環境はシステムか?

この前、荻上チキさんの『社会的な身体』にある、「ノート 「情報思想」の更新のために」、という章について、再度検討してみたが、私はそのとき、ある用語的な意味で、違和感を感じていた。

「情報思想」について議論する場では、次のような「物語」が一定の効力を持っている。情報技術の発達等により、この社会は「規律訓練型」の(権力を求める)社会から、「環境管理型」の(権力を求める)社会に変化した。

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)

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しかし、私が思ったことは、素朴な疑問で、つまり、環境とシステムって、くっつけちゃったらあかんのんちゃう? ってことなんですけど。
つまり、なにか「ロジカル・タイプ」の混同をされているんじゃないだろうか?

システムは環境についての観念を用いて区別を行なう。環境のさまざまな断片ごとにそれぞれ特別な境界が形成される。この境界によって、各々の断片とのそれぞれ特殊な関係が安定化される。システムの自立性は、また環境の変動に対して無関係でいられる能力は、この区別によって基礎づけられるのである。こうして、システム全体が特殊な環境に全面的に依存することはなくなる。例えば企業はさまざまな「市場」を区別する(調達市場と販売市場、個人市場と金融市場)。そしてある市場での影響力を、他の市場での自己の地位を強めるために利用するのだ。さらにその強化された地位を用いて今度は、最初の市場での影響力を安定化することができるのである。このようにして、システムは個々の状況へと自己を特殊化しうる。それによって、多くの環境変動とは無関係になるという離れ業をやってのけるのである。こうして確保された無関連性もまた、複雑性と変動性を吸収する方策のひとつなのだ。しかしここでもまた、基礎的戦略自体が成功を保証するものではないということがわかる。それは問題を定義し直すための図式にすぎないのだ。もちろん、定義し直すことによってより良い解決の可能性が視野に入ってくるのだが。

目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について

目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について

そもそも、システムとはなんなのか。というか、なぜシステム論は「システム」を定義するのか。

存在論的なシステム概念は決定的な欠点がある。すなわち、そのシステム概念は、システムを内的関係に限定し、その環境を無視しているのである。そこでいわれるシステムは、実体と同じように、自足的な単位なのである。かくして、システムを作用連関としてとらえることによりはじめてわかること、つまり変化する環境の中にあってシステムの存続とはつねに問題をはらんだ現象なのであり、システムがそのような環境の中で自らを不変に保とうとするならば、システム維持の作用をもつ内的な秩序が必要である、といったことにはほとんど言及されることがなかった。内的な秩序には特定の問題が課されているのであり、それゆえ、その秩序を恣意的な結合にゆだねることはできないのである。機能分析はこういった問題を自らのシステム概念のなかに表現しなければならない。機能分析は、システムを、環境に対する境界の相対的な恒常性によって定義する。
したがって、内と外の区別が適用できるものは、すべこれをシステムとよぶことができる。というのは、ある秩序がしだいに形をとりはじめ固まってくると、外との境界が引かれなければならないし、また反対に、その境界を維持するためには、それをめざす内的秩序が存在しなければならないからである。内と外の違いがああるということは、恣意的に拡大することのできない一つの秩序の範囲が確定されたということであり、その内的構造やその諸関係に固有な様式によって、その秩序と環境との間に境界が引かれている、ということを意味する。システムの構造は同時に、システムがさまざまな環境内の変化に対して相対的に恒常的にふるまうことを可能とする。

公式組織の機能とその派生的問題 上巻

公式組織の機能とその派生的問題 上巻

こうやってみると、少なくとも、ルーマンにとって大事なことは、システムをどうやって、

  • 自律的

に分析する「学問」を確立するのか、の方に主眼がある、ということがわからないだろうか。ルーマンが考えていることは、社会科学が成立しうる、その学問としての、「恒常性」は、どのように担保できるのか、にポイントがある。
結局のところ、学問とは「なんとでも言える」であったり、「なにを言っても正しくない例なんてありうる」ということでは、成立しない。ある、独立した、恒常的な「関係」を抽出できるのか、に主眼がある。
もちろん、ルーマンが言っているシステムは、どこまでも「人文」的なものであって、工学的な機械を主対象とするものと同一視はできない。それは、あくまで「比喩」であるのだが、まったく違うというわけでもない。
それに対して、ここで「環境」と言っているのは、むしろ、「外部性」と言った方がいいのではないか、と思われるものだ。それは、私たちが、この世界にシステムを見い出す前の、むきだしのカオス「全体」を指しているわけで、ルーマンの関心は、そういった「環境」の対して、システムという「人文」的なカテゴリーを、かなり普遍的に抽出し、考察できる、というアイデアだと言えるだろう。
ここは、とてもデカルト的とも言えるわけで、つまり、ルーマンの定義するシステムとは、「内」と「外」が、必ずなければならない。そうでなければ、それが
指示
できないから。つまり、それでは「環境」になってしまうから。内と外が定義されていることによって、「それ」が、システム関係によって、確定できるのか、できないのかが
始めて
議論できるわけである。
よって、ルーマンにとって、システムと環境の区別は、「本質的」だと言えるだろう(それは、システム社会学という学問の、そもそもの正当性に関わる部分だから、譲れない地平だという、くらいの意味で)。
では、最初の引用は、なにが混乱させたのだろうか。
一つは、フーコーの使う権力という言葉が、ルーマンと、いろいろな意味で違っているというのが大きいのかもしれない(つまり、上記の引用にもあるように、それは「存在論的システムとでも言うような、少しトンデモなアイデアということなのであろう)。
しかし、ここは結構、重要なポイントのように思えるわけです。ある学問を「トンデモ」にしないポイントは、どこなのか。ルーマンはそこに、システムの「境界」を重要視した。内と外があるもの、をシステムと定義したことによって、
そうでないもの
をシステム論の対象から除外した、ということを意味する。つまり、環境「そのもの」をシステムとして扱うような
トンデモ
(言わば、超越的用語)を自らに禁止したのだ(つまり、こういった態度によって、カント的な理性の越権行為を自制している、と)。
たとえば、google が、私たちが知らない間に、私たちのネット環境を私たちが快適になるように差配しているという事態があったとき、問題はそれを

  • あなたのためだから

といって、受けいれるかどうか、という場合を考えてみよう。google は、もちろん、「善意」で私たちに、そういったサービスを提供する。すると、その善意を受け入れる人は、そのサービスを消費し始める。すると、google は、そのサービスを提供することに
よって
手に入る「なにか」が、彼らの「価値」となる。私たちは、別に、そういった google の手に入る「利益」のために、行動していたつもりではないのに、いずれにしろ、そういった事態に至っている。
ここにおいて、一体、何が私たちを「不快」にさせているのだろうか。

こうしたマイクロソフトを強く支持するインターン志望者は、米グーグルや米フェイスブックなど新たに台頭したライバル企業について、プライバシー問題への攻撃的とも言える姿勢や、広告に大きく依存したビジネスモデルから「気味が悪い」と敬遠する。
screenshot

つまり、マイクロソフトは前時代の企業が共通してもっていた「ノブリス・オブリージュ」のような、企業倫理が残っている企業だと受け取られている、ということなのだろう。実際、現在においても「その古典的手法」によって、今でも、全世界のPC市場の多くの場所において、競争的地位を維持できている。
他方において、近年のインターネットは、あらゆる発言が「ステマ」という印象がぬぐえない。つまり、ソーシャル・メディアでの対話があったとしても、それは、どんなに関係のない人同士が話しているようにみえても、結局は、
宣伝
なんじゃないのか、という印象を受けてしまう(特に、ツイッターは、フォロワーという、なんだか分からない人たち同士の「対話」だけに、それが、どうしても「サクラ」にしか見えないわけだ)。
ある商品が「いい」という発言があったとして、それは本当に、そう発言した人本人が思っていることなのか? 「サクラ」として言わされているだけなんじゃないのか。
もっと言えば、ネット上での意見は、なにがそれを言わさせているのか。
たとえば、自分の昔からの「つきあい」のある人がいて、その人が原発利害者なら、どうして、その「マブダチ」を前にして、原発反対が言えるだろうか。
自分の商売上の「重要なキーパーソン」が、原発利権そのものだったとして、その人に逆らう発言をすることで、自分の商売がつぶされたら、と考えたら、どうして反対できるだろうか。
私はこのように考えれば考えるほど、
ソーシャルメディア
というものの、「ぬるさ」が気になってくる。
たとえば、最近の日本の政治は、非常に「陰謀論」的になっている印象を受ける。
野田総理原発再稼働発言は、典型的な東大話法であり、ようするに、動かすためのセキュリティの最低限のラインを定義していないのに、

  • 自分は総理大臣で、この国で一番偉いから、自分の命令で動かさせる

と言っただけのことだ。しかも、非常に巧妙に、

  • でも実際に事故が起たとしても、自分責任をとらなければならない、となるような「言質」をとられないように

「巧妙」に言葉をろうしている。
つまり、結局は、あらゆる責任は国民に泣き寝入りさせる、ということしか言っていないのだ。これをお涙頂戴の文章として受け取る、国民の「頭の悪さ」に、つけこんでいるのだ。
もし、これが「あらゆる」政治的な課題に通用されるなら、今後、われわれをまちかまえている未来は暗いだろう。
国政の場とは、あらゆる利益相反が、跳梁跋扈し、ロビイングをかけている、魑魅魍魎の館だ。
どんなイノベーションも一瞬先は闇だとしても、一つだけ間違いなく、儲かる方法は、国家「によって」恒常的に利益があがる「仕組み」にさせてしまえばいい。だから、あらゆるビジネスマンは、最後には国政に向かう。国家を操作できれば、もう、商売なんてやる必要はない。だって、やろうがやらなかろうが、自分に利益が入ってくるように、国政を「操作」すればいいのだから。
あとは「口先」の問題だ。頭の悪い国民を、どういう言葉で「騙す」か。これはサギのテクニックだ。馬鹿な国民は、そもそも、国政の難しい言葉を知らない。騙すのなんて簡単だ。なんか、霊験あらたかな感じのする、高尚そうな言葉を並べておけば、それだけで、庶民なんて平伏すってわけだろう。
管元総理が、消費税増税にふれたときは、これをタブーとすることなく、

  • 議論をしよう

という話だったはずだが、野田とかいう総理になったら、いつのまにか、消費税増税は、規定路線になっていて、彼ら一部の首脳部の、
密室
で、自民党と、大政翼賛会ができあがっていやがった。
つまり、以前から民主党内に
潜伏
していた、「自民党」員が、内側から完全に民主党をのっとって、この国を支配していた、ということになるだろう(まさに、トロイの木馬w)。
そもそも、管元総理は消費税を口にしただけで、民主党を選挙で大負けさせたわけだろう。そして、その後にあらわれた、野田とかいう、「誰も知らない」どっかのだれかは、その選挙という「国民の意志」を受けておきながら、

  • 自分はなんの選挙による信託を受けていない(国民はだれも、こいつを選んでいない、民主党の内輪の権力闘争で、勝手にいばっているだけ)

のに、偉そうに、自民党と結託して、消費税増税の法律をこっそり、通そうとしている。
この構造は、完全に、「原発再稼働」と同じだろう。
民意を握り潰して、「自分のやりたいことをやる」ことに快楽をもっている人が、国のリーダーになったとき、国民にできることはなにもない。ただただ、その任期の間、政治に「耐える」しかない(アメリカのブッシュ・ジュニアがそうであったように)。
しかし、逆に言えば、こういうときこそ、既得権益をもつロビイストが、跳梁跋扈できる。つまり、野田に何かを「約束」させさえすれば、上記の「東大話法」によって、野田が、国民を「恐喝」さえすれば、
あらゆる
政治的欲望は満たされるのだから。
こうして、国政は「恫喝」一色になる。
インターネットにしても、国政にしても、一見すると、こうした事態は、「不可避」の逃れられない運命のような気がしてくる。しかし、そもそも、インターネットは、
国の法律
の範囲で、自生的に民間主導で発展してきたものであるし、国政も国家のルールの範囲で営まれるなにかであることには変わりがない。
つまり、google がユーザーになんの断りもなく、さまざまなことをやればやるほど、人々は「気持ち悪い」と思うようになり、そういった連中の
口先による「安心」
の、うさんくささに気付いていくようになる。
つまり、大事なことは、「環境とシステムの区別」なのだ。その区別によって、私たちは、こういった「混乱」した状況においても、自らが行える「手段」を、
理性の越権行為
におちいることなく、限定的かつ十全に働かせることができる。
大事なことは、国政だろうと、google だろうと、それが「システム」と受け取られるから、始めてそこに、対抗しうる、私たちの持手が生まれるのだ。そもそも、環境とはシステムが「恒常性」を保つ「外部」にあるもののことであって、必然的に、システムの「恒常性」運動に「よって」変化していくのであって、そもそも、「それ」と名指しできないようが、
外部
だということを分かっていない。
これは、カントに対するヘーゲルフィヒテシェリングの、ロマン主義的超越哲学、または、戦前の京都学派の、「近代の超克」の議論と似てる。
ある、システムというカテゴリーがあったとき、それを成立させている環境と、そのシステムを

させることによって、システムと環境を「用語論」的に、同一視してしまうことによって、

  • 近代の「あらゆる」矛盾を(用語的に)超越してしまう

わけである。
こうすると、どんな「トンデモ」だろうと、その「結論」から、「推論」できてしまう。まあ、詐欺師がよく使う手口だ。
しかし、こういった「東大話法」的な用語の「混同」が進めば進むほど、まともな、議論はできなくなる。野田総理原発再稼働発言のような、

  • 事故が起きても責任はとれないし、とるなんて言ってない。
  • だれもが反対してても関係なく、自分が再稼働したいからする。

の、この二つしか言っていないのに、なにかそれ以上のことを約束しているかのように、「頭の悪い」国民に「印象操作」して、
恫喝的
に、運営を行う政治が続くようになる。
しかし、これだけ堂々と、国民の前で、「恫喝」政治をやってしまったのだから、もうこの「モラル・ハザード」を止めることはできないだろう。

  • あっ。ああいうの「あり」なんだ。

日本中の、利害当事者で、国政にロビイングをしたいと思っている人たちは、「こんな方法がまかり通る」ということを面前にしてしまったわけで、もうだれにも、この流れは止められない。

  • 一言、野田とかいう総理に、国民の前で、誓わせればいい(恫喝させればいい)

げに、総理大臣の権力の恐しさよ...。