児玉龍彦『低線量被曝のモラル』

島薗進など、複数との共著。)
みなさんは、今回の、311以降において、起きた、低線量被曝についての議論の混乱とは、なんだったと思うでしょうか。私はこれを
混乱
と呼びました。しかし、問題はそれが、どういう意味で「混乱」なのか、です。
今回の福島第一の原発事故には、複数の論点があります。今さかんに話題になっているのは、再稼働問題ですが、ここで問題にするのは、その福島第一がまきちらした(また、今も存在している)放射性物質による、低線量被曝に対して、どのような、防御を国家政策として行うべきであったのか(また、あるのか)、についてです。
まず、私が考えるべきと思うのは、「こういった問題を考えるときの専門家とはだれなのか」です。
私は、こここそが最も本質的な問題だったと考えます。
なぜか。なぜなら、これが「当然」の科学的態度だからです。
だって、そうでしょう。低線量被曝ではない問題が起きたときは、まっさきに調べたのは、いつも「専門家」だったわけでしょう? 自分たちが今まで、やってきたことを、なぜ低線量被曝の場合には、その方法を適用すべきと考えなかったのでしょうか。
この場合の専門家とは、「この問題」についての、アカデミックな「最先端」の議論を、専門集団内で行っている「学会」の人ということになります。
そういった存在として、東大の児玉龍彦先生が表舞台で発言されるようになったことが、この問題にとって、決定的だったように思います。そこで、決定的に流れが変わりました。つまり、ここで
本当の専門家
が話し始めたからです。
そういった意味で、掲題の本は、この問題に、ある意味の終止符を打ったというくらいに重要だと思っています。
近年における、低線量被曝楽観論は、以下の二つの論点でした。

ところが、これらについては、島薗進さんが批判しています。

ここではコンパクトに問題点を列挙している中川保雄の『放射線被曝の歴史』(技術と人間、一九九一年、九六----九七ページ)から引用しよう。

第一に、被曝後数年の間に放射線被曝の影響で高い死亡率を示した被曝者の存在がすべて除外されている。
第二に、爆心地近くで被曝し、その後長く市外に移住することを余儀なくされた高線量被爆者が除外されている。
第三に、ABCCが調査対象とした直接被爆者は一九五〇年の時点で把握されていた直接被爆者数、二八万三五〇〇人のおよそ四分の一ほどでしかなかった。しかも、調査の重点は二キロメートル以内の被曝者におかれ、遠距離の低線量被爆者の大部分は調査の対象とすらされなかった。
第四に、そのうえでABCCは高線量被爆者と低線量被爆者とを比較対照するという誤った方法を採用して、放射線の影響を調査したのであった。
第五に、年齢構成の点においてもABCCが調査対象とした集団は、若年層の欠けた年齢的に片寄った集団であった。

島薗進「科学者はどのようにして市民の信頼を失うのか?」)

そして、

サンプル数わずか一三五六人で、そのうち半分は放射能の影響を受けていないと推定される対照集団である。つまり、わずか七〇〇人弱の被爆者への調査から、「健康障害は認められなかった」との結論が導き出される。
島薗進「科学者はどのようにして市民の信頼を失うのか?」)

こうやって、楽観論の、最も根本的な論点が否定されてしまうと、今までの、安全厨、危険厨、の論議ってなんだったのかな、って思いますよね orz。
そして、掲題の本で、多くの議論がさかれているのが、東大でほとんど唯一、この問題に積極的に発言されていた、放射線医師の中川恵一さんの、ほとんど
デマゴーグ
すれすれ(というか、幾つかは、そう認定せざるをえない)の、一連の発言であるわけでしょう...。
では、こういった楽観論の人たちの態度と較べて、児玉龍彦さんのスタンスとは、どういうものなのか、なのですが、かなり
ラディカル
なんですよね...。

しかし、例えばマイクロシーベルトという概念自体が、われわれから見れば相当に人為的な概念だと言うほかはない。私たちが、実際に見ているのは、仮にヨウ素があれば甲状腺に被害を起こすし、X線造影剤トロトラストが肝臓に放射線被害を起こすという人体への直接的な影響です。だとすれば、ヨウ素とトロトラストを足して、その数値の安全の範囲がどこまでか、などという議論は本来わけがわからないものなのです。

言われてみれば、当たり前の話で、放射性物質といったって、ものによって、与える体の場所が違うのだから、これらを
足す
って、なにしてんのかな、ってことですよね。関係ないものを足して、なんか意味のある値になるんですかね。

それではなぜ内部被曝が恐いのか。放射線治療α線を使った核種をもちいれば、細胞に障害を与える射程は八〇ミクロンです。一ミクロンが一メートルの一〇のマイナス六乗になりますので、〇・一ミリメートル以下の小さな距離にしか届かない。ですから、はっきり言って、体の中に入らないかぎりはα線は問題にならない。それから、β線でわれわれが使っているイットリウム(元素名)というのは二ミリメートルです。これも体外でしたら、組織障害するほどには、ほとんど届かないのです。ところがγ線は、六〇メートルくらい先のものも感度がよければ検知できる。ですから、空間線量を測定して、そこを本当にある程度きれいにしようとすれば、周囲半径六〇メートルくらいまでを除染しないともとの値に戻らないということになります。いずれにせよ、やはり体内に入るα線β線γ線が恐いのではないか。それも、α、β、γの順に恐いのではないか、というのが一般にわれわれが考えるときに採用する見方なのです。

広瀬隆さんも、最終的に恐いのは、内部被曝だと言っていたが、言われてみれば、そうなんですよね。やっぱり、内部被曝なんですね。で、これって、セシウムの濃縮って、生物濃縮とか、いくらでもありうるんで、東京だって、あんまり楽観視できないんじゃないんですか?

チェルノブイリの子どもの甲状腺がんで、どこがおかしいかを当然ながら研究する人が出てきました。ウクライナの学者と、ドイツとイギリスの学者とが共同してヒトの染色体のすべてについて、チェルノブイリで起こった子どもの甲状腺がんと、それとは無関係な子どもの甲状腺がんとを比べてみた。すると、染色体の7番のqの11というところが、チェルノブイリですと、いまわかっている範囲で四割の子どもで三コピーになっていましたが、チェルノブイリ以外の子どもの甲状腺がんでは全くそういうことがみられなかった。

要するに線量の問題というよりも、遺伝子の切れる場所がどこかということです。7q11が切れてしまうと、われわれは「パリンドローム変異」と呼んで、メカニズムの詳細もいまようやくわかってきているのですが、ここの領域が切れると二コピーが三コピーになってしまうことがある。

あー。そうなんですよね。つまり、ほんとの最先端の
ゲノム学者
が、とうとう、この低線量被曝論争の最前線に踊り出てきちゃったんですよねー。ガチ・モノホンが。
例えば、上記の引用の重要なことは、まず、原発起源の放射能でガンになったのかどうかを、このケースにおいては、かなりの割合で特定できる可能性を示してしまった、というわけでしょう。今までは、どうせ何十年も先のことなんて分かるはずがない、証明されるはずない、って前提で、語られてきていたわけですけど、けっこうな割合で、示させるかもしれないっていうわけなんですよね...。
そして、この場合では、線量ってなんの関係もなく、ようするに、その特定の遺伝子箇所が切れたかどうか、だけでしかない、っていうわけですよね。今までの、線量論ってなんだったんですかね orz。

福島先生の仕事でいちばん大事なのは、従来は遺伝子が切れる、切れないという影響でみていたのを、機械的刺激も長く続けると発がんが起きるということは知られていましたが、それと同じように慢性の炎症の続くことがきわめて危険であるということを、チェルノブイリにおいて証明されたという点なのです。

とうとう、放射性物質が、遺伝子を切らなくても、ほかの影響によっても危険だというわけですか。
それにしても、今までの、ICRPの疫学<神学>論争って、なんだったんでしょう。この本が完全にこの不毛な論争を終わらせましたね orz。

低線量被曝のモラル

低線量被曝のモラル