キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』

それにしても、私が昨日の総理の会見を興味深く思ったのは、あれが、

  • 総理の「意見」

として言われていたことだ。つまり、総理自身がこれ(関西原発再稼働)を、

  • 一般意志「ではない」

と言っているに等しいということなのである。国民の大多数は、自分とは違って、原発再稼働に反対している(たいていの世論調査で7割近いですよね)ようだけど、自分の「意見」は違うよ。
いやはや orz。
確かに、私なりに、ルソーの一般意志を批判してきたとはいえ、こうも「建前」もなく、当の本人に、露悪的に否定されると、なんなのかな、とは思わなくもない。
困ったことに、総理大臣が「当事者」性を発揮し始めた、ということなのだろう(言うまでもなく、総理大臣という役職はプライベートだ)。国民の総意と信託によって選ばれたのだと思っていたのだが、どうも、国民は
別のなにか
を選挙で選んでいたようだ。

  • 国民の大多数の「意見」と「違う」意見を持つことに「なんの疑いももたない」総理

が、この日本の戦後史上、生まれていたというのは、新たな発見と言わざるをえない。
彼は国民の意志と「違う」ことを行うことができる自分のことを、「個性教育」の成果、とでも思っているのだろう。みんなと違う「ボク」の個性が眩しいぜ(キリッ
(前おきは、それくらいにして、さて。)
掲題の本は、まだ、ツイッターもない頃のインターネットの世界において、インターネットが本質的に、

  • 犯罪者の巣窟

となることを分析した本だといえる。
みなさんは、「法」っていうものを、どのように考えているだろうか。たとえば、法律違反ということは、さまざまな場面で使われる用法であるわけだが、じゃあ、それは一体、何を意味しているのか、と。
私は、法というのを、「ネタ」でなく「ベタ」で考え始めた時点で、まともなコミュニケーションはできなくなるのではないか、と考えている。
法を「ベタ」で考えるということは、法を
システム(工学)
として考える、ということを意味する。例えば、

  • 盗んではいけない

という法があるなら、これは何を言っていることになるか。

  • あらゆる「盗み」は逮捕されなければならない

ということになるだろう。しかし、そんなことは可能なのか。もしこれを可能にするなら、あらゆる人の行動を監視しなければならなくなる。つまり、人々は監視カメラを自分に装着して、それで、自分の行動を「記録」し続けることで、アリバイ証明(というライフログ)を残しながら、生きなければならない、ことを意味する。つまり、そうしないと、

  • 自分は盗んでいない

という疑いの嫌疑を晴らすことができないからだ。
しかし、こんなことを言われて「うんざり」した人は、普通の感覚だろう。
こんなことを真面目にやろうと考える人は、そもそも、そのためのシステムを作りメンテナンスするお金を、だれが出そうとするのか、政治には「優先度」があることを分かっていない、

  • セキュリティ・オタク

だということになるだろう。
以前にも書いたことがあるが、私の考える、あらゆる法は、

  • 法創造

としてのみ意味がある、と考える。たとえば、上記の例でいうなら、「なんか変だな」と思ったら、そう思った、あなたが「常に」正しい、と考える、ということである。
つまり、その「瞬間」に、あなたは、「新しい法」を「創造」した、と考える、ということになる。
「いくらなんでも、私たちの生活習慣を壊してまで、法が私たちに無理筋の行動を強いるわけがない」
と、考える「から」、今までの、その法の文脈にはない事態に直面したとき、その人は「新しい解釈」を「発明」するわけである。
言うまでもなく、どんな日常においても、完全に同じ「場面」など、存在しない。どこかしら、過去とは違っている限り、完全な、法解釈の「過去の事例」の「適用」は不可能なのだ。そうである限り、その適用は、必然的に、
アナロジー
となり、「曖昧さ」が常につきまとうことになる。
これは、日本の警察組織が、どのように、今まで、振る舞ってきたのかを考えてみればいい。そもそも、日本の警察には、
リソース
の上限が決まっている。だから、なにかを「無限」にやりたくても、できないわけだ。そこで、必然的に、あらゆる行動は、
優先度
によって、ふるいにかけられる。
しかし、それでは「市民」の法的な「需要」に、そのサービスが必然的に満足を与えられない、ということになるだろう。しかし、多くの場合に、そういった不満が、それほど大きくならないのは、そもそも、国民が法を、
べた
に考えていないから、ということになるのではないか。
掲題の著者が、「べた」に法を考えたとき、その視線の先にあらわれるのは、

  • 犯罪者予備軍

となる。つまり、

  • ケシカラン

人たちだ。こうして、インターネット上には、

  • (ネットという)セカイの中心で「ケシカラン」を叫ぶオヤジたち

であふれかえる。

二年前、政治に関心がある一〇人あまりの有志中心になって、あるネット会議室がオープンした。彼らの心配の種は、銃規制を求める世論の圧力の増大と米国憲法のセカンド・アメンドメント(修正第二条)の「骨抜き化」である(銃販売に対する政府による規制の撤廃が拡大していることに頭を痛めている。アフリカ系アメリカ人と「過激なウーマンリブ」の社会的影響力の増加が、「ヨーロッパの伝統」や「伝統的な道徳観」への脅威になることにも悩んでいる。

オクラホマシティー爆破事件後にも、何十にものぼるユースネットがニュース会議室にオクラホマシティーで使われた爆弾の材料リストと爆弾の改良法について匿名の書き込みがあった。報道によれば(これは驚きではないが)数百の嫌がらせ集団(ヘイトグループ)が陰謀や爆弾のつくり方を話し合うためにインターネットを使っているといわれている。そのような集団のメンバーは、仲間同士で話し合う傾向が強く、思い込みをより強くしていくようだ。コロラド州リトルトンで銃を乱射した二人の高校生は、ウェブサイトで爆弾づくりの詳細を公開していた。

いくつかのヘイトグループは、同志のウェブサイトと、「こちらにリンクしてくれれば、そちらにもリンクします」と正式にリンク合意を結んでいる。「世界中に白人のプライドを」というバナーで一〇〇以上のグループとリンクを張っているウェブサイトがある。このリストには以下のグループが入っている。欧州KKK騎士、ドイツ・スキンヘッド、アーリア人種国家、KKK騎士、シーグハイル88、スキンヘッド・プライド、威嚇入門、SSエンタープライズ、白人の将来。
集団分極化という現象に目を向ければ、理解が深まるかもしれない。個人や集団がさまざまな選択をするさいに、多くの人々をエコーチェンバー(訳注 反響効果を人工的につくり出す部屋)に閉じ込めてしまうようなシステムがこの現象の原因ではないか、という疑問が出てくる。

しかし、私がこの本を読んだ印象は、むしろ、インターネット上は、

  • 現実社会と変わらない

ということの方が、本質なのではないか、という感じを受ける。
上記の引用は、そのことが分かりやすい。つまり、こうやって、掲題の著者によって「選ばれる」対象の特徴は、掲題の著者が「ケシカラン」と考える思想に対応している。しかし、言うまでもなく、インターネット上には、さまざまな主張にあふれかえっている。つまり、こういった選び方は「恣意的」なのであり、べつに、こんな主張ばかりがインターネットではない。
しかし、「ベタ法」をシステムとして考え始めると、むしろ、こういったことにしか、視点が行かなくなる。
日本でいえば、新左翼のバールで人を殴ってきた歴史だとか、オウムのサリン事件だとか、酒気薔薇事件だとか、秋葉原ナイフ事件だとか。
(むしろ、なぜ警察や検察は、こういった「中間集団」を存続させているのか、と逆に問うべきだ。そこには、間違いなく、「自分たちの存在意義」が、こういった集団の存在によって、担保されている、という
寄生(共生)関係
が見てとれる。つまり、警察や検察は、こういった組織がいてくれることによって、仕事がなくなるという「恐怖」から、逃れられているわけだ。)
掲題の著者は、さかんに、インターネットによって、彼によって恣意的に選ばれる「ケシカラン」が、増幅され、社会を席巻するんじゃないか、と、
恐怖をあおる
わけであり、彼はそれを「サイバー・カスケード」という言葉で、つまり、その運動の「暴走」として、社会秩序の危機を警告するわけだが(まさに、経済における、恐慌だ)、おうおうにして、現時点においても、ツイッターフェースブック、ブログ、2ちゃんねる。それぞれに、それなりのバランスで、なんとかやってきているように思われるわけである。
つまり、

  • なんやかんやで、インターネットも「慣習」的に自生的な秩序が生まれている

という方向の方が強いのではないのか?
つまり、問題はむしろ逆で、

  • なぜインターネットは、なんの規制もないのに、ここまでの「平和」が続けられているのか

というふうに問うべきなのではないか。
例えば、私は、毎日のように、朝夜のラッシュの時間帯に、東京の電車に揺られて、生活している身ととしては、驚くべきは、その毎日の
整然
と粛々と進むその行列の「おとなしさ」である。つまり、こういう光景を見ていると、そもそも、なぜ、こういった
(自生的)秩序
は生まれうるだけでなく、こうも
毎日毎日
続くのだろう、という感嘆を通り越して、唖然とした感情が生まれてくる。
あれだけの多くの人が、通路を通るのに、ほとんどぶつかることもなく、「交通整理」が「勝手」にできあがっていく。ということは、通路に貼ってある、人を誘導する方向にある標識に沿って人々が「交通」していることを意味するわけで、実に不思議なものである。
こういった問題を都市の問題として考えたのが、この本の序文にもあるが、ジェイン・ジェイコブスだと思っている。

ジェイコブは都市のもつ多様性、とりわけ、それまで想像もできず興味もなかった人たちや習わしとの出会いを可能にする公共の場としての都市を高く評価している。

しかし、こういった整理は、掲題の著者のジョン・デューイの延長で民主主義を考える立場を、色濃く反映しているように思う。ジェイン・ジェイコブスは、別に、
民主主義
こそ
都市
の本質だと言ったわけではないだろう(つまり、この著者によるジェイン・ジェイコブス解釈には、意図的なミスリーディングを感じる)。つまり、なにもかもを民主主義(つまり、システム)に還元せずにいられない限り、
ベタ法というパラドックス
から抜けることはできない。つまり、分かりあえなければ、秩序は生まれないと考える限り、インターネットは「危険の巣窟」として、
ケシカラン
を叫び続ける「危険厨」を刺激し続ける、心臓に悪い見世物ということになるのだろう...。

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か