「利害」当事者の時代

原発については、いろいろ考えてきたが、私は最終的には、なぜ東京に原発がないのかが、すべての本質だと思うようになってきた。
これは、日本国内における「植民地主義」なのだと考えると説明がつく。
よく考えてみれば、日本の明治以降の近代化とは、このような一国内植民地主義を、周辺国に拡大していく過程だったとも考えられる。
私が気持ち悪いのは、福島などの地方で作られた電気が東京に運ばれてきて、東京の人が
自由
謳歌していることの、倫理的な気持ち悪さだ。
つまり、これは村上春樹などが何度も描いてきた、東京ワンダーランドの姿であって、つまり、そういった東京周辺の「植民地」によって、東京という、夢の都市を、謳歌している、ということになる。
私は、今回の福島の原発事故がありながら、それでも、原発存続をやめようとしない、
東京人
に、東京に住む地方出身者として、倫理的「軽蔑」を禁じえない。
私は東京に産まれ、東京で育ち、東京に今も住んでいる、東京人が嫌いになった。
特に、彼らが、関西の原発再稼働を「しょうがない」と言い始めるに至って、完全に軽蔑に変わった。自分が東京に住んでいて、関西の当事者でもないのに、関西の原発再稼働「すべき」と言い始めたことには、残念な気持ちになった。
彼らはそうやって、今までも、原発を「容認」してきたのだろう。
つまり、彼らは、東京じゃない「なら」、原発OKなのだ。
私は、もし関東周辺の原発を再稼働すべきだと言うなら、関東周辺の全ての原発廃炉にして、東京の高級住宅街に、その原発を「移動」して、稼働したらどうか、と提案する(そして、その高級住宅街の「下」に、何百万年と、廃棄物を埋めるわけだ)。
そうすれば、少なくとも、その
倫理的
な負い目を感じなくてすむ。
福島などの関東の周辺の地方に、原発が設置されているということは、そういった地域は、
東京になれない
ということを、所与の前提とされている、ということを意味する。つまり、何十年たとうが、その地域を「発展させない」という意志なのだ。地方の人たちは、みんな、その土地を、なんとか豊かで生きやすい場所にしようと願って、毎日を生きているはずであるのに、

  • 絶対に東京並みにさせない

ということが、決定しているのだ。だからそこに、原発があるのだ。

  • 東京には置けない原発が。

これを、
植民地
と呼ばずして、なんと呼ぶだろうか。
東京のエゴイズムが、福島に、あのような惨状をもたらしておきながら、これからも、東京は「東京ワンダーランド」
嘘のワンダーランド
を続ける。なんとも、嘘つき、にふさわしい街だ...。