いじめという「傷」

私は、成熟だとか成長だとかいう言葉を聞くと、なんとなく虫酸が走るときがある。どうしても「アンビバレント」な感情が内側からわいてくる。もちろん、こういった言葉こそ、ヘーゲル哲学的なアイデアにとって、最も重要なキーワードであることを分かった上で、そう思わずにいられない。
本当に人は、成長するのだろうか。その場合、なにが成長するのか。なにが変わるのか。変わるとは、どういうことなのか。本当に変わっているのか。
むしろ、変わらないからこそ、「絶対に」変わらない部分があるからこそ、人々はこの現代社会において、「生きづらさ」からのがれられず、前に進めずにいるのではないのか。
ウィリアム・フォークナーの文学を読んでいて、私はあの「意識の流れ」の描写は、けっこうリアルだなあと、はっと気付かされることがある。つまり、

  • フラッシュバック

である。ある人が、普通に生活をしていると、ある瞬間、突然、過去のある自分が体験した「場面」が「まるで今、目の前で、それが展開されているかのように」、イメージが暴走する。すると、それまで感覚していた、回りの光景は見えなくなる。完全に、

  • あの時

に自分の「全て」がタイムスリップする。
いじめに対する「トラウマ」も、こういったものであろう。ここで大事なことは、この感覚は、

  • どんなに子供時代の「はるか過去」であったとしても

同様に起こることである。これが起きたとき、その人は、

  • 子供時代の自分

なのだ。自分が、いじめられる光景が目の前で展開され、これが実際に起きたのは、あまりにも膨大な時の流れを経た、はるか昔であるのに、

  • 今この時の自分の「体」

は、そのはるか昔の「その時」と「まったく同じ」に、
こわばり、固くなり、緊張する。
いじめっ子の「攻撃」に、そなえて、身を固くする。
この「感覚」のフラッシュバックは、決して、死ぬまで、なくなることはない...。

健康な体があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった
少年はまだ生きていて 命の値段を測っている
色々どうにか受けとめて 落書きの様な夢を見る

膨大な知識があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 守らなきゃいけないから
少女はまだ生きていて 本当の事だけ探している
笑う事よりも大切な 誰かの手を強く握って

BUMP OF CHICKEN「HAPPY」)

COSMONAUT

COSMONAUT

大人は本当に「大人」なのか? 嘘じゃないのか? だって「いつ」そうなった? だれがそれを証明してくれる?
私たちは、子供の頃から、「勝手」に体が大きくなっただけで、手が大きくなって、足が大きくなって、

  • それだけじゃないのか?
  • それ以外は何も変わっていないんじゃないのか?

心は、あの少年時代の

  • そのまま

なんじゃないのか...?
さて。
つい最近まで、日本社会の大問題として「ニート」が、さかんに議論されていた。しかし、そもそもなぜ、彼らは「ニート」をしているのか、その作法をやめようとしないのか、についての考察がどこまで行われているのかについては、疑問と言わざるをえない。
それは、結局のところは、社会問題だと言っても、やはり日本経済の規模と比較すれば、数は少なく、それほどの「プライオリティ」がないから、本気(マジ)で、社会が、そういう人たちを「気にしない」ということなのではないかと思っている。
ニート」とは、コミュニティへの

  • 信頼

をなくした人の態度のことだと言えるだろう。各自には、自らが関わることになるコミュニティに、ある

  • 期待レベル

をもって関わる。そのレベルに対応して、自分はコミュニティに向けて、自分の表現を発表していく。たとえば、「いじめ」は、その最低限の期待レベルを「超えている」行為であることを意味する。
もちろん、理論的に考えれば、この場合、「ニート」の側の「期待」が高すぎたんじゃないか、といじわるに言うことはできる。つまり、いじめられっ子の側が、「調子に乗りすぎてた」というやつだ。「調子に乗りすぎ」て、みんなから、反発される。だとしたら、「ニート」の側の「期待レベル」が下げられればいいんじゃないか、と。
しかし、そんなに簡単だったら、ニートニートではないだろう。
多くの場合、ニートは、むしろ、自分がこのようにあることを、「自分の責任」だと思っている。そうだからこそ、だれかを責めることをしない。そもそも、責めるという「行為」をやるべきだと思っている範囲においては、まだ閉じ込もらないわけだ。
つまり、ニート自身が自分がこうあることを「自分の弱さ」だと考えている、ということになる。
しかし、ここまで読んできて、違和感をもたれる方もいるだろう。つまり、これは一つの仮定にすぎない。まったく、「逆」に考えることの方が普通だし、「当然」でもある。つまり、その「ニート」への、鬼畜的行為によって、徹底した敵対関係を実践した「いじめっ子」(複数可)がいたから、と考える方が一般的であろう。つまり、その「ニート」は、自らの期待レベルが高すぎたのではなくて、ある一部の敵によって、その一線を超えることを「確信犯的(=愉快犯的)」に目指す「戦争」によって、

  • 精神的に敗北

したのだ、と。
しかし、こういう問題設定は、そもそもミスリーディングと考えるべきだ。つまり、問題は、あくまで「ニート=いじめられっ子」がどう受け取るのか「だけ」なのだから。この問題は、あくまで、「ニート=いじめられっ子」にとってどうなのか、が問われているのであって、それ以外のなにかを論点にすることは、反動的である。
では、この「ニート」の立場から考えたとき、どうなるだろう? この場合、その人は、上記の二つの仮定のどちらなのかを、判断できないのだ。自分に非があるのかないのか。それを自分「だけ」で決められない。つまり、これを確定させる客観的なクライテリアが存在しない、というところに、社会システムへの「信頼」の失墜の
本質
があると考えなければならない。
そもそも、「いじめ」は、客観的他者と「隔離」された場所で行われる。なぜなら、もしも、その「行為」が「通時的」に他者に判断されたとき、問題含みであるかもしれないことを、当人たちが自覚しているからだ。ここで重要なのは、そのハイコンテクスト性にある。いじめる側といじめられる側は、過去からのコミュニケーションの結果として、他人が外から観察していても、よく理解できないコードを、相互に交換し合う。
つまり、いじめ的関係の最も重要なポイントは、「過去」においては、そのコミュニケーションの「成功体験」があったことなのだ。だからこそ、いじめられっ子は、今の事態に悩むのだ。つまり、ここは大事なポイントで、
昔は「友達」だった
ということである。そこからのなんらかの、齟齬がお互いの

  • 戦争状態(一方の他方への一方的攻撃)

へと突入しただけで。
なぜ、いじめられる側は、「ショック」を受けるのか。それは、この事態を「自分のコミュニケーション能力の至らなさ」と捉えるから、であろう。つまり、どうしても、これを「自分の失敗」だと考えてしまう。自分がもし、あの時、もっと違ったように振る舞っていたなら、そのいじめっ子は、前の友達だった頃のように、今も

  • 優しく

接してくれるではないのか...。
つまり、いじめられっ子にとって、心の中で、そう簡単に、いじめっ子を「切れない」わけである。だって、もしそんなに簡単に「内的な理由もなく」いじめっ子を、切り捨てたら、どうなるか?

  • じゃあ、今の「別の自分の友達」は、どうなのか?

となるだろう。つまり、この、「連鎖」はどこまで続くのか、という問題にどうしても直面せざるをえなくなる。もし「この、いじめっ子」については、「敵」として、完全に、自らのファミリアリティの外に、はじきだしたとしよう。しかし、問題は、自らの「不手際」「責任」があったのか、なかったのか、であった。だとするなら、今自分を友達だと思ってくれている別の人たちに、自分はいつか「鬼畜」な態度を行い、相手を今回と同じように、

  • いじめっ子

に変えてしまうのかもしれないではないか。そうやって、自分が親しくしてほしい相手、今、実際に友達でいてくれてこれからも友達でいてほしい相手を常に、「いじめっ子」に変えてしまうかもしれない。それなら、むしろ、自分が悪いのでないか。自分は友達をもっては、自分が幸せになってほしいと思っている相手を、不幸にしてしまうだけなのではないのか。
この「構造」は、なんだろう。
まさに、丸山眞男が言う「忠誠と反逆」そのものなのではないだろうか。
いじめっ子は、最初から、いじめっ子ではない。最初は、友達だった。つまり、

  • 忠誠

を誓う関係が最初にはあった。ところが、ある時期を境に、その友達は、自分に

  • 反逆

してくる関係になる。友達は「いじめっ子(=敵)」に変わる。その友達は、自分という「正統」を裏切り、別の「(自分にとっての)異端」を「正統」として、そちらに寝返り、自分を否定してくる。攻撃してくる。

  • 容赦なく

(それが友敵理論の要諦だった)。
私はここで、少し観点か変えてみたい。「いじめ」とは、丸山眞男の意味での「忠誠と反逆」だとするなら、むしろ、ここには「いじめっ子」と「いじめられっ子」の間の、弁証法を考えなければならないのではないか。
つまり、この「対象」を「いじめられっ子」の「視点」から、だけで検討するのでは、不十分なのではないか。
いじめっ子と、いじめられっ子の「差」とは何か。「いじめ」行為のその時に、「いじめっ子」から「いじめられっ子」にふるわれた「物理的暴力」を除くなら、そこには、

がある、ということである。この傷は、「いじめっ子」も「いじめられっ子」も両方が持っている。ただし、「いじめられっ子」の側の傷は、

  • 痛い

のである。ずっと。死ぬまで。
だとするなら、ここで一つの問題が存在する。

  • 「いじめっ子」の「傷」が痛みだすことは、一生ないのか?

もっと言えば、

  • 「いじめられっ子」の「傷」の痛みがなくなることは、一生ないのか?

つまり、私は何が言いたいのか。つまり、これが弁証法だということである。
そもそも、「いじめっ子」はなぜ「いじめ」をしたのか? 言うまでもない。「自分がいじめられたくない」からである。常に、自分が「いじめる」側にいる限り、自分が「いじめられる」ことはない。だとするなら、常に、だれよりも、率先して、「自分がいじめる側である」という、

  • 踏み絵

を最初に踏む。しかし、そんなにうまくいくのか? 「いじめ」の法則は、その「ランダム」性にある。なぜ、その人が「いじめ」られることになるのか。その
理由はない。
たんに、「たまたま」今回は、その人がなる。それは、ちょっとした言葉の齟齬かもしれない。逆に、ちょっとした、返答を返さなかったことが、きっかけとなるかもしれない。「いじめ」関係の「場」にある、一つだけはっきりしていることは、どんな場合も

  • いじめる側
  • いじめられる側

という、この二つが「必ずある」こと「だけ」である。むしろ、「いじめ」とは、この「構造」のことを言っていると考えるべきだと言えるだろう。
では、反対はどうだろう。
むしろ、反対の方が深刻だと言えないこともない。
どういう意味か。
そもそも、「いじめっ子」は、昔は、「いじめられっ子」だった可能性があるからだ。つまり、もっとも悲惨な「いじめ」を受けた人ほど、もっとも「やっかい」な「いじめっ子」に「成長」する可能性がある、ということである。
「いじめられっ子」だった人は、自分の中に常に「被害者感情」を強烈に抱えている。だからこそ、他人が自分への「いじめ」攻撃を始めようとしているんじゃないか、という「雰囲気」を敏感に嗅ぎとり、その瞬間、相手への「口撃」を
反射的
に始める。「いじめられっ子」こそ、ある意味最も、「いじめ」を「学習」してきた潜在的いじめ予備軍として、危険視される(多くの場合は、「相手の痛み」が分かっているからこそ、「いじめ」る側にだけはなりたくない、と考える心の優しい人たんでしょうけど、あまりそこを思いつめると、そういう人が往々に「ニート」になっているとも言えるんで、難しいところですけどね)。どういう態度で振る舞えば、相手が嫌がるか。相手が
恐怖
するか。「いじめられっ子」は、自分の心の中にある、その心の傷の「痛み」と

  • 同等

の「返答」をせずにいられない。なぜなら、そうでなければ、

  • 釣り合わない

からだ。
私は、そもそも、社会的なステータスを獲得することに成功している高学歴成功者たちは、おおむね、「いじめ」の経験があるのではないか、と思っている。だからこそ、彼らは、
強い
のだ。精神的負担を乗り越えて、今のステータスを誰かから「奪った」「奪えた」のだ。「いじめ」の一つや二つ、眉一つ動かさず「行使」できなければ、真の「武士(もののふ)」とは言えない、とかなんとか(なんか、帝国陸軍の幹部みたいですね)。
というわけで、私がなぜこれを「弁証法」と言うかが分かったであろう。
ここに、「悪の弁証法」が始まる。「いじめ」は、「成長」する。「いじめっ子」は、さらに、「いじめ」を極め、「いじめられっ子」は、自らが二度といじめられる側になりたくない一心で、「いじめ」を「学習」する。
このスパイラルは、どこまでも、つき進む。
「いじめ」は、「正」「反」「合」を繰り返して、そのアウフヘーベンは、人々を、さらに「いじめ」的「完成」へと、つき進む。
そして、その最終地点。あらゆる、「いじめっ子」「いじめられっ子」の、「いじめ」運動は、

  • 「いじめ」絶対精神(いじめ・ガイスト)

によって、完成する。これこそ、「いじめ」人倫空間。人々の「いじめ」的作法が「完成」した場所である。
ここにおいて、むしろ、「いじめ」能力が高い「から」、大学入試に合格するし、就職試験に合格するし、優秀な国家エリートとして、歓待される。
社会の「尊敬」は、「いじめ」が一番うまい人が受けるようになる。最も、なにげない「一言」で、最も深刻なダメージを与え、学校に来れなくする、

  • いじめ「エリート」

「いじめ」を最も、「えげつなく、やれる」人が、最も優秀な人材と、あがめられる。これが、

だ。弁証法が、もし「負」の方向に運動を始めたら。社会を、悲惨な方向に向かうように、動き出したら。
(まあ。これが、戦後の、「平和」国家・日本の

  • 自画像

なんじゃないか、と言いたくもなりますけどね orz。)
さて。
私が最初に提起し問題は、なんだったか。

  • 人は成熟するのか?

私は、これを疑った。つまり、私は、「いじめの成熟」「いじめの大人化」「いじめの弁証法」を拒否したのだ。
どうして、こんな問題になったのか。
そうである。
もう一度、私たちは子供に「ならなければならない」。

多分平気なふりは人生で わりと重要なスキルだと思う
多岐に渉り効果示すので 使用頻度もそれなり
人の多くはその熟練者で 大概の焦燥は隠せるが
人の多くがその熟練者だ 大概はばれていたりもするが
BUMP OF CHICKEN「透明飛行船」)
COSMONAUT

なぜ、子供たちは、つらくなるのか。苦しくなるのか。それは、

  • つらいのに「つらい」と言わない
  • 苦しいのに「苦しい」と言わない

言えなかったのだ。「平気なふり」をしたのだ。だって、それが、波風を立てない、無難な「作法」だから。
しかし、そんなにうまくいくだろうか? 言うまでもない、うまくいくわけがない。無理筋は、たんに無理筋でしかない。

どうにかやってこられたけど 避け様のない石に躓いて
いつもみたいに起き上がれない そんな日が遂に来た
BUMP OF CHICKEN「透明飛行船」)
COSMONAUT

そういった「無理筋圧力」が、臨界点に達したとき、とうとう耐えることができなくなったとき、私たちは、もう「駄目だ」と思う。もう、なにをやっても無駄だ、と。とうとう、最後の日を迎えたんだ、と。
そういう場合、どうしたらいいのだろう...。
上記の文脈から、お分かりだろう。そもそも、なぜ「あなた」は今。ここにいるのか? 言うまでもない。あなたは「子供の頃」、「そんな日」を乗り越えてきたのだ。もう忘れているが、あなたには、子供の頃、それを乗り越える「スキル」をもっていたのだ。

あの時どうした ほら 思い出してよ 君は
ひとり こっそり 泣いたでしょう
帰り道 夕焼け 宮田公園で
なんか怖かったお社が
その日は心強かった
BUMP OF CHICKEN「透明飛行船」)
COSMONAUT

普段の宮田公園での「お社」は、子供にとって、恐い場所である。ということは、子供たちは近づけない。ということは、そこは、子供にとっての、「日常」

  • 人間関係

が、完全にデタッチメントされた場所であることを意味する。そして、そこで、その子供は、

  • 別の「自然」関係

を意識する。つまり、唯一絶対無二と思われた、「日常」の学校内という「人間の関係」とは、「別種」の「関係」によって、この子供の「関係」が「相対化」されていることを意味する。
つまり、「傷」は多くの別種の「傷」によって、相対化されることで、
関係の絶対化
を免れる...。