片山杜秀『未完のファシズム』

正直言って、人々がなぜ、保守的なのかについては、早い話が、日本社会において、自らの出自を明らかにして、保守的でなくいられる人は、そもそも、(左翼的な)運動をやっている人(マイノリティ憑依をしている人)くらいなんじゃないか、という意味で、基本的に、日本人は保守的でしか、ありえない、というくらいに考えている。
自分が保守的でないなどと、世間の人に認識されたら、さまざまな場面で

  • 生きづらい

だろう。
そう考えると、日本の戦後政治は、「なんと」つい最近の、民主党が誕生するまでは、ずっと、自民党を中心とした、保守政治だったわけで、あらためて、ここまで長い間、政権交代がなかった、民主主義国家とは、なんだったのだろうか、と思わなくない(そのことに、なんの疑問ももたずに、今日のこの瞬間まで生きてきた、上の世代が、どんなに「ケシカラン」を叫んでも、私には、なんの説得力も感じない)。
ここまで、何十年も、ずっと自民党が政権をとっていて、その間を、大人としてビジネスをやって生きていた人が、どうして、自民党に反するような思想を表明して、生きてこれただろうか。つまり、日本人はだれもが、パブリックな場面では、
自民党主義者
だったわけだ。
しかし、そうであったから「こそ」、言わなければならない、日本社会の特徴があるのではないだろうか。つまり、日本人は、つい最近まで、自民党が言っていることを、
疑う
ことが、すなわち、「極左=赤」ということだったのであって、つまり、自民党の言っていることを「疑わない」、タブーとする、ということを、人生の信条としている、ということになる。政府自民党がやっているなら、それは「自分の考え」なのであって、むしろ、自分の考えとは、自民党がやっていること、くらいに考えていた、ということになるだろう。
しかし、そうだとすると、一点、どうしても、大きな問題にぶつからざるをえなくなる。
それは、「なぜ、過去の日本は、こうだったのか」という、疑問をもたなくなることだ。自民党に「憑依」されている自分は、自民党は、そもそも保守政党で、過去の政治の「復古」を考えている人たちの集団ですから、そもそも、なぜ過去がそうなのか、ではなくて、なんでもいいから早く過去を今にしなきゃ、となる。
そう考えたとき、日本の七不思議の一つといえるのが、「なぜ日本は無謀にもアメリカと戦争をしたのか」となるでしょう。同様の意味として、あのカミカゼ的な、無謀な突撃を、なぜ繰り返したか、と。
どうでしょう。
これに、まともな「解答」をできる日本人というのは、一体、どれだけいるでしょうか。こんなに、だれが考えても、不思議に思わざるをえない疑問を、どうして、多くの人は、まともに答えられないだけでなく、今の今まで、それほどの疑問だと思わずに、過ごしてこれたのでしょうか。
それは、そもそも「先人」が「愚か」だったと疑うことが、「タブー」だから、そういった疑問をもつことを、無意識に自分を規制している、ということになります(まさに、認知的不整合です)。
ご先祖様が、そんな、頭が悪かったわけがない。ということは、どういうことか。それを疑うこと
自体
が、不遜なのだ。つまり、これは「おかしくない」のだ。この目の前にある事態こそ、「普通」なのであって、そう思えていない奴等こそ、極左の危険人物なのだ、と。
しかし、こういった形で、そもそも議論「自体」を潰していく過程の先には、
思考停止
しか待っていない。
自民党」憑依
した、ほとんどの日本人(マイノリティ憑依じゃないですよ)には、むしろ、その「思考停止」こそを、
内面化
していく。つまり、日本人は、戦後「も」、繰り返し、「意味不明」の精神主義を、
反復
していくことになる...。
上記を検討していく前に、まず確認しておかなければならないこととして、そもそも戦争なる「概念」が、
第一次世界大戦
以前と以降では、まったく「違った」概念で語られるべきものになった、ということを理解しなければならない(テクノロジーの発展が、私たちが日常使っている用語の「内容」を、まったく違った概念に「比喩」的に変貌させられるという事態は、往々にして起きる。現在でいえば、それは、ITであり、ソーシャルネットであろう)。
ヘーゲルがその歴史哲学で指摘したように、暴力は、拳銃の発明によって、「卑怯者」が一番強い、という、
それ以前
における「英雄」の概念を完全に反転させてしまった。
遠くで、敵が「歩いている」なら、「遠く」から「卑怯」にも、大砲で狙えばいい。そして、テクノロジーの発展によって、その距離は、どんどん遠くなる(それでも前へ進む技術として、塹壕が発明されるわけですが)。
ということは、どうでしょう。戦争に勝つとは、
たくさん、大砲を持っている
ということと、同義となるでしょう。つまり、どっちが沢山の大砲を持っているのかで、第一次世界大戦以降の戦争は、もう決着がついているわけです。
私たちは、今だに、戦争というと、「第一次世界大戦」以前の、「英雄」たちが群雄割拠する姿に、心踊らせます(そして、そういった姿に、善悪の彼岸のような、「人殺し」ロマンティズムのようなものを想起しがちです)。たとえば、日露戦争までは、そういった面が、あったのかもしれない、とは言えたとします。しかし、第一次世界大戦以降は、もう、そういう時代ではなくなりました。
しかし、よく考えると、それは、実は「大変」なことになってしまうのです。

一流国の補給が十分にある軍隊と正面からの物量戦をやるなんて想像するだけでも恐しい。日本の国力を一挙に飛躍的に高めれば問題は解決します。が、容易ではない。それでも軍人とすれば、仮に明日、世界列強と開戦しても大丈夫と思える計画を立てておかなくてはなりません。仮想敵国と戦争する見通しを持てないのでは軍隊の存在価値がありません。産業の中長期的発展に期待し、何十年後かにそうなってから改めて戦い方を立案するのでは済まないのです。
歴史の趨勢が物量戦であることは明々白々。しかし日本の生産力が仮想敵国の諸列強になかなか追いつきそうにない。このギャップから生じる軋みこそ、第一次世界大戦終結直後から日本陸軍を繰り返し悩ませてきたアポリアであり、現実主義をいつのまにか精神主義に反転させてしまう契機となったのです。

その頃はまだ、今のように、日本は先進国ではありませんでした。まだまだ、産業も小さく、日本自身が自国を第一流の工業国とは思っていませんでした。
ということは、どういうことでしょう。
そのことを、そのままの意味で考えるなら、日本は、戦争を「してはならない」ということになってしまいます。日本の「オプション」から、戦争がなくなる、などということを戦前の人たちが想像できたでしょうか?
しかし、それが「現実」だったわけです。
しかし、ここで考えてみましょう。
官僚について。
日本の縦割りの、官僚システムにおいて、軍隊が戦争を「できない」となったら、それは、なんの「官僚」だということにならないでしょうか。仕事ができない役所ということになり、なんとも困ったことになるでしょう。
軍隊なら、「できない」では済まされない。あらゆるケースを想定して、それに備えなければならない。
しかし、それが「無理」だというわけです。
じゃあ、どうするか?

「持たざる国」が「持てる国」相手に長期戦争をしても勝ち目はない。ロシア革命のように国体を護持できぬ危険も高まる。第一次世界大戦後の日本の仮想敵はアメリカ、イギリス、ソ連等の「持てる国」ばかりであって、彼らと正面きっての本格戦争を遂行する力は日本にないと断ずるよりほかはない。避戦に徹するべきである。けれどソ連とは満洲の利権を巡って衝突する可能性を否定できない。最も起こりうる戦争である。そのための万全の準備は必要だ。といっても日本のような「持たざる国」がソ連の国土に侵攻するなどという事態は破滅的だから不可である。防衛戦争のみにする。日本の縄張りに突入してきたソ連軍とだけ戦う。その場合、日本陸軍にとって参考になる最近の例はやはり第一次世界大戦の東部戦線だ。東部戦線でのドイツ軍以上の作戦指導と兵の戦意維持を可能とするように軍隊教育で徹底する。将校はタンネンベルクの包囲殲滅戦を学習し、兵隊には必勝の信念が植えつけなければならない。ソ連軍は日露戦争第一次世界大戦でのロシア軍並みと想定する。小畑が東部戦線において肌で知ったロシア人気質の横溢した統率の粗雑な軍隊である。ソ連軍はきっと日本軍よりも遥かに大人数だろう。それでも予想通り粗雑な軍隊であれば包囲殲滅も可能なはずである。
こうした条件が全部揃った限定的短期戦争だけがポスト第一次世界大戦時代に日本陸軍が行える戦争だというのが、小畑のたどり着いたところだったのです。小畑を実質的な産みの親とする新しい『統帥網領』や『戦闘網要』も局限された敵軍はタネンベルクで負けたロシア軍の後身のソ連軍、タネンベルクに代わる場所は満洲の平原でなければならない。劣悪な敵相手なら誰でもよいという話でもありませんでした。小畑には、そして荒木貞夫にも、次の戦争は必ずこの形だという絶対のヴィジョンが有されていて、『統帥網領』や『戦闘網要』はそのために当て書きされたと考えるとしっくり来るのです。

軍隊が戦争を「できない」なんて言ったら、役立たずと、罵られて、首を切られ、役人を辞めさせられて、終わりでしょう。そこで、彼らエリートは、

を作ります。
欧米列強とは、絶対戦争をしてはならない、と「内輪」では、意識合わせをしておきます。ただ、ソ連とは、権益がありますから、満洲の周辺での、こぜりあいは、いたしかたありません。しかし、深追いはしてはなりません。いくら、第一次世界大戦以降は、物量の時代とは言っても、相手が「どんくさい」感じなら、速攻で、側面から、奇襲をかけて、短期間でなら、十分なダメージを与えることは、不可能ではないでしょう。彼らも、そこまでは深追いをしたくないでしょう。
しかし、表向き(顕教)においては、「戦争できない」なんて死んでも口にできません。そういった「本音」は、将校たちの間だけで、暗黙の合意にしておく、というわけです。
しかし、こういった方針には、一つの弱点があります。
みんなが忘れてしまう。
こういうケースが実際に起きて「しまう」ということです。こういうことが、かなり簡単に「構造的」に起きてしまう、ということです。

なぜ、両派はいがみあったのでしょうか。様々な理由があります。そこには第一次世界大戦の受け取り方の問題も絡むでしょう。荒木や小畑と永田や石原とでは、大戦観がかなり違いました。日本の将来の国力への展望にも差がありました。先走って述べてしまえば、日本も参加するであろう次の世界大戦のときのこの国の力を、荒木や小畑は小さく、永田や石原は大きく見積もったのです。荒木や小畑は、日本はここ糖分のあいだ「持たざる国」のままだろうと予想しました。永田や石原は、やりようによっては次の大戦争に間に合うように「持たざる国」を「持てる国」に化けさせられると夢想しました。

ところが、この『統帥網領』や『戦闘網要』は、「皇道派」が一九三六年の二・二六事件で「統制派」に敗れて失脚したあとも、そのまま生き残った。改めて修正されもしなかった。そもそも如何なる特殊条件を前提に策定されたのかをきちんと分かる者が責任ある部署から消えてしまった。密教としての文章化されていない教義は忘れ去られ、顕教としての書いてある通りが素直に信じられて、暴走していった。

皇道派」が、「統制派」によってパージされていく、官僚内での、内部抗争は、現代の、経産省内での、原発推進派や、発送電分離派や、再生可能エネルギー買い取り派の、勢力争いに通じるもの感じなくはないですよね。
官僚が、内部で、彼らの権益を代表して、さまざまな内部組織が分かれて、抗争を始め、もし、そういった過程で、ある組織内の「意志」が、
引き継がれなくなった
ときに、その組織は奇妙な「キメラ」の様相を示していくことになる。
驚くべきことに、このようにして、
みんなが忘れた
なんていう「トンデモ」が成立してしまう。しかし、たとえみんなが忘れても、その法律「だけ」はあります。だれもが、なんでこれに従わなければならないのか、さっぱり分からないけど、なんだかわかんないけど、規則のルール帳に書いてあるんだから、みんなが、従う、ということになります。
そして、アメリカ侵略と、カミカゼ精神主義という、

  • 最悪 × 最悪

が実現する、というわけです。
これが「法治主義」というものです。
さて、ここで別の視点から、日本の歴史を考えてみましょう。どうして、日本は「先進国」になれたのでしょうか。
この問いは、ひとまず、明治から敗戦までと、敗戦から現在まで、を分けて考える必要があるでしょう。なぜなら、現在において現れている事態は、日本が今まで、「後進国」だと思っていた国々に、日本の仕事が奪われていく、日本が先進国という「持てる国」だったのが、日本並み発展する後進国が次々と現れ、賃金格差によって、仕事が奪われ続けるという、日本が、

  • 持たざる国

へと再度戻っていこうとしている事態だと考えることができるからです。つまり、近年の韓国や中国やインドの発展とは別に、日本が先進国になってきた、その過程を考える必要があると思うからです。
そもそも、明治の早い段階の日本には、なにも、テクノロジーがありませんでした。企業も、そういったハイテク製品を作っていませんでしたし(そもそも、そんなものがあることさえ知ってなかったわけで)、市場も国内向けで小さかった。それが、なにがきっかけで、まるで「一等国」のような扱いをされるまでになったのでしょうか。

そもそもその頃の日本経済といっても、世界からみればまだまだ規模はごく小さなものでした。大戦前年の一九一三年の日本の工業生産高は、アメリカの三六分の一、ドイツの一六分の一、イギリスの一四分の一、フランスやロシアの六分の一、ベルギーやカナダの半分で、植民地インドとどっこいどっこいだったといいます。しかも日本工業の主力は紡績であり、重化学工業は依然としてきわめて貧弱でした。その手のものは輸入に頼る。それが日本のやり方でした。日露戦争に勝ったといっても、それは極端な言い方をすば借金して輸入した飛び道具を使ってかろうじて勝てたのでした。ロシアと争える工業力はこの国にはなかったし、戦勝後約一〇年を経ても、工業力は、革命寸前のロシアに比して、依然数分の一の域にとどまっていた。足踏み状態が続いていた。というか、日露戦争期の設備投資が戦後過剰になり、外債の利払いに追われ、にもかかわらず貿易は輸入超過で、正貨の蓄えもなくなりかけ、経済破綻寸前というありさまだったのです。
そこに起きたのがヨーロッパの大戦争でした。ヨーロッパから銃器、弾丸弾薬、輸送船舶、軍服、軍靴、銅、澱粉、豆類などの注文が続々と舞い込みます。大戦特需です。日本の産業界は日清と日露の両戦争をまがりなりにも経験していますから、その種の注文には応じられました。得意な範疇でした。それで急に活気づいたのです。

明治以降の日本の経済は、基本的に戦争待機型だったと言えるのでしょう。それだけに、ヨーロッパの世界戦争による、物質的需要に、日本の軍需体制は、「即応」できた(戦争は、「急に」注文が舞い込むわけで、その急な要請に答えられる「体制」が、それなりに単発的に小さな戦争を繰り返していた日本の中にはあった、ということなのだろう)。
そうやって考えてみると、かつての、日本の経済発展のキーとなるポイントでは、必ず、そういった戦争特需があったように思われます。たとえば、戦後の焼け野原から、急に、経済発展を遂げた期間ということでは、朝鮮戦争がありました。
ところが、近年において、とんと、世界中から戦争がなくなりました。つまり、昔から日本が得意だった、

  • 戦争待機型経済体制

は、まったく、無用になりました。世界の経済は、完全に「持つ国」(土地と人口でいえば、中国やインドやロシアなど)と、「持たない国」(日本など)という、地力だけが、左右する法則へと移ろうとしている、ということなのでしょう。
しかし、ここで疑問がわきます。
本当でしょうか?
もちろん、戦争が起きなくなってきたことを疑っているわけではありません。そういう意味で、戦後の日本の戦争を放棄した、日本国憲法は慧眼だったと思います。
そうではないのです。

  • 戦争を「当事者」なのに「当事者」として受け取らない

そういった精神態度は、たとえ、戦争がなくなっても、まったく、変わることなく続いているのではないでしょうか?

一九一四年六月二八日、ボスニアサラエヴォオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたことを直接のきっかけとして、一か月後の七月二八日、オーストリアセルビアに宣戦を布告。それからすぐにロシア、ドイツ、フランス、イギリス発を巻き込んで、戦火は全ヨーロッパを覆い、泥沼の長期戦になってゆきました。終わったのは、未明の短編が世に出た年の晩秋。足かけ五年も続きました。その世界史的戦争が実は作り話ではないか、ほんとうはやっていないのではないかと、未明の分身である「私」は言うのです。
なぜでしょうか。東京では町を歩いていても、だれもが楽しげだからです。
「こんなに余裕があって」、「落着いてのんきに笑つたり」、「芝居を見物するものもあれば、贅沢な真似などをして平気わゐる」者もある。「みなが笑つた眼付をしてゐる」。「一日に五万人も、十万人も死んだり、殺されるといふ新聞の報道が事実であるなら、誰でもかうしてぢつとしてはゐられない筈」ではないだろうか。ところが日本の生活はあまりに平和で享楽的。人類史上始まって以来の、桁違いの死傷者を出している戦争を、実感をもって受け取っている様子が、少なくとも東京の生活を観察するかぎり、ちっとも認められない。
こんなことがありうるだろうか。世界の現実を絵空事のようにしか感じられないとしたら、人類愛とか社会主義とか人道主義とか平和主義とかいうものはいったい何だったのだろう? もしかして、現実として伝えられていることは、実は本当に絵空事なのではないかしら。でなければ、この東京の様子は説明がつかない。「私」はそういう幻想にどんどんとらわれて、神経症的世界に落ち込んでしまうのです。

福島第一の原発は、東京に向けて電気を供給するために、動いていたために、あのような悲惨な事故となり、福島県の方々は、今も苦しんでいます。
東京の人たちが、原発の電気を拒否していれば、福島第一の原発が動くこともなく、作られることもなく、今の福島県の人々の苦しみはなかったかもしれないのです。
ところが、東京人は、3・11直後の一ヶ月くらいまでは、「当事者」として、事故の悲惨さについて、共に考えようとしていましたが、それ以降は、東京が
日常
に戻るにつれて、原発事故を過少評価し、まるでそんな事故などなかったかのように、大量電気消費を「原発」によって、再度行おうとしています(まさに、東京人の「認知的不整合です)。
総理大臣は、大飯原発の後、「次々」と、再稼働させると言っています。
自分で、今の原発の安全措置は「暫定」だと認めておきながら、です。
わたしは、どんな理由であれ、原発を再稼働す「べき」だと言う東京人を軽蔑します。原発安全神話が終焉し、原発が危険なものであることは、だれもがコンセンサスをえているのに、再稼働す「べき」とは、どういうことでしょうか?
なによりもまず、原発が設置されている県、地域。そこに住んでいる方々に、そういった安全「でない」、危険な施設を稼働することを、
お願い
することが、まず、最初にやるべきことじゃないんですか?
なんですか。「べき」って。偉そうに。
「べき」じゃないでしょ。
「お願いします」でしょ。
「東京人が、毎日、思う存分電気を使いたいので、おたくの県にある危険な原発を動かして、東京に、電気を送ってください」なんでしょ?
原発を再稼働す「べき」などありえない。原発のある地方の方々が、私たちのために、原発を動かしてあげよう、と親切にも
思って
くれて、私たちは、その「親切」に、感謝して、始めて、ありがたく、このエネルギーを噛み締め「られる」んでしょ?
つまりは、再稼働したその日から、毎日、朝晩、電気に向かって「原発稼働県のみなさま、今日も、電気をありがとうございます」と、手を合わせて、お祈りをする、くらいのことをしても不思議じゃない、ことなんでしょ(まあ、そういう人たちは、毎日、食事の前後で「いただきます」「ごちそうさま」と、手を合わせて、お百姓さんに感謝なんてやってないんでしょうけどね orz)。

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

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