篠田謙一『日本人になった先祖たち』

日本の教育制度において、「日本史」という教科がある。そして、そこには、もちろん、教科書がある。小学校から中学、高校と使うわけだ。
しかし、私には、まず、この教科が「何」なのかが分からない。つまり、ここで何を明確にさせ、「教える」のか、その具体的な対象が分からないのだ。
日本史とはなんなのか?
あらためて、こんなことを聞かれても人々は困るのかもしれない。私たちが産まれたときには、すでに、日本と呼ばれている国があって、そして、なぜか、この国で産まれた私たちは日本人ということらしい。とするなら、その日本という国の「歴史」があるだろ、それくらいわかれよな、ってことなのだろうか。
ナショナル・ヒストリー...
まず、ここで、なにをしたいのかを、明瞭にできないか、考えてみよう。まずは、上記にある、「だれかがこの国なるものを定義し、今日に至っていて、それをいつからか、日本と呼ぶようになった、その空間」とでもしておこうか。
しかし、この方法は、「正当性」の問題を呼び起こし、やっかいになる。たとえば、沖縄は江戸時代までは、独立した国家だったと考えるべきだろうし、大和朝廷が権力を拡大していく以前には、さまざまな権力者が封建的に群雄割拠してたのだろう。また、それ以前には、卑弥呼の時代があるとかで、そことの連続性もよく分からない。
また、大和朝廷に行く前の卑弥呼の時代くらいの出土品をみると、その呪術的出土品は、中国の道教といいますか、緯学といいますか、いわゆる、中国の土俗的宗教、民間慣習にあるようなものの影響もあるようで、大和朝廷より前の、魏志倭人伝の頃の日本の土俗的な村落形態には、たとえ、それほど文字が確認されてなくても、そういったものが流れて定着していた影響もあったのか、とは想像する。
このように考えてくるなら、むしろ、「今、日本国の領土となっている島島の上で、暮していた人間たちの行動記録」と、とりあえず、別定義してみる、というのが無難なように思われる。
つまり、大きな特徴として、この日本列島の上に住んでいる人々は、ほとんどが、過去に先祖が海を渡って、流れ着き、この島に住むようになって、そこから、あまり、外に移住していかなかった人々、という傾向があるだろう。

  • 人A(海を渡って漂着):日本列島の外X --> 日本列島

なぜ、日本に渡ってきた人々があまり、外へ行かないかは、実際に行かなかったかどうかというより、たんに、日本から外へ行くということは、
元いた所に戻る
ということを意味するだろうと考えて(ユーラシア大陸から日本に来たなら、その「先」とは、アメリカ大陸になると考え、太平洋を渡れる航海を昔の人は難しかっただろう、という意味で)、それなら、苦労して海を渡ってきた意味がなかったんじゃないか、という意味だと考えてもらえばいい。
そうすると、日本の歴史を考えるということは、このように、外から渡ってきた日本人の祖先が、今に至るまで、子孫を継承してこれたのだろうか? というような視点が、一つのポイントとなりそうに思われる。
この後、話を進める前に、一つ確認しなければならないことがある。
人とは誰か?
である。つまり、人間とはゴリラやチンパンジーの祖先が、枝分かれして、今に至るといわれるが、その場合に、「類人猿」と言って、いくつかの種類が過去には存在していた、と、発掘した骨などから、言われている。そう考えると、じゃあ、その
どれ
が、今の人間になったのか、という話にならざるをえないだろう。

最初の集団がアフリカを旅立った時期についてはどのような解釈がなされているでしょうか。最初の全塩基配列を用いた研究では、このアフリカらの旅立ちの時期を八万年から二万四〇〇〇年前のどこかというおおざっぱな推定をしています。実はこの下限の数値は少々新しすぎるようで、ミトコンドリアDNAを使った他の研究ではL2とL3の成立が約八万五〇〇〇年前と推定されています。そこから演繹される出アフリカは八万五〇〇〇年〜五万五〇〇〇年前のどこかで、これは後述するY染色体の研究とも一致していますので、今のところおおざっぱには七万〜六万年くらい前にアフリカ大陸を出て世界に広がったと考えてよいようです。それにしても私たちの祖先は一五万年くらい前にはすでに誕生していたのですから、ずいぶんと長い間アフリカにとどまっていたことになります。

私たちの祖先がアフリカから旅立ったとき、世界には私たちとは異なる人類が生存していました。ヨーロッパにはネアンデタール人が、東アジアには北京原人の子孫が、そして東南アジアにはジャワ原人の子孫たちが住んでいたのです。私たちの先祖はやがて世界の各地で、これらの人々と出会うことになったのです。

上記の引用を理解するには、近年の分子生物学を理解する必要がある。つまり、DNAのことであるが、この遺伝子というコードの特徴は、各生物ごとに、ほとんど同じであるが、一部違っていて、それは、各個体の生殖活動によって、「それぞれ」子孫に伝えられていく。ただし、まれに、「突然変異」というものが、起きて、それが伝えられることもある、ということになるだろうか。
この特徴を、時間軸空間軸に置くと、以下のような特徴を分明にできる。

  • その時代のある地域に、どれくらいの割合で、その遺伝子の部分の傾向をもっているか。
  • その時代のある地域に、その遺伝子の部分の傾向をもっていないか。つまり、その「突然変異」はまだ地球上に誕生していないか。
  • こういった、遺伝子の各部分の分布の変化の傾向により、おおよその、集団的な「系統樹」が想定できる。つまり、遺伝子の変化は、漸進的なので、どの部分がどういった方向に変わっていったのかは、全体的な分布の傾向によって、推定できる。

掲題の本によると、寒い地域の人骨などからは、発掘した人間から、DNAを採取できる場合があるようで、これによって、過去から繋がる、人類の、時間軸空間軸同の変化の「地図」が描けるわけである。
すると、掲題の本によれば、今世界中に存在する人類は、すべて、七万年前くらいに、アフリカから、世界中に旅立った「類人猿」だということになるらしい。
しかし、そうすると気になるのは、上記にあるように、それなりの期間において、その「人類」と、他の類人猿が、同じ地域に共存していただろうと考えられるわけで、じゃあ、その間の「交配」なかったのか? ということになるが、現在までの遺伝子レベルの知見では、否定的ということらしい(しかし、どうしてもDNAは採取できたものから判断するわけで、サンプルは少なくなるので、完全に、なかったかどうかは、はっきりしないのだろう)。
これで、なんとか人の定義ができた、ということにしよう。では、その人が、日本列島に来たとして、その人たちの子孫存続の生活が、どのようなものだったのか、に話を移していきたい。

日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。
終期については青森県外ヶ浜町大平山元I遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。
日本列島での人類の足跡も9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡る。
地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。
screenshot

この日本列島に人が住んでいた、という場合には、実際に、人の骨があれば一番分かりやすいですが、それ以外にも、
人間以外が作ったとは考えられない
発掘品が出土すれば、そこに人がいた、ということになるのだろうか。それにしても、出アフリカした今の人類の祖先が東アジア地域に渡ってきたのが、4万年前くらいですから、上記の金取遺跡と合わない気がしますね。誰なんでしょう。東アジアに生息していた、別の類人猿なんでしょうね。
そのことは、おいといたとして、では、こうやって日本列島に来て、問題は、「しかし、その祖先は今の日本人には繋がっていない」として、では、どういう理由で、その系譜はとぎれたのか、ということになるだろう。
まずは、氷河期という気候の変化があるのだろうか。次が、一番重要で、
火山の噴火
によって、食料が取れなくなった場合があるだろうか。
少し話が煩雑になってきたので、整理すると、

  • 日本列島に人類が存在した形跡がある時代(石器などの発掘によって)
  • 日本列島に人骨などの人そのものの死骸によって後づけられる時代
  • 日本列島に人骨などの人そのものの死骸からDNAが採取できた時代

日本で発見された人骨ということでは、3万年前くらいの沖縄のものがあるが、こういった温かい地域の骨から、DNAを採取するのは難しいという話のようだ(実際、採取するとなったら、骨を欠損させて行うのだろうから、やりたがらないだろうし)。そうすると、

  • 今の日本列島に住んでる人の祖先は、いつくらいに日本に渡ってきた人から、たどれるのか。

いろいろ書いてきたが、これを「日本史」という視点で整理すると、

  • まず、各時代に応じて、日本列島の「生態」はどうなっていたのか。氷河期はどうか。植物や動物の生態はどうか。その時代に人間がいたとして、彼らは、どのような暮しをしていたのか。
  • もし、ある程度の村が存在したとして、そういった人々が「ほぼ絶滅」するような、決定的な、火山の噴火のような事態が、どういった形で起きてきたのか。
  • いつくらいから、初期の今につながる、日本人が定着しているのか。
  • 縄文人弥生人と呼ばれる農耕民族の違いは。

こんなようなポイントに注意して、再度、「日本史」を書き直してもらいたいものだ。
最後は、余談になるが、少し、遺伝子について考えたい。
遺伝子というものは、結局、各自の「個人情報」に関わるだけに、人々はこういったことを話すことを嫌うものだ。実際、遺伝の性質によって、就職活動に差別されたりしたくない、という気持ちも働くのかもしれない。
そう考えると、あまりにも、各自の遺伝情報が、おおっぴらになることに、人々が警戒的になることには、無理からぬ気もしないではない。
しかし、そういった「社会的」な事情を抜きにしたとき、さまざまに、多くのことが、実際分かっているという事実もあるのだろう。

ところで私たちのなかには、ほんのわずかなお酒を飲んだだけでも真っ赤になったり、すぐに気持ちが悪くなる下戸の人もいれば、いくら飲んでも顔色一つ変わらない酒豪もいます。実はその違いは、体のなかでALDH2酵素が正常に働くか否かにかかっているのです。ALDH2をコードしている遺伝子は、ヒトの第一二番染色体にあります。この酵素の四八七番目のアミノ酸は正常型ではグルタミン酸ですが、このグルタミン酸がリジンというアミノ酸に置き換わっている人がいます。DNA配列で言うと、グルタミン酸をコードするGAAという配列の先頭のGがAに変化して、リジンをコードするAAAになっているのです。このDNAが一カ所で置き換わっただけで、ALDH2はアセトアルデヒドを酢酸に分解する能力をなくしてしまいます。お酒が強い人は正常型の、弱い人はこの変異型の酵素を持っているのです。

図1−2は世界の各集団におけるこの変異型遺伝子と正常型の頻度を示したものです。変異型は中国南部を中心とした極東アジアの地域に多く、そこから離れると徐々に保有率が低下していくことがわかります。ヨーロッパやアフリカの人々には、変異型の遺伝子をもつ人はほとんどいません。

日本人全体では、正常型を二つ持つ人が五六%、一つの人が三八%、変異型二つの人が四%存在すると言われていますが、(後略)。

つまり、「下戸」って、ほとんど中国南部を中心とした、東アジアの人の話みたいなんですよね。
正常型が一つだけの場合は、二つの人の、アセドアルデヒド分解の能力は、6%だそうで、まあ、けっこう「下戸」ですよね。
それで、日本では、上記の分布ということで、つまり、日本人はけっこう、お酒が飲めない(正常型が一つの、けっこう「下戸」がこれだけいる)わけで、そう考えると、企業でも飲み会をよくやるが、けっこう多くの人は、それをストレスに思ってることが分かりますよね。
つまり、そうまでして我慢している人がけっこういながら、なぜ日本人は、ここまで飲み会をやるのか、ということですが、それが、明治維新の文明開化だったんですかね。西洋人の「まね」みたいな意味で(西欧では、飲み会は当たり前だし、日本人がそれをやらないというのは、恥かしいと思ったのでしょう。実際は、そもそもの話として、日本人自身が自分たちが、上記の割合で、少したしなむ程度なら我慢できるけど...、レベルの人が多いということを知らないんでしょうね。自分のことじゃないんで分からないもので...)。

日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)

日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)