背伸びをするな

そもそも、明治から始まった、近代日本国家の「特徴」とは、なんだったのだろうか。それは、「リーダー」のような存在を徹底して作らないような思想だったのではないか。もっと言えば、ドラッカーの言う「マネージャー」を「拒否」した組織だった、と。

そもそもこの国では総理大臣すら国をまとめる権能を有さなかった。天皇が大権を積極的に行使して名実共に親政を行うこと。それのみが唯一、明治憲法下における一元的強力政治の道だったのでしょうが、大正天皇にも昭和天皇にもその気はありませんでした。

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

一見すると、明治憲法は、あらゆる権力が天皇に集中しています。そう考えるなら、たしかに、天皇「なら」、まあ、ほとんどのことが「可能」にはなっています。
しかし、そのことを逆から考えてみましょう。
天皇にあらゆる権力が集中しているということは、天皇以外の「だれも」、権力が集中して「ない」ということを意味します。つまり、天皇が「やる気がない」と、
全体
を見通して、ヴィジョンをマネージする、そういった「ポジション」がない、ということになります。
つまり、どこにも「全体をマネージ」するポジションがない、ということです。
しかし、これは、ある意味、語義矛盾ではないでしょうか。戦争とは、ある「目的」を目指す集団行為でしょう。そうであるなら、その「全体」を見て、全体をコマンドし、コントロールしていく視点が必要なことは、必定でしょう。
ところが、そういった全体に対しての権限は、どこにもありません。
じゃあ、どうするか。
やれることは、一つだけです。
全員の「心」を「支配」するわけです。
それだったら、ある特定の機関を支配していれば、あまねく行うことが可能であり、その効果は
全体を支配していることと「同等程度」
と考えられるでしょう。

東条は独裁して勝手なことをしたというより、むしろ独裁したくても日本ではしようがないので困り果てた。そこで、せめて兼職でなんとかしようと思った。けれど、職域のしきりが高くてなかなか上手く行かない。おまけに東条独裁反対の声が上がる。それに対して、言論統制思想統制くらいは法的にもやりやすかったから、反対派を黙らせることはできた。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

ここから、日本ファシズムの特徴は、極端なまでに、国家宗教による
思想・信条の自由
の「否定」へと、つき進みます。正しくないことを「考える」ことが、日本の天皇=神信仰国家に反するのだから、「法律で罰する」わけです。
この手段の利点は、天皇のようにあらゆる独裁行為を行える権限が与えられていなくても、実質、すべての人を「支配」できる権限に
なっている
ということではないでしょうか(つまり、心の支配を通しての「全体」支配)。
よって、日本国内の言説は、どこまでも「心」の話になっていきます。なにを考えたのか。それは「本心」なのか。本当の「まごころ」なのか。そういったことばかりが、あらゆる政治的場面で「問題」となっていくわけです...。
明治憲法アポリアは、天皇にあまりに、さまざまな権限を集中したために、天皇以外のだれも「全体」をマネージ「できなくなっている」というところにポイントがあります。
ということは、「あらゆる」分野で、さまざまに、その部署なりに「好き勝手」をやっている、とも言えるわけです。
しかし、どう考えても、それでうまくいくはずがないでしょう。当然に、それを「ケシカラン」と言うオヤジたちが、そこらじゅうから湧いてきます。

しかし、座談会に臨む和辻の基調はやはり怒りです。何に怒っているのか。戦時下の日本の実情にです。対英米戦という世界史的大戦争がは始まって、国内では「挙国一致」の類いのスローガンだけは盛んに叫ばれている。けれども、実のところは政治も社会も経済も文化も細かく割れているばかりだ。国家社会のあらゆる局面で縄張り争いが甚だしくなっているのではないか。団結し、強いリーダーシップにしたがい、一丸となり、総力を挙げて事に当たろうという姿勢がちっとも見えてこない。明確な展望もない。そのへんに我慢ならないようなのです。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

しかし、ダメだダメだと、ダメ出ししてみたところで、なにも変わりません。じゃあ、どうするか。なんか「適当」な理屈をみつくろって、
ダメじゃなくする
となるわけです。ところが、そもそもこれがダメなのは、明治憲法のような、そもそもの最初のフレームから疑われているわけで、つまり、そもそもの根本、
タブー
なわけで、そんな簡単になんとかなるわけないんですね。しかし、じゃあ、あきらめるのか、といって、あきらめられるほど、この問題が軽い被害のものじゃないわけで、じゃあどうするかというと、やっぱり
変な理屈をみつくろう
形で、なにか「全てが丸く収まる」かのように、
口先
で、「なんとかなった」印象だけ残す、という「対症療法」で逃げるわけです。

人間は個々に特殊な存在である。居る場所も誕生日時も知り合う相手も社会内のポジションも違う。個人は独自の存在だ。ゆえに「異中心」だ。重なり合うことは絶対にない。しかし、人間が考え思う事柄の内容の質を掘り下げて、個々人を特殊に見せる肉の部分を取り除き、骨格だけ眺めてみれば、結局は同じかたちをしている。「異中心」だけれどもずらしてみると重なる。その同じかたちのことを吉田は「同円」と読んでいる。絶対に重ならなかったはずのものが重なってしまう。西田幾多郎の哲学が最後に辿り着いた「絶対矛盾的自己同一」の世界を思い出させもするでしょう。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

人間の本質は特殊よりも普遍にある。「異中心」よりも「同円」の方が尊い。価値の上下がしっかりついている。そのうえ人間の普遍的性格は性善説からとらえられている。倫理道徳に目覚めて人格を高めれば、心の奥底に素晴らしき普遍の高みがどんどん見えてくる。人間から夾雑物を取り除き劣悪な性質を捨て去ってゆけば、誰しもが金太郎飴のようなそっくりさんの立派な人格者として完成しうる。そう考える。「同円異中心主義」は「多即一主義」、「多」が「一」に収斂してゆく思想に極まってゆかねばならないと吉田は述べます。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

上記の指摘は、一見するとウィトゲンシュタインのファミリー・リセンブランスに似ていなくもありません。個々人は、それぞれ違っている。まったく、一緒になることはない。ただそれと、一点違うのは、この
違い
を、「変な理屈」で、一致できるようになる「地平」があるんだ、と強弁する、ということです。それは「同じ人間じゃないか」といったような。
(だから、それぞれの人間が違うから、そもそも、地球上には、さまざまな生物がいるし、そうやって生まれてきたんだろう、と言ってるんですけど、どうも分かってもらえないようです。)
つまり、個々人の違いが、どこまでも違いとして続くという事実が、どうしても耐えられない、なんとか、「みんな同じ」と考えたい(そうすれば、他人の気持ちを理解するなんて「簡単」になりますもんね)、

  • フラット化主義者

たちが、なんとか、人間にどこかに共通の「レベル」を想定できるんだ、と考え始める。
ところが、そういった「超越哲学」を、ひとたび、みつくろってしまうと、どんな「トンデモ」も、成立しちゃうわけですよね。つまり、あらゆることが、
なんとでも言えてしまう
わけです。

ところで吉田のこの講演は「我が国体と同円異中心主義」と題されていました。「同円異中心主義」は日本の国柄とどういう関係にあるのでしょうか。かなり簡単な仕掛けです。「一」と「多」にそれぞれ「天皇」と「国民」を代入するだけの話なのです。

ここから、悪名高い「戦陣訓」を書いたと言われている、中柴末純は、おそらく、戦中の日本で最も「過激」な、精神主義を主張します。

つまり「持たざる国」でも「持てる国」の相手を怖じけづかせられれば勝ち目も出てくる。中柴はそのためには、なんと、日本人がどんどん積極的に死んでみせればよいのだと考えました。日本国民という「多」にとって天皇が「一」ならば、天皇が自らの本質なのですから、天皇さえ生きていれば個々の日本人が幾ら死んでも自らの本質は生き残っていることになるので、自分が死ぬか生きるかはどうでもよくなる。天皇が「死ね」と言えば、それをおのれの意思として死ぬのです。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

死とは「無限の贈与」です。自分が死ぬということは、競争相手に対して、その人の競争相手を一人減らしてくれる、ということを意味するわけです。このことを、戦争相手で考えれば、戦争相手にとっては、勝手に「自殺」していく対戦相手の姿は、
不気味
ということになるのでしょう。
しかし、よく考えてください。これって、「本気」なんでしょうか。ヤケクソに聞こえませんか。自殺すれば、ユートピアって、なんか、予言が外れた宗教団体が、集団自殺するみたいじゃないですか。
つまり、こんなのマジで言ってないわけです。嘘なのです。本音(密教)は以下なわけです。

中柴にしてみれば「まこととまごころ」や玉砕戦法だけで勝てると高唱するしか、「持たざる国」の兵隊に「持てる国」と戦い続ける気力を喚起させることはできない。勝利の希望なくして戦争はやれない。でも玉砕を繰り返せば相手が怖じ気づいてくれるという保証もない。事実、中柴は『闘戦経の研究』と同じ一九四四年の著書『生産青年訓』(新正堂)では彼の本音というか密教を切々と吐露してしまっています。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

ここに我等は深刻なる一つの教訓を発見する。敵をしてその戦力を保たせるものが、物の力であり、それを補給する力である以上、この力に於て敵を圧倒することのみが、敵を撃砕する唯一の途なるを知らなければならぬ。

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

「唯一」って言っちゃったよ。
じゃあ、自殺しろとか、なんだったんでしょうね。
orz
どういう事情があるのかわかりませんけど、本音と建前を分けるって、いろいろ、困ったものですね...。
上記によって、だいたい、明治以降の日本のフレームは分かりました。
だとするなら、振り返り、日本の敗戦を、どう総括すべき、ということになるでしょうか。
この本の最後でとりあげられている、酒井鎬次という人の総括に基本的に同意である。
言うまでもない、石原莞爾である。

その日、石原は「我が国防方針」と題して講演しました。将来、日本とアメリカは必ず大戦争をする。いや、しなければならない。日本は東洋の、アメリカは西洋の代表だ。その戦争は世界最終戦争となる。結果次第で世界の運命が決まる。日本はどうしても勝たねばならない。ところが現段階では日本は「持たざる国」で、アメリカは「持てる国」。まずは可及的すみやかに彼我の懸隔を埋めなければならない。そのための日本の方途は「全支那を利用する」ことである。「全支那」を日本の産業基地となせば、日本は「持てる国」に化けられる。「全支那」の獲得に向けて邁進すべきだ。それが日本の「国防方針」だ。石原はそんな話をしたようです。
永田はどう聞いたのでしょうか。なぜ強大なアメリカとどうしても戦争をしなければならないのか。「全支那」への進出というとてつもないリスクを冒してまで日本が「持てる国」にならなければならないのか。石原の議論にはおよそ必然性がない。呆れ気味だったようです。
石原はなぜアメリカとの世界最終戦争などと言い出したのでしょうか。彼の信じる田中智学からの影響なのです。智学はたとえば日蓮の『観心本尊抄』をきわめて独創的に解釈し、一九〇四(明治三七)年に出版された『妙宗式目講義録』でこう述べています。

この本化の教を広布せんとする賢王と、本化を信ぜざらんとする多くの愚王との爭いとなるときは、ここに世界の大戦争が起る。正義正法には、仏と神明との天佑もあッて、敵をなす国は遂に争いに勝つことできず、あるひは天帝を祭り、或は権迹の仏菩薩を祈るに至ッてもつひにその験なきに至ッて、はじめて世界中の国々が、懺悔醒悟して、本化の大威神力を恐れ、三大秘法の大真理におもひ至り、世界各国の王臣一同ははじめて此法に帰依するに至る。

「本化(ほんげ)の教」とは、『法華経』で予言されているところの、将来この世をユートピアにすべく現れる仏の教えということでしょう。この仏の教えを世界に広めるのは日本の賢王であり、そのとき世界大戦争が起きる。智学は日蓮のテキストをかなり自由に読み解き、そう結論するのです。この智学の教えを石原莞爾はたとえば『世界最終戦争論』(立命館出版部、一九四〇年)で次のように言い直しています。

日蓮聖人は将来に対する大きな予言をして居ります。それはどう云うことであるかと申しますと、日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起る。其の時に本化上行(ほんげじょうぎょう)が再び世の中へ出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、ここに日本の国体を中心とする世界の統一が実現せられるのだ。斯う云ふ予言をして亡くられて居るのであります。

信仰の人、石原にとって「持たざる国」の日本が第一次世界大戦後の総力戦時代に本格的に大戦争に参加できるか否かなどそもそも問題ではない。「日本を中心として世界に未曾有の大戦争が」定めとして必ず起こるのだ。その相手は世界の現状を見るにアメリカを措いて他はあるまい。「持てる国」のアメリカと戦争して勝たなけれなならぬ定めなら、それに向けて準備するのみである。対米決戦のときまでに「持てる国」になっておくのも定めというわけです。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

持たない国が持てる国に、「勝つ」という場合、二つしかありえません。

  • 持たない国が「持つ国」に変わる。
  • 持たない国が「持たなくても」勝てる手段を見付ける。

しかし、結論からいえば、両方、無理筋です。前者は、そもそも、なぜ持つ国になって、持つ国と、戦争をしなければいけないのか、という点で、わざわざ持つ国に、つっかかりたいだけにしか思えませんし、後者は、そもそも、そういったことが「唯物論」的に、なかなか、難しいという「前提」から考えているのですから、そういった空想自体が、議論を最初に戻す、エンドレスな態度なわけです。

彼は、石原莞爾のヴィジョンに対しては極めて否定的でした。日本を「持てる国」にしてから戦争しようという石原構想そのものが戦争リスクを高めてしまう。たとえば日本が「持てる国」になろうと満洲を支配すればソ連と戦争になりやすくなる。「持たざる国」が「持てる国」になろうとすればするほど、「持たざる」うちに戦争に追い込まれやすくなる。しかも石原の構想を実現しようとすれば、軍が政治を長期的に掌握しなければならなくなる。大日本帝国憲法の精神に反する。極めてよろしくない。酒井はそう考えていました。したがって日本は日頃から無茶な背伸びを慎むべきである。どうしてもというときは速戦即決に徹する。酒井の結論でした。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

まあ、しごく、まっとうな考えですよね。「持たざる国」が「持てる国」になろうとしている、そのこと自体が、「持てる国」にとって、リスキーに見えるわけでしょう。
日本の政治システムは、上記で分析したように、マネージャーがいない。だから、「暴走」に弱いんですね。つまり、どうでもいいようなことならいいんですけど、戦争をするというような、
国の方向を致命的に間違える
ような、暴走が起きると、その行為が「あまりに大きすぎて」思考停止になってしまう。石原莞爾満洲事変で暴走しても、「取り締らない」。むしろ、
空気が変わった
と、「よくやった」と追随して、戦線拡大になだれこむ。2・26でも、最後は、天皇が独断で裁量したわけだが(結局は反省して、その後では、矛を収める)、それまでの雰囲気は、本気で、「なあなあ」で事件をもき消すような感じであった(もし、天皇が裁量せず、なあなあ、でやっていれば、軍内部の対立が先鋭化しなくてすむ、ってわけなんでしょうが、総理大臣を殺そうとしてるんですけどね orz)。
それにしても、石原はたんに主張したわけでなく、実際に、実行しちゃってるわけですよね。満洲事変という、
暴走。
いや。こういった、一人の、命令無視から、日本の敗戦が始まっているというのは、ここまで分かりやすい「歴史」っていうのも、めずらしいんじゃないでしょうか。

酒井が真っ先に批判するのは石原莞爾の起こした満洲事変です。それがもたらしたものは何であったか。「持たざる国」を「持てる国」に化けさせるバラ色の未来ではなく、単に仮想敵国のひとつ、ソ連との国境線を激増させ、「持てる国」との戦争リスクを高めただけであった。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

ついで酒井は、満洲事変が石原ら関東軍によって中央の意思を無視し独断専行で行われたことを重く見ます。世間にもありがちな視点ですけれども、酒井の視点は一味違うところがあります。彼は第一次世界大戦期のフランスの政治と軍事のありさまをつぶさに現地で見聞しました。政治と軍事、さらに経済と社会までが一体となって協力な意思統率が行われなければ、総力戦遂行は不可能であると肌身で知りました。ところが日本の国家機構は政治と軍事をバラバラにし、また経済活動でも私権を積極的に擁護している。基本的には自由主義である。総力戦体制作りを考えるときには甚だしく不向きと言わざるをえません。
そんな多元的でまとまりのない日本をもっとまとまらなくしたのが石原だと、酒井は舌鋒を鋭くします。石原の独断専行が結果オーライで認められたがゆえに軍というひとつの組織の統率すらも失われ、多元化が促進されついに歯止めが利かなくなった。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

これほど、日本の歴史の方向を決めてしまうような、重要な行動を、こうも「簡単」に行ってしまえるというのは、やはり、「信仰」なんでしょうね。だって、田中智学自体が、もう、日米最終決戦は不可避って言っちゃてるんでしょ。もし不可避ということが、

  • 分かっている

なら、自分たちが「持てる国」になるしかない、となるしかないじゃないですか。上記の酒井さんの批判のように、いろいろリスクがあるって言っても、「分かってる」んですもんね、日米決戦が。だったら、なにをするかなんて疑うだけ無駄なんでしょう。

しかし智学は消極性こそ究極の積極性であると価値づけを逆転させます。日本人は「真理と人情とに対する大同情性」を有していると智学は叫びます。世界諸民族の様々な人情やそこに垣間みえる真理らしきものに、情を同じくできてしまう。しかも受容可能な限られた対象にではない。ほとんど何にでもかんでもである。無限抱擁である。
智学は、この並々ならぬ同情の原理、言わば大同情の原理こそが本居宣長らの言う「もののあはれ」の正体だと喝破します。「もののあはれ」とはつまりは同情だ。「おもひやり」だ。相手をあわれみ、無心になって、相手の立場に全く同一化しきって、感情を同じくする。私は相手と何か違うところがあるなどとは決して思わない。素直に水の如く相手に染みる。相手の人物やその向こう側に開ける真理の領域に向かって、どこまでも浸透してひろがってゆく。私の独自性はゼロだからその意味でまことに消極的である。けれどこの消極性なくして世界の諸文明の統一は果たされない。世界史の完成のためには日本人の消極性が積極的役割を果たしうる。消極性なくして地上天国を創造することはできない。なかなか豪快な理屈です。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

(日本において、それぞれの宗教は、いろいろないきさつを辿って、結局は、天皇をその宗教内における、「聖人」のような、実は、この宗教の中でも、一番重要な神、という感じになっちゃってますよね。上記の田中智学にしても、天皇は仏教において位置が与えられた「賢王」ということになっていて、つまり、どういう仏教的「役割」を遂行する方なのか、という対象として見ているわけで、ドラッカーでいうマネージャーのような
私たちが命令を受ける
立場のような感覚で見てないんでしょうね。だから、石原莞爾のように「天皇の命令がないのに」暴走して、なんの疑いももたない。晴れやかな気持ちでいる。これが、宗教の人なんですかね。)
さっきから言っているが、そういった、

  • フラット革命

は、「トンデモ」じゃないのか。そんなに簡単なのか。そう簡単に人は分かりあえるのか。難しいから人間なんじゃないのか。日本人なら、世界中の人と「同じ心になる」だと? だから、そういった「どうせ自分なら分かる」という傲慢さが、さまざまなトラブルの原因なんじゃないのか(つまり、倫理とは結局は、不透過な他者の「自由」、のことだと)。
もちろん、相手を理解しようという努力は、なによりも大切なことだろう。しかし、だからといって、そういった行為が常に成功する、という
希望的観測
が、そう簡単じゃないという認識を曇らせているんじゃないのか。

日本国体を発揚して世界に日本の真価を知らしめ日本的価値観に世界を屈従させるにはやはり大宣伝だけでは済まないかもしれない。大戦争が必要なのかもしれない。戦争を経ないと田中智学の理想とする天皇中心の八紘一宇の大世界は実現しないということもありうる。智学は続けます。

昔戦争をする時分には「往亡日」といふ日があるといッて、世相に往くと亡びるといッてこれを忌んだものである。ところが或る時戦争に出かけるのに、どうしても今日出かけなければならぬということになッた。そこで日を卜はして見たら往亡日と出たので、是は出かけると必ず負けるといッて躊躇して居ッった。随分御幣担ぎの話だが......さうすると或る大臣が「ナーニ決して構わない、これはさう解釈するからいけない、我れ往いて彼れ亡ぶるの日なり」と言ッたので、そんなら行かうといッて行ッたら、到頭勝ッたといふ話がある。

恐ろしく乱暴な理屈です。無茶と思える戦争でもやってみれば案外と勝てるものだというしごく楽天的な戦争観です。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

よくは分からないけど、きっと、うまくいくだろう。なんか、そんな気がする。そうなってほしい。なるんじゃないかな。なったら、いいなー。
3・11前の、原発も、こんな感じだったんですかね orz。

背伸びをしなくては国の発展はない。列強の手がアジアに伸びてくる。それをはねつけるにしても対等に付き合うにしても、背伸びしないわけにはゆかない。第一次世界大戦後の世界が次なる総力戦の準備期に突入したとすれば、日本も準備しないでは居られない。そこでまたどうしても背伸びすることになる。
しかし背伸びには危険が伴う。背伸びをすれば、しゃがんでいるよりも転ぶ率は上がる。転んで打ち所が悪ければ死んでしまう。国が滅びることもある。背伸びをするには、よほどの警戒心が必要だ。石橋を叩いて渡らなければならない。石橋を叩くには石橋を叩く体制が要る。石橋を叩いて確かめ終わるまでは誰にも渡らせない。責任政治であり強力政治である。今の日本の身の丈が如何ほどで、今の日本に何が出来て何が出来ないかをはっきり認識する。したいことがあるとすれば、そのために必要な元手や時間をよく慮る。現実的な選択なのかと何度も何度も反省する。無茶しそうな人があれば、ちょっと待てよと袖を引く。そのくらいでないと背伸びはできない。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

まあ、それが個人に閉じる範囲のことなら、各自の人生ですから、いろいろあるんでしょうけど、セカイ系といいますか、人々が簡単に国単位のことについてまで、そういう「ノリ」で考えてしまう、ということですかね。
「そのくらいでないなら」背伸びをするな。まあ、そういう感じですかね...。