山森亮『ベーシック・インカム入門』

大阪維新の会が、政策の一つとして、BIの「検討」を、かかげたことで、この日本においても、BIへの注目が集まり始めている。
しかし、そこでのBI論の要旨は、ようするに、BIやれば福祉が削減できる、という、かなり「えげつない」話にしか聞こえない。
日本の国政を中心として、文筆家たちが、我(われ)を競って主張していることは、経済界がどうやってこの日本経済の衰退を逃れられるのか、の回答で、とはいっても、バブル以降の衰退局面において、成長がダメなら、あと、やれることは一つしかない。

  • 貧乏人からいかにお金をしぼりとるか。

実際、これが一番、「おいしい」のは明らかであろう。どうやって貧乏人をだまくらかして、彼らを今以上に彼らの貧乏を悪化させるか。だって、そうすれば、間違いなく、お金持ちの「パイ」は確保されるのだから。
国政も地方政治も、言っていることは、ずっと、これだけでしょう。なんとか、目先を変えて、国の財政の逼迫を印象付けて、増税を始めとした、福祉削減の「言い訳」を国民に認めさせよう、と。
となると、あとやれることは、どうやって「言葉」で、貧乏人たちを「騙す」か、だけなんですよね。口先がいかに「うまい」かどうか。どんなに自分たちが、貧乏になっても、彼らにそのことを気付かせない。いつまでも、
幸せ
であるかのように、思い込ませるような、口先で「やりこめる」テクニックが、日本の経済界から、政治の場から、で求められている、と。
どんなに自分たちの福祉が削減されても、アニメとか見せて、お笑いで「笑わせておく」ことで、リアルな世界で、彼らがいかに不利に搾取されているのかに気付かせない。これこそ、クールジャパンですよね。ある程度の、学歴のない、毎日仕事で忙しい人たちに、国政の場で、どれだけ、貧乏人の福祉が削減されているのかを、気付かせない間に、どんどん彼らの生活環境を破壊していく。
この延長に、消費税増税原発事故があることは、明らかでしょう(こういう状況で、デモ反対とか言っている人間って恐すぎないですかね。だいたいデモ反対って意味不明すぎるでしょう。だって、デモって国民の権利じゃないですか。やっていいに決まっている。そこまでして権力に気に入られたいんですかね。ちょっと、人間性を疑ってしまうんですけど orz)。
しかし、言うまでもないが、BIとは、そもそも、歴史的にそういうものではない。BIとは古くは、トマス・ペインに始まって、キング牧師から、さまざまな

な人たちが、夢みてきた、制度なのであって、BIで福祉削減を目指そう、みたいな、

  • 身の毛のよだつ

ような怪談話ではないのである(もし、そんな話だったら、掲題の著者そのものが、こんな何十年も研究してくるわけがない)。
BIとは、よく考えてみると、本当にシンプルな「定義」しかない。

  • パブリックな機関が、人々に、定期的に、生計を成立させるように、お金(に相当するもの)を与える

これくらいしかない。

給付に際しては福祉のケースワーカーによる恣意的な審査は拒絶し、無条件性が主張されたが、お金持ちにも配るかどうかは必ずしもはっきりしない場合もあった。また、多くの場合個人単位であることが主張されたが、そうではない議論もあった。

今の巷の議論は、BIだったら、なにがなんでもお金持ちにも与えなければいけない、みたいな雰囲気があるが、歴史的には、そんなことはない。そもそも、そんなところに論点はない。

というのも、例えば中国や日本の律令国家には、均田制あるいは班田制があり、臣民には納税・兵役などの義務の前提として彼らがまず食べられるための耕作地を分け与える制度があった。

つまり、日本書紀にある、班田収受の法だってBIと言えないことはない、というわけだ。
BIが社会主義と違うのは、BIがあるからといって、経済交換をまったく否定していないことだろう。
このように考えてきたとき、BIはどこか「インフラ」に似ている。「インフラ」というのは、よく考えてみると不思議である。というのは、なぜ、その「レベル」のインフラが提供されるのかは、その市民には関係ないからだ。
電気、ガス、水道、にしても、道路などの交通機関の整備にしても、なぜそうなっているのかに、大きな理由ない。しいて言えば、だれも文句を言わない、ということくらいだろうか。
こういったインフラが、どれだけのお金を注ぎ込んで、維持されているのかは、本来なら、決定的に重要なはずだ。つまり、無料でできるわけがないのだから、どこからか、お金を調達して実現しているのだから。
言うまでもなく、発展途上国の田舎では、上記のインフラは、相当に脆弱なはずだ。というのは、それを先進国並みにするには、それだけの、

  • お金

がいるからだ。だとするなら、その国の今のインフラのレベルは、その国の国民が「耐えられる」お金の支出と関係していることが分かる。
なぜ多くの産業が発展の後に、衰退を運命づけられているかは、そもそも、発展期とは、「インフラ」整備期だからであろう。しかし、「インフラ」は整備されてしまえば、それを「大事」に使っていけばいい。壊れたら、修理すればいい。つまり、必ず、「インフラ」維持期に推移する。すると、もう単体で買う必要はなくなる。
テレビ、冷蔵庫、掃除機、クーラー。
こういったものも、一種の「インフラ」である。
しかし、こういったインフラに、どれだけの支出を「耐えられる」かは、本来は、その人の「経済事情」に関係していたのではないか?
お金のない人は、例えば、使える電気の量に上限があるんだけど、その代わりに安い、みたいな、インフラのレベルは低いんだけど、「耐えられる」ものを必要としている、と考えられるだろう。
しかし、そもそも、インフラとは、そういった「嗜好品」のような、「段階」による分類が難しいから、インフラだとも言える(上記の例で言えば、そもそも、使えなくなっちゃうということ自体が、非常に「危険」だと考えられる、と)。
だとするなら、このことを、どう考えるべきなのだろうか?
つまり、ある程度のインフラの維持費を、

  • 貧困にあえいでいる人から徴収してはならない

ということなのではないか。なぜなら、そういった「インフラの嗜好品化」のコンセンサスが成立していないのだから。
しかし、実際に社会制度として、貧困にあえいでいる人も、「インフラ」維持費を徴収される。それはなぜか。なぜなら、その方が、

  • 社会の効率化

に寄与するからであろう。社会システムは、できるだけ単純であればあるほど、その維持は容易になる。提供される相手に応じて、システムをコントロールすることは、それだけ、コストがかかる、ということなわけだ。
だったら、どうするか。

  • 無条件に「とりあえず」お金のない人に、一定のお金を持ってもらう。

そうすれば、貧困にあえいでいるから、インフラにお金を支払えなかった人でも、「そこ」から払うことが可能になり、

  • 社会制度として単純になる

と言えるのではないだろうか。
しかし、この考えを、もう一歩前に進めて考えることもできる。例えば、専業主婦が家の掃除をしたり、子育てをしたり、老人介護をしたりするのだって、一つの「インフラ」であろう。なぜなら、こういった機能がもし存在しなければ、社会システムは維持されないのだから(そもそも、子育てを、だれかがやらなければ、再生産にならない)。
だとするなら、そういった機能に、

  • どこかしらから、「インフラ」維持費が払われなければならない

のは当然の論理的帰結ではないか。つまり、こういったものにも、同様の「費用」をBIとして「インフラ」化されることが期待されるだろう。
(つまり、ここは重要なポイントで、細分化された、各個人の「事情」に対応した「インフラ」の提供の方が「安上がり」なのか、そういった細かな対応をしない代わりに、こういったサービスがミスマッチの方々には、「逆に」その差分のパッチを当てるのか。)
そのように考えてきたとき、そもそも、BIというものが、なにか「形の決まった」システムである必要さえないことに気付かないだろうか。

年金が税財源化され、児童手当が普遍化・増額され、給付型税額控除が導入されれば、多くの人がいわば部分的なベーシック・インカムを手にすることになる。こうなれば今のところ多くの人には、「絵にかいた餅」のように見えるベーシック・インカムが、より現実的なものとして現れてくるだろう。

つまり、なにが言いたいか。
BIはBIだけではない、ということである。子ども手当も、一種の

  • 部分的BI

だった、ということである。私たちは、この日本の社会システムに多くの部分的BIを増やしていくことで、実質的なBI社会を目指すのである...。

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

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