宮永照包囲網

今期のアニメの中で、あえて「おもしろい」ということで一つを選ぶなら、咲-saki-阿知賀篇だろう。しかも、全国準決勝の先鋒戦は、多くの時間をさいて、細かく描こうとしているだけに、そのおもしろさが際立っている(興味深いのは、月刊誌の漫画の原作に、そろそろ、アニメが追い付こうとしていることだ。その微妙な時間差が、妙なスリリングを増幅している)。
私は麻雀については、あまり詳しくないが、現在までの展開から、これをどう考えるのか、ちょっとやってみたい。
麻雀というゲームの特徴は、基本的なアイデアは単純だが、細かな点数計算など、熟練を必要とする面が多いことは分かりやすい。あとは、高得点のケースとそうでない場合で、どのように「戦略」や「リスク」を考えるか、となるのだろう。
このように、非常に確率的要素が大きい面がありながら、各自の「実力」が大きく影響するところも、このゲームの魅力なのだろう。
しかし、これは逆の面も指摘できなくはない。つまり、各局面ごとで言うなら、どんなに強いと言われている人も、点数を奪われる場面はある。それが、トータルとしてどうなのか、ということだとしても、やっぱり、運のない場合はありうる。
そう考えると、あまり、「トーナメント」に向かない印象を受ける(つまり、そういう楽しみ方をするものではないのだろう、という意味で)。
では、このゲームに、どういった要素が加わったときに、「トーナメント」としての、おもしろさが加わるだろうか。
言うまでもない。「異能」だ。
なんか、よく分かんない、「超能力」があることで、勝って「しまう」ということが仮定できるなら、それは「トーナメント」向き、ということになる(つまり、勝つことが計算できるようになるから)。
しかし、ここで勘違いしてはならない点がある。
「超能力」というと、私たちの現実世界では、「トンデモ」扱いとなるが、ことこの「ゲーム」の中で考えたときは、そう単純ではない、とも考えられるわけである。つまり、「超能力」といっても、一つの「能力」にすぎない。ということは、これだって、ある

  • 過剰な「限定」

なのだ。つまり、「能力」であるなら、ある現実への制限を与えるのであって、つまり、たんに過剰だ、ということである。
例えば、学校の勉強は、そりゃ、ペーパーテストばかりトレーニングして、運動をやらなければ、体育の成績は悪くても、ペーパーテストは高得点ということもあるだろう。しかし、それは「バランス」のいいことなのかは、疑問だということになる。
なんらかの環境に「過剰」に適応することは、つまりは、別の環境に「過剰」に不適応である可能性がある。
「超能力」なるものも同じで、あらゆる特徴は、「全能」などということはなく(矛盾で)、必ずなんらかの、有利不利があるわけで、つまりは、その「超能力」ゆえに、あるケースでは、非常に不利になる、ということも考えられるということだろう(つまり、超能力とは成績優秀者の「過剰」な適応の、ある種の応用なのだ)。
どんな能力があろうと、麻雀のルールは確率的で、つまり、ある不確実を必ず内包する。
また、「超能力」とは、マンガ的個性と考えることもできる、宮永咲が、嶺上開花(リンシャンカイホウ)を得意とするのも、まあ、異常だろう。松実玄(まつみくろ)が、やたらドラばっかり集まるのも、異常だ。
そういった作品が、登場人物のキャラづけに使った特徴が、超能力だということだろう。準々決勝では、くろちゃんは、「むしろ」その特徴によって、園城寺怜(おんじょうじとき)の異能にフルボッコにされる。
準決勝の先鋒は、その松実玄と園城寺怜に加え、高校生最強チャンピオンの宮永照に、花田煌(はなだきらめ)の四人となる。
このケースの特徴は、準々決勝では、圧倒的な強さを見せた、園城寺怜(おんじょうじとき)も、宮永照には、歯が立たず、完全な宮永照の一人舞台となってしまっていることだろう。
こういった、一人最強ゲームの場合、どういった特徴があらわれるだろうか。
言うまでもない。他の三人が、「共闘」するのである。
ここで大事なのは、その共闘をする三人は、その一人最強がいなければ、共闘という戦略はありえなかった、ということである。一人の最強がいるから、彼らは、それを「強いられる」のであって、そうでなければ、たんに敵なわけだ。
宮永照がこのまま、一人勝ちを続けたとき、当然考えられるのが、だれかの点棒がなくなることだろう。その時点で試合は終わってしまう。
しかし、先鋒の役目は、「後に繋げる」ことである。彼らは、確かに、力不足だったかもしれない。しかし、その後のメンバーが、先鋒の力不足をカバーしてくれるかもしれない。
そこで、残りの三人には、この戦術が「合理的」になる。
たとえば、園城寺怜(おんじょうじとき)は、大阪の名門として、宮永照のいるチャンピオン校の白糸台に勝つための最終兵器として、レギュラーになった。その、一巡先を見る「異能」は、たんにこの全国大会での順位が問題なのではない。どんなに順位がつこうが、宮永照にまったく歯が立たなかったなら、意味がないわけだ。彼女に一矢報いて、勝利することを目指してきたのであるなら、なんらかのその足がかりがつかることこそが、大事となるだろう。
どのように、宮永照の連続ホーラを止めて、一矢報いるか。
ここで、マジックパーソンとなるのが、松実玄(まつみくろ)だろう。
彼女は、準々決勝から、まったく、いいところがない。それは、彼女の「異能」ゆえなのだが、逆に言えば、そのことによって、準決勝の残りの二人は、宮永照の
本気モード
に対して、かろうじて、戦えている。
能力には、二つの側面がある。
そうならば、「そろそろ」彼女の、もう一つの側面が、効いてくることもあるのだろうか(漫画の連載は、それを示唆しているが)。
それにしても、麻雀というゲームにおいては、その人の性格があらわれる。

煌はOPでも「すばらっ」の文字入り演出。
セットなんですね、こういう池田のようなメンタルが
 強いタイプは良いですね。
流石に黒子です。
苦しく重くなりそうな場面を救ってくれます。
screenshot

私も同感だ。弱いということは、なにもできないことを意味しない。麻雀は確率的な側面をもち、どうしても自分に運が向いていないときが発生する。そういった傾向が強いゲームなのであり、むしろ、そういった自分にとっての
逆境
において、強い精神的態度で冷静に状況を考えられることこそが、実際のゲームへの熟練以上に、その人への好感をもたらす。
弱さを自覚し、その弱さの範囲で自分のできることを模索することは、まさに大衆の原像。人間のそもそもの姿ではないか...。