暗号社会

ised の倫理篇という、やたらぶ厚い本を読んでいて(ツイッターが普及する前のもののようだが)、まず思った感想は、倫理といいながら、全体として、一貫して、ネガティブなネット上の社会現象に対しての、
管理
をITで、どうやって実現するのか、みたいな話ばかりになっている、ということであった。

  • どうしてこうなった。

つまり、ずっと「暗い」のだ。つまり、ずっと説教モードでプンスカやってて、そんなに今のネットは悪いのか、という印象をもたざるをえない。
もう一つの印象は、倫理といいながら、一貫して、そのネット上の情報という形で行われている「言論」の内容の
価値
について、まったく語られていないことだ。
つまり、どうもそういった「内容」には、(ことネット上では)そもそも「意味」がないと考えたいようで(じゃあ、どこでなら意味があるんですかね。大学や彼らが書いている本の中ってことなんでしょうか)、そうやって、ユーザー同士の言葉の応答が繰り返されることによる、それぞれでの「繋がっている」という事実だけが意味があるんだ、というメタ論理を「前提」に話されているようなのだ(しいて価値の話をしている場合といえば、社会秩序を破壊する可能性を感じるヘイトスピートの場合くらい、と)。

  • どうしてこうなった。

なぜ内容を問わないのか。その価値観がよく分からない。ネット言論を「価値」として考えないというのは、なんらかの「囲い込み」の意識があるのだろうか。
つまり、それで「倫理」なのか、と。
つまり、一言で言えば、「ネット + 倫理」として論じられるべき話の、ごく一部を論じているだけなんじゃないのか、そして、そのことにあまり自覚的じゃないんじゃないか、という印象だ。
どうしてこういった方向になるのかと考えたときに、一つには、こういった若い人たちの視点に「イデオロギー」がないことではないか、と思われることがあるのではないか。これは、別に褒め言葉ではなくて、前の世代の、右翼や左翼の関心を、意図的に引き継ごうとしないことで、一つの社会的ステータスを確立してきた彼らには、そういった関心の
タブー
があるのではないか。

東浩紀 「規律訓練 discipline」型の権力とは、価値観やイデオロギーといった内面的な部分を通じ、ある特定の行動を主体的に選択する個人を作り上げていく権力です。近代国民国家における「臣民化」の過程などと言われるのは、まさにこのタイプの権力の典型です。他方、「環境管理」型の権力とは、そのような内面を必要とせず、ある特定の行動以外が不可能になってしまうように社会環境を整えることで、人間を身体的かつ無意識に----『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の表現を使えば「動物的」に----コントロールする権力です。この二つのタイプは、社会秩序を維持するために、いつの時代にも併存して使われていたと思われます。
実際、規律訓練の概念を提示したフーコーも、近代社会では規律訓練と「生権力 bio-pouvoir」が対になって作動していると考えていました。

ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

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「生権力」とは、フーコーが「規律訓練」と並んで提出した、近代社会における権力の特徴を表わした概念。それまでの権力が、人々を懲罰や処刑によって「死なせる」ものだったとすれば、近代社会の権力は、統計調査などを行なうことで国民の人口や健康状態を把握し、より人々を「生きさせる」ように管理・調整していく点に特徴があるのフーコーは指摘した。
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つまり、彼の言っていることは、
システム
の話なんですよね。ルーマンの言う、システム工学が、まさに、近年のインターネットの普及によって、むしろ今こそ、ルーマンが頭に描いていたような、
現実
が実現できるのではないか、ということなのだろう。しかし、問題は先ほどから言っているように、その議論において「価値」の話がないんですよね。逆にそのシステムは、
管理(マネージメント)
なんだということになってしまっている(どんな問題でも、価値の話を避けるなら、そういうことにならざるをえないだろう)。しかし、なぜか話している当人たちは、そのことにあまり意識がない。
私の意図を、もう少し具体的に言うと、つまりは「優先順位」ということになる。

北田暁大 優生学的発想には批判が絶えないわけですが、例えば、誰しも持つであろう「自分の子供だけは健やかに育ってほしい」という願いも、ある意味で立派な優生学なわけです。しかし、この「我が内なる優生学」をわれわれは完全に否定できるだろうか。そこで立ち上がってくるのが、優生学への批判的意識を持ちつつも、「優生学=悪」という図式を相対化する「よりよい優生学は可能か」という問いです。先ほど東さんの発言を、私は「よりより環境管理型権力はありうるのか」という問題提起として受け止めています。
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この発言は非常に重要で、どうして、サイバーカスケード著作権やDVを防ぐための監視カメラのような話ばっかりになっているのかといえば、つまりは、

ここで討論している人「の」関心がそこにあるからなんじゃないか。つまり、これは彼らの「当事者」性なだけなんじゃないか、という印象を、どうしても強くしてしまう。
あらゆる政策には、言うまでもなく「優先事項」があるはずであって、そう考えたとき、サイバーカスケード著作権やDVを防ぐための監視カメラのようなものに、どこまでの、緊急性、優先性があると社会的な合意があるのか、という問いを立てることこそが、まずあるはずだろう。
つまり、これを「左翼」的に言うなら、消費税増税は許されないだろうとか、今の福祉政策は十分なのかとか、日本国内の貧困対策はこれでいいのかとか、そもそも、ホームレスに、屋根つきの部屋で住んでもらえるようにすべきなんじゃないのかとか、そういった議論の方が、
プライオリティ
が高いんじゃないのか、というアジェンダにならないんですよね。
だから、もし「当事者」性ということでいうなら、ぶっちゃけてしまえば、ブルジョアの家にとっては、自分の子供の「優生学」の方が、何倍も関心事なわけでしょ。自分の子供が進学校に入れるのかどうか。むしろ、親なんて、それしか考えていない。そう考えれば、サイバーカスケードなんて、まず自分に関わってこない、どう考えても、優先度の低い話ということになるでしょう。

東 ただ、ちょっと話をもとに戻しますが、僕はいまここで、「数が多すぎて判断できない」ことが情報社会の根元にあるのではないか、といたって単純なことを述べているんです。
社会の複雑性に直面して、判断できない人々が大量に出現した時、どのようにうまく社会の秩序を保つことができるのか。情報社会論では、「インターネットは個人の力をエンパワーメントする」とよく言われます。こう言うと従来の能力が増幅されるかのような印象がありますが、僕はその言葉は裏返しの意味で捉えるべきだと思う。現在では、社会が複雑になり過ぎているので、情報技術でエンパワーメントしないといままで通りに社会生活を送ることができない。それが問題なんですよ。たしかに、目利きやマスメディアもこれから存在しつづけるかもしれない。しかし、この基本線は揺らぐことはないのではないか。
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この発言もその延長で考えられますよね。どう考えたって、どうやったら、自分の家の財テクを成功させられるかとか、そういった
情報
「こそ」が、無上の関心なのであって、ようするに、「そういった」情報が欲しいんでしょ。複雑性の縮減とか、ルーマン用語を使ってるけど、ようするにそれって、どうやって子供を進学校に入れるか、といったような
情報
の話なんでしょ(つまり、それが「切実」な問題なんですからね)。しかし、そういったことなら、そもそも、国家がやる前に、ブルジョアには、市場が手当てをし始めるわけでしょう。いくらでも、そういった、コンサル的なサービスが普及するようになる。いや、それ以前に、
コネ
を売って、ブルジョアの子供を裏口から入れるようなシステムになっているわけでしょう。
つまり、そういった意味では、あまり本質的な話がされているように聞こえないわけですよね。
一般に、テクノロジーソーシャルメディアの発展と同一視して考える論者は、テクノロジーの発展が、個人情報の液状化をもたらすのと同時に、セカイの「フラット」化が不可避だと、それらが、

  • 歴史法則(歴史の必然的方向)

なのだ、と考えているように思われる。
そもそも、なぜそういった人たちが、そのように考えるようになったのかは大変に興味のあるところだが、そういった方向で考える論者の主張が、おうおうにして、
社会の監視
を重要視しているという印象を受ける(つまり、保守的)というのは、一つの答えなのかもしれない。
この本でも、何度も繰り返し行われているのが、「匿名」問題で、とにかく、匿名だとかプライベートのようなものは、時代遅れであり、なんとかネット空間から匿名性を排除したい、という結論に、全員でもっていこういている雰囲気がうかがわれる。
(実際、第一回で、韓国のネット背番号制が、しつこいくらいに参照されていて、実際に、そうした、国政向けの定言を行おうとしていたのではないだろうか。)
しかし、実際にこの本が出てから、ツイッターもあったりしても、今だに、2ちゃんねるを代表とする匿名のカルチャーは続いている。彼らの目指した「匿名」廃止の結論には至っていない。
そうやって見てみると、なぜ匿名とかプライベートのようなものが、一定の位置付けを与えられてきたのか、については、この本でも、さまざまに議論されていたりするわけですよね。

プライバシーはそもそも”right to be alone”(放っておいてもらう権利)として、一九世紀のアメリカで生まれました。しかし現在ではその考え方が変わってきており、再び原点である「放っておいてもらう権利」に戻るべきではないかという議論がありました。私も原点に立ち返って考えてみたいと思います。
なぜ放っておいてもらう権利が、特に近代社会で必要とされるようになったのか。私はこう考えます。それは「責任と問われる”行為 act”の領域」と「責任を問われない”振る舞い behavior”の領域」を分節する必要が出てきたからではないか。
辻大介「開かれた社会へ向けて存在の匿名性を擁護する」)
ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

臼田秀彰 私たちがプライバシー、知られるのが嫌だと感じるのは、要するに支配されているという感覚自体が嫌だということなんです。それはカメラなのか、RFIDなのかは関係ないのではないか。どのような条件を設定すれば私たちがプライバシーを侵害されていないのか、と議論されているのですが、そもそもいかなる情報であれ把握されるのは嫌だ、というところからプライバシーという感覚は始まっていると思います。
ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

辻 ただ、公共性ということで引っかかりを覚えるのは、オープンネスとパブリックナスの違いなんです。ネットは不特定多数のアクセスに開かれていて、これはたしかに公的空間(パブリック)であることの一要素ですが、基本的にネットはパブリックである以前に、単にオープンなだけなんですよね。先ほどからオープンであることすなわちパブリックであること、という前提で議論が流れていますが、はたしてそれだけでいいのかと思うんです。例えば、チラシの裏に書くことをインターネットに乗せる時、それはパブリックネスという要素を求めていないわけですね。彼らはオープンネスだけを求めていて、そこでいかに繋がっていくかが関心事になっている。
ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

なぜ、多くの場合、あらゆる秩序が、自生的でなければ成立していないのだろうか。
それは、この「セカイ」が、本質的に、
開放系
だからだ、と言えるのではないか。このことは、なぜ法律が、たんにリテラル(べた)として機能を十全に働かせてないにも関わらず、さまざまな人々の行動を規制(ねた)していけているのか、を説明するかもしれない。
もちろん、法律とは「クローズド(閉鎖系)」である。法律には、適用される「範囲」が規定され、それ以外には、まったく手が届かない。
たとえば、あるSNSが、そのサイト内で通用する独自の機能なりルールを作るとする。そうすると、なにが起きるか。言うまでもなく、SNS作成者(環境管理者)は、
そのルールに従わせよう
としていると言える。しかし、もう一つ、選択肢があるわけである。

  • よそに行こう

しかし、言うまでもなく、インターネットには、
範囲
がない。つまり、「その」SNSが嫌なら、その「外」に行けばいいのだ。そうすれば、そこには、別の「なにか」があることに気づく。というか、自分の満足をもたらせそうなものがないなら、自分で作ればいい(自分が満足していないという事実そのものが、
なにか
の登場を予感させている)。
じゃあ、どう考えるのか。一般にそうした場合に生まれるのが、
プロトコロル
であろう。つまり、世界中の「関係者」が集まって、例えば、SNSなら、その間でのメッセージの「通信」の規約を作ってしまうわけだ。そうすれば、どのSNSで書いているかに関係なく、どこのSNSに所属している人とも、交流ができる、ということになるだろう。
いずれにしろ、こういった観点が、80年代の、浅田彰さんの言っていた「闘争=逃走」論であろう。
そもそも、なぜ多くの人たちは、個人情報の液状化(パブリック化、匿名の禁止の方向)と、セカイの「フラット」化を結びつけて、この方向が不可避と考えてきたのか。
私はそこに、彼ら自身の「テクノロジー」に対する「想像力」の限界があったのではないか、と思うわけである。
つまり、テクノロジーの発展が進むと、どうしても、各個人はIDと一対一に対応し、管理される方向に行かざるをえないんだから、この方向に「抵抗」することは無駄だ、というふうに。
しかし、テクノロジーの現場で働いている技術者の人たちにとって、そういった決めつけは、少しも自明ではないんじゃないか。
だから、そもそも、

  • なんで、管理社会をトレードオフ的に容認しかければいけないのか

という、最初からの「前提」を受け入れられないわけである。

実はこの問題なのですが、暗号応用研究者のあいだでは古くからの常識で、アンリンカビリティ(unlinkabiklity 統合されない可能性)を確保するための研究として進められてきたものです。例えば電子マネーがそうで、九〇年代から研究されています。「現金」というのは非常に匿名性が高いからこそ使えるわけですが、これを電子化すると、どのユーザーがどのマネーを使ったのかという「リンカビリティ(linkabiklity 結合可能性)」が生じます。そこでその問題を暗号で技術的に解決しようとしてきました。しかし最近の電子マネーはそうではありません。まったくアンリンカビリティの担保されない、つまりキヨスクに行っても改札を通っても、すべて同じIDが通知されるものが電子マネーと称され、実用化されてしまいました。
高木浩光「蔓延るダメアーキテクチャ」)
ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

おそらく、ほとんどの、文系の方たちは、現代の暗号技術の、群論を中心とした、数学的な裏付けの知識がないんじゃないか、と考える。だから、そもそも、暗号技術を
軽視(=軽蔑)
しているんじゃないのか、という印象すら受ける。
だから、むしろ逆に今、目指されるべきは、「暗号社会」なのではないか。
あらゆるテクノロジーには、当然、カウンターテクノロジーが考えられる。監視技術が進めば、当然、暗号技術が、その対抗運動として進む。
暗号によって、個人は、プライバシーを確保し、匿名を確保し、オープンネスを確保する。
それは、むしろ、こういったITテクノロジーが進めば進むほど、その暗号技術は、存在感を大きくし、個人を
国家的従属
から開放するツールとして重要になる。
たとえば、近年の YouTube などでアップされる「MAD」動画などにしても、まあ、ほとんど「匿名」だ。だれが作ったのかも分からなければ、その「どこ」が、その人の「個性」なのかも、なんとも「ぼんやり」している。
それは、近年のさまざまな、カルチャーに見られる傾向で、コンテンツ・クリエイターが、ほとんど、全面に出てこないんだけど、「なんとなく」それを作っている人の個性が、「うかがえる」というような、
芸術の匿名的傾向
が顕著に伺えるように思えるわけである。
そういったことというのは、つまり、嫌々強いられているということではなくて、むしろコンテンツ・クリエイター自身が、そういったあり方を心地いいと思っていることを示唆しているように思えるわけである。
同様のことは、以前、タイガーマスクと名乗る匿名の寄付(ランドセルを孤児院に無言で置いているといったような)が、一つの社会現象のように流行したが、だとするなら、むしろ、人々をIT技術によって、「さらに」匿名にすることこそが、人々の寄付などの
倫理的行為
をエンゲージするケースも考えられるのではないか、と思われるわけです。
つまり、私が考えているのは、さまざまな社会の貧しさに生きる人たちに、どうやって将来の不安を除けるのか(将来不安こそが、あらゆる不況の原因でもあるが)。それは、実践によって、彼らの気付かないところで、そっと彼らの側に、「匿名」の寄付を置いておくようなことなんじゃないか。むしろ、日本社会のようなところは、そういった形の方がうまくいくのではないか、ということなんですけどね。
(例えば、最近話題になった、studygift についても、もし、さまざまな「寄付」の形態を行うのならば、もっと進んで、さまざまな「金貸し」の形態も「同時」に追求されなければならないんじゃないか。むしろ、どのようにすれば、この日本における
倫理空間
をエンゲージできるのか、という形で問わないと、ただの、弱肉強食増強装置にしかならないんじゃないか、と。)
こうやって、国家の問題を考えていると、結局のところ、アナーキズムしかありえないんじゃないか、という感覚に、私は、なってくる。
それは、無秩序という意味ではなくて、その秩序は、その社会を構成する、各個人「全員」の能動的な動きによって、
自生的
に生まれるだけであって、つまり、システム(アーキテクチャ)は、別にその秩序の「存在」を担保するものでない、という意味において、ということであるが...。