東京の落書き

ちょっと、変なことを書きたい。
東京にここ何年か過している人には、あまりに毎日目にしてきたものに、
落書き
がある。
東京の壁という壁に、スプレーでカラフルに描かれた、なんともプリンとした、人のお尻のような形のフォントのものだが(最近は減ったのだろうか)。
もちろん、その他にもいろいろあるのだろうが、多くの人はあの光景に、なんともいえない、不快な気持ちをもったものだろう。
私も例外なく、そうだった。そもそも、人は、ああいった反社会的行為を見ると、不快であると同時に不安になるものである。ああいったことが、白昼堂々と、行われていることに、脅威を感じるのだろう。
しかし、私は最近、なんとなく、その印象が変わった。
つまり、それが「善い」かどうかとは別に、ああいったものがあることが、なんとなく納得してきてしまった、ということだろうか。
それは、そういった行為の正当性があるかどうか、という話ではなく、単純に、

  • そこに無地の「キャンバス」が「ある」

という事実に対する、素朴な納得ということである。
明らかに、そういった「落書き」がされている壁は、その壁の作成者が、「そこ」に何かを描こうとしようとした意識が感じられないのである。ということは、その壁を作った人たちは、「それでいい」と思ったということなのだ。
その壁は、なにも描かれていない状態(そのコンクリートの材料そのままの「むきだし」)が、「変」じゃないと、そう作った人たちが思ってる、ということである。
もちろん、「そういう見た目を考慮した素材」なら、納得しなくもない。しかし、明らかに、ただの、コンクリートの壁を前にして、
それでいい
と思う「感性」が、なんとなく、自分には受け入れられない感情が生まれてきている、ということになるだろうか。

  • その壁は、なぜそこにあるのか。
  • なぜ、そこにその壁はそびえているのか。
  • その壁を作った人たちは、「それ」について、なにか言いたいことはないのだろうか。

私の感じる「不信感」は、そこに壁があったときに、なにかを描かないでいるということへの、ある素朴な違和感だといえる。
そういった視点でみると、そういった落書きは、たとえば、その下に、なんらかの絵が描かれている上に描かれている、というのは、ほとんど、見かけない。ということは、そういった芸術に対する「リスペクト」が、そういった落書きをしている人にはある、ということであろう。
もちろん、そういった壁に勝手に描くことは、一つの「所有権の侵害」であるのだろう。しかし、もし、そういった落書きを描かれて、嫌だった人は、そもそも、
その落書きを消して、その上に「自分たちが本来描きたかったなにか」を表現すればいい
というふうには考えられないだろうか。
つまり、彼らがやりたければ、やればいいのであって、むしろ、それをやっていない、という「不作為」の作為という「言い訳」に、ちょっと、うんざりしている、ということになるだろう。
私は以前、日本全国痛車革命、ということを、このブログで書いた。それは、つまりは、アニメ絵が、日本全国の、あらゆる場所を席巻していく光景ではあったのだが、基本的な認識は、同様のものがあるのではないか(落書きとは、ストリートアートのことなのだから)。
どうして、私がそんなことを考えるようになったか。
ある、アニメ絵は、たんにその「キャラ」の特徴を、体現しているだけではない。たとえば、変なアヒル口をしているとか、そういった「絵」の特徴だけに、収束するものとは考えていない、ということである。
むしろ、そういったアニメ絵は、そのアニメの場面における、そのキャラの「行動」、「意志」、「願い」、「祈り」。そういった、一つの文脈を体現する「存在」であると考えられるわけである。
つまり、

  • なぜ、そのアニメ絵が、そこにあるのか?

は、一つの「イコン」として、重要な

  • メッセージ

となるわけである。言うまでもなく、アニメにおいて、その声は、声優が「演技」している。その演技は、たんなる「おまけ」ではない。それは、それそのものが、

  • 演技

なのである。つまり、その声優の表現によって、「なにか」を伝えようとしている、と受け取らなければならない。
ある、剥き出しの壁があったとき、そこに何も表現しないということは、

  • その人には、なにかを誰かに伝えたいことがない

ということを意味すると考えられるだろう。しかし、この現代社会において、なにかを人々に気付いてほしいと思わない、ということは、一体、どういうことなのだろうか?

  • 貧乏のまま、飢えて死ぬ人がいなくなるように。
  • 自殺がなくなる社会でありますように。
  • ホームレスの人が、屋根付きの部屋で寝られますように。
  • 人々の将来への不安が解消されるような、社会制度となりますように。
  • 人々が極端に将来への不安のために、なにも前向きになれないために、不況が終わらないということがなくなりますように。

つまり、そういった「価値」を、人々に訴えたいという感情がもしあるなら、その壁は、材料のままのコンクリートなんてことはないんじゃないのか。そこを通った人がだれもが、眺めることになる壁なら、当然、なにかを伝える「表現」をしたいと思うようになるのではないのか。
私は、別に、そういった軽犯罪を推奨しているわけではない。しかし、私はアイロニカルに、それを肯定する。つまり、そういった落書きが、私たちの倫理的感情を「鼓舞」するのなら、という意味でなら...。