまり、一国として、この方向に反して行動している国はない。なぜなら、一瞬でもこの動きに弱みをみせれば、そこを突かれ、お金持ちたちが自国を逃れ、他の国へ逃げてしまい、自国の衰退につながる、と恐怖するからだ。
ところが、たとえそういった行動をとろうと、世界中には「さらに」貧乏人な国には、事欠かない。お金持ちたちは、もっともっと安い労働者を求めて、彷徨い続け、私たちの労働者の労働は、さらに安い価格へと相場を下げられる。
こうして、世界は、遅かれ早かれ、以下の二つの勢力に分割される。

  • 1%のお金持ち
  • 99%の貧乏な労働者

大事なことは、これが「お金の本質」だということではないだろうか。お金がある限り、絶対に、「こうなる」のだ。これが、
構造
だということである。お金は、
完全全順序構造
なのだから、どうしても無限増殖運動を起こしてしまうわけだ。
だとするなら、普通に考えるなら、この構造を変えればいいんじゃないか、と思うのが、議論の流れだろう。まず、考えられる手段として、

  • 各個人が所得できるお金の「上限」を決める。

ある程度、上限に達したら、強制的に国が資産を没収するので、お金持ちは、そのギリギリのお金を、ボランティアに寄付するようになる、と。また、企業も同様の縛りをいれる。あまりに、大きな企業は存在できないし、株などで所有することもできない。
こうすると、お金持ちが、あまりに「肥大化」することを避けられるかもしれないと思うかもしれない。
しかし、そうではないのである。お金の順序構造とは、こんな小手先の手段を、あざ笑うのだ。「奴隷にお金持ちの資産を所得することで、管理させる」など、さまざまな手段で、骨抜きになるわけである。
たとえば、こんなことはどうだろう。お金を、それを所有している人と、「独立」して価値を数値化しているのが、今の、貨幣であるが、そうではなく、お金を所有している人に「対応させて」価値を決定させるのだ。たとえば、資産を多く持っている人が、自分のお金を使おうとすると、その資産の多さに応じて、その貨幣の「使用価値」が下げられるように、法で、コントロールするわけである。
あまりのお金持ちは、多くのお金を使わなければ、貧乏人と同じものを買えないようにするわけである。
しかし、これも同じように、抜け道を見つけられて、終わりだろう。
たとえば、タックスヘイブンにしても、お金があれば、法の抜け道を、労働者に考えさせて、うまく儲ける手段を考え着くことができる。
同じことは、教育にも言える。
まず、いい大学に行くには、いい教育を受けなければならない。つまり、

  • いい教育を「買う」

のである。お金を出して、いい教育を買った「から」、いい大学に入れたのであって、この逆ではない。そんなの才能じゃないか、と言うかもしれない。
嘘だ。
自分を頭がよくなるように、お金で、労働者を雇って、自分を「改造」させるわけである。そうやって、勉強ができるようになることを、お金で買うのだ。
勘違いしているのだ。
私は先に、資本主義社会と言った。つまり、ここは資本主義社会なのであって、一切の例外はないのだ。あらゆることが、資本主義社会の中で、その存在の意味が定位されるのであって、その例外は「ありえない」。だから、資本主義社会なのである。
漫画のどらえもんは、こういった資本主義社会における作法を、非常に示唆する内容であった。のび太は、どらえもんに、胸のポケットから、あらゆる未来の道具をだしてもらい、自分が欲していることを叶えてもらう。つまり、あらゆることは、どえらえもんの胸のポケットから取り出される
商品(道具)
によって、表象されているわけである。どらえもんの道具とは、この資本主義社会における商品のことを示唆している。のび太が、いつも失敗しているのは、高いお金を払っていないからで、つまり、VIPサービスの
サポート
を受けていないからにすぎない。つまり、お金持ちは、「失敗しない道具」を使うことのできる、のび太のことを意味するにすぎない。のび太が、いじめられず、勉強もでき、しずかちゃんに好きになってもらうには、
札束
で、ジャイアンや、すね夫や、しずかちゃんの顔を、ひっぱたけばいいし、この資本主義社会を、ひっぱたけばいい。
人によっては、世界中の国々が国連で、極端なお金持ちを作られないように決めればいいんじゃないか、つまり、世界中の国々で同時革命をすればいいんじゃないか、と思う人もいるかもしれない。
こういった方法は、一見有効です。そうすれば、今起きている、法人税引き下げ競争を抑えることは可能になるかもしれません。しかし、これでさえ、本質的ではないわけです。
たとえば、こういった動きを起こすには、まず、アメリカが動かなければ、今の世界秩序においては、何も始まらないでしょう。ところが、そのオバマ大統領が、なぜ大統領になれたのかを考えれば、膨大な金融マフィア的大企業からの寄付によるわけだろう。つまり、そもそもそんなことを公約にしたら、選挙戦を戦えないわけだ。
資本主義は避けられないという人は、そもそも、アメリカの選挙が、お金まみれであることに、なんの疑いももたない。あの、長期に渡って、アメリカ中の州で行われる大統領選挙が、膨大のお金によって、運営されていることは、アメリカ政治が、お金を無視して、動くことはないことを意味している。
では、こういった資本主義社会の運動が止まることはないのでしょうか。これは、ローカルな意味でなら、ありうると言えるでしょう。つまり、インフレーションであり、恐慌です。恐慌において、貨幣の価値はなくなります。人々は、その貨幣を使うことをやめ、物々交換を始めます。
しかし、このことが、資本主義社会の普遍性を否定しているわけではありません。たとえ、恐慌が起き、資本家の資産が一文無しになろうとも、また、新たに、貨幣が生まれ、資本主義社会が動き始める。
この、無限地獄に対して、人間は、なす術がないのでしょうか。
そもそも、なぜ貨幣が存在するのか。それは、便利だからでしょう。しかし、その便利さは
信頼
が生み出していることに注意がいります。なぜ、お金持ちはお金を集めるのか。つまり、それと、なにかを交換できると信じているからでしょう。しかし、私たちは一般には、

  • この人から、この商品を買いたくない

という「感情」をもつことは、往々にしてないだろうか。原発反対の活動をしている人が、原発をこれからも、もっと作れ、とプロパガンダして、お金儲けしている原発推進の人から、商品を買うことで、その原発推進の人の

を増やすことに貢献したいと思うだろうか。
また、このことは逆からも考えられる。ある食料を買うとしよう。しかし、その食料は本当に食べても大丈夫なのだろうか。もしかしたら、生産した人は知っているけど、一般には分からない悪意によって、なんらかの、10年後くらいにならないと分からないような、

がしこまれている、ということはないのか。つまり、私たちは、その生産者を知らない。だから、その人がどんなことを考えているのかを知らない。オウム真理教サリン・テロのようなことを、生産してる食料でやってやろう、などと考える危険人物かもしれない。ようするに分からないわけだ。
しかし、こういった「問題」は、例えば、中国なら頻繁に起きているというニュースは、何度も聞く。つまり、中国は、日本など較べものにならないくらいに、
資本主義が発展している
と考えられる。あまりにも、過剰な「品質管理」を行えば、儲けは半減する。池田信夫はブログで日本の労働者は、給料以上に働きすぎるから、「正常な」競争が働いていないことが、あらゆる諸悪の根源のように言っていたが、つまり、この人の言う通りにすると、中国になるわけだ。
中国人はみんな中国で作られた食料を食べたくない。中国で作られた、オモチャを子供に与えたくない。なぜなら、中国人自身が中国製品を「信用」していないからで、彼ら自身が何が起きても不思議じゃないと思っているから。みんな、中国人なら、どんな「トラップ」を商品に、仕掛けていても不思議じゃないと思っている。みんな、給料が少なく、収入が少なく、借金が多く、日々の暮らしが、苦しくて、生きることに自暴自棄になっている。そんな生活からは、悪意しか思いつかなくなり、どんな小さなことでも、
商品開発の所々にトラップを仕込む
という、悪業趣味だけが生き甲斐となって、日々を過ごすようになる。中国のメーカー側は、そういった状況に、逆に、そういったモラルの低い社員が「あまりに多い」し、彼らの給料を「それによって」低く抑えられている現状から、このトラブル対応を、
政治家へのワイロ
によって、世論の抑圧として、なんとか乗り切ろうとする。そもそも、こういった労働者を雇わざるをえないことは、自明と考える限り、あとは、政治への介入しかない。
この状況は、日本の水俣病や、現在の原発推進の動きにも似ているだろう。
みなさんは、ここから、資本主義の何が問題だと思いますでしょうか?
つまり、資本主義を、そのプレーヤーである私たち一人一人が管理できない
大きさ
にまで拡大していることなのではないでしょうか。つまり、この資本主義社会内に自分が管理する資本主義圏を構築し、そこで生きようと考えるのがいいように思われます。
まず、食料は自分が信頼できる農家が作ったものを買うようにします。中間業者も、信頼している人しか介在しないようになってなければ、直接、農家の人に届けてもらいましょう。
そもそも、自分が知らない人と商売をやらないのです。いちげんさんお断りです。必ず、自分が信頼している人の紹介で、相手を広げていくわけですが、それも、様子見で、「少しずつ」信用していく。
こうやって、危険な橋を渡らないようにすることで、「自分がコントロールしている」という感覚を大切にする、ということになるでしょう。
では逆に問うてみましょう。
なぜ、日本の高度経済成長は、圧倒的な強さを維持したのか。日本製品の品質は信頼されたのか。一つには、この日本列島の「同質性」があっただろう。日本で今生活している人はほどんど、黄色人種の日本語で生活している、自分を日本民族の一人と自覚している人ばかりだったので、比較的に合意形成が容易だった、ということなのではないか。その特性を生かして、経済活動をやってきたので、こういった「品質」が当たり前だと思ったのだ、と。
こういった側面を「軽視」する有識者は、「フラット革命」を強調するようになります。日本製品の品質は世界中で保証されるなら、10分の1の労働賃金で働く、海外に仕事を移して現地の人間で作ったって同じ品質は保証されるに決まっている。日本人に働かせたら負けだ、と。
しかし、そう簡単に日本ブランドはなくならないんじゃないか、とも思わなくもない。それは、あと何十年かやれば結果として現れてくるだろうが、資本主義はそんなに簡単じゃないからだ。
たしかに、海外に工場を移せば、一見、その現場の労働者は安く働かせられるように見える。しかし、現場の労働者だって、馬鹿じゃないですからね。もっと、給料を上げろと、相手の足元を見て、ふっかけてくるでしょう。
そうすると、あまり「お得」感が下がっていく。実際、現場のトラブルは絶えないわけで、安ければ安いなりの苦労が、多くの企業で共通認識となっていく。
しかし、そういったスタイルで「適応」を進めてしまった、多くの企業は、今さら元には戻れない。そうすると、今度は日本内の労働者が余り始め、単価が安くなる(多少、安くても働いていいかな、と思い始める)。すると、今度は日本の「割安」な品質のいい労働者を、なんとか
利用
できないか、と考え始める企業がでてくる。
日本ブランドとは、日本の「過剰な品質」が、世界中にあきれさせるほどに過剰ゆえに、信用させるのであって、これを手放した時点で、日本はただの二流国に落ちる。そもそも、「いいもの」を作りたいという動機がないなら、なにも作らなければいいのだ。やる気がなく、他人に認めてもらおうなど、これほどふざけた話はない。
日本において仕事とは、「芸道」である。これは、極めるものであって、もしそういった「尊敬」されるものでなくなったなら、なんでわざわざ日本の製品を買おうなどと思うだろう。
日本の漫画やアニメの特徴を一言で言えば、その「過剰」なサービスだろう。それは、明らかに作っている側が楽しんでいる。つまり、「道」を極めているのだ。だから、人々はそういった「個性」をおもしろがる。
特徴のないものは、最後には人をあきさせる。わざわざそれを選ぶ「動機」がないからだ。
マニアックなまでに過剰であることを止めたときが日本を止めるときなのだろう...。