榎本博明『病的に自分が好きな人』

近年のSNSの隆盛は、私たちに、実に、興味深い風景を見させているように思える。多くの心理学者たちは、この膨大な、

を前にして、大いに研究心をそそられているのではないだろうか。SNSの特徴は、とにかく、「つぶやく」ことと「思う」ことが、非常に、

  • 近い

ことであるように思われる。スマートフォンなどの、ユビキタス的ツールは、「思った」瞬間に、

  • 書き込む

ことを可能にし、また、そうすることが「快感」であるような、環境を整備している。
しかし、そういった形で、このツイッターが日本で開始されてから、ずいぶんと、年月が経過した。すると、そこには、ある程度の、

  • 傾向

のようなものが、でてきているように思われる。そして、その中でも、フェイスブックを中心として、「実名」で利用している方々の「香ばしい」臭いが、実に興味深い印象を与えている。
フェイスブックについては、今さら、言うまでもないであろうが、例えば、会社に所属している会社員であれば、そこでの「発言」は、「上司」が「覗いている」ことが前提とならなければならない。当然、ここでの「発言」が「査定」に効いてくる。
すると、どうなるだろうか。言うまでもない。ここで書くことの「目的」は、
「査定」を良くすること
に変わる。つまり、違う「ゲーム」が始まる。

  • 自分が良く見えるようにであるなら、嘘だろうとなんだろうと、書く。
  • 自分が悪く見えるなら、そんな本音は書かない。むしろ、その反対を書く。
  • ここは「上司」へのアピールの場なのだから、「いかに自分は有能か」の「自慢」だけを、常に書く。他人と比べて、いかに自分が、「才能がある」かを、学歴のアピールからなにから、あらゆるフレーズを使って、「天才」自慢を、吐き出していく。

こういった傾向は、ツイッターにおける「実名有名人」たちについても、同じような印象を受ける。
なぜ、実名つぶやきは「腐臭(by 宮台さん)」がただようかは、つまり、彼らが話しかけている先が「知り合い」だから、と考えられる。つまり、幼少の頃からの、「知り合い」に話しかけるように、表現せざるをえなくなっている、ということなのではないか(恐らく、最も、幼少の頃の友達との「話し方」に、統一されていっているのではないだろうか)。そして、なにを話すときも、

  • この「スタイル」

に統一されてしまう。それは、自らの「首尾一貫」性を重要視せざるをえないからで、結果として、ツイッターは「幼稚」な印象を受ける、口調が、非常に多くなる。
しかし、それを見た「他人」は、気持ち悪い。いっちょまえに、社会的なステータスのある人が、

  • だれと話すときも

こんな調子だから、頭がおかしいんじゃないのか、という印象を受けるわけだ。
例えば、子供の頃の友達と話すとき、大事なことは、「いつもと同じスタイルで話す」ということである。相手が「予想」しているように反応する(反復する)ことが、求められる。というのは、そうでないと「今日はどうしたんだ」「体調でも悪いのか」と心配されてしまうからだ。
こういった、子供の頃の友だちコミュニケーション・スタイルには、どういった傾向があると言えるだろうか。
私はそれは、大きく二つに分類できる、と考える。

  • 天才自慢
  • 愚痴

前者については、言うまでもないであろう。人が話すことのほとんどは、「自慢」である。というのは、誰よりも早く、問題を解決できたら、それを話すことは、自慢と区別がつかないもので、そもそも、あらゆる行為は自慢「のため」と言ってもいい。
むしろ、おもしろいのは、後者である。なぜ、人々は、友だちに向かって、愚痴を言うのだろう? 例えば、以下のような状況を考えてみよう。進学校に通うクラスの中で、自分が、ある科目が苦手であることを告白するわけである。「くっそ。この教科がうまくいかねー」。すると、それを聞いていた、その教科が得意な「友だち」は、「ばっかじゃねーの。こうすりゃあ、ヨユーだよ」と、突っ込む。この場合に、後者の友だちの反応は、「良心」であろうか? おそらく、そうではない。つまり、こういった会話が行われるのは、授業の合間などの、どうせなにもできない、

な時間なのだ。どうせ、短かい時間だから、リラックスして、こういう会話を「楽しむ」わけである。
しかし、私はここまで書いてきて、掲題の本にあるような、「自分が好きな人」を dis る気持ちに、あまりなれなかった。というのは、ようするに、
だれだって
少なからず、そういった傾向があるんじゃないか、と思ったからだ。

社会心理学者のテッサーは、人は自己評価を維持もしくは上昇させるような行動をとるとして、自己評価維持モデルを提起した。そこでは、対人関係の中で自己評価の上昇や低下を導く2つの心理的過程として、反映過程と比較過程が対比される。
身近な人物の優れた性質や業績の栄光に浴して自己評価が上昇するのが反映過程である。
「Jリーグで活躍している○○選手は、高校時代の同級生なんだ」
「最近ドラマによく出るようになった俳優の○○は、近所に住んでいた幼なじみなんです」
などと言うとき、活躍している有名人とのつながりがあるということで、自分まえが誇らしい思いに浸ることができる。
手の届かないような有名人にかぎらない。
「あのヒット商品を開発したヤツ、新人研修で一緒のグループだった同期なんですよ」
と誇らしい思いで言うとき、そこには反映過程が働いている。
それとは逆に、身近な人物の優れた性質や業績との比較により自己評価が低下したり、身近な人物の劣った性質や業績との比較により自己評価が上昇するのが比較過程である。
「あいつは活躍してるなあ」
と思うと同時に、
「それに比べて、自分は何してるんだろう」
と自己嫌悪を感じるとき、そこには比較過程が働いている。
「あいつはほんとにやる気がないな。オレの方がまだマシだな」
と優越感を感じるとき、そこにも比較過程が働いている。友だちの活躍により、こちらの自己評価まで上がって誇らしく思うか、逆にこちらの自己評価が下がって落ち込むか。つまり反映過程と比較過程のどちらが活性化されるかは、その活躍の内容が自分にとってどれだけ重要かによる。
自分と同じくテニスでプロをめざしている友だちの活躍は比較過程を活性化し、
「それに比べて自分はなんてダメなんだ」
と嫉妬混じりの気持ちで落ち込むことになりやすい。だが、自分が漫画家をめざしている場合は、テニスでプロをめざす友だちの活躍は反映過程を活性化し、
「あいつ頑張ってるな。それにしてもすごい活躍だな」
と素直に祝福できる。
こうした心理メカニズムを意識しているわけではないはずなのに、小・中学生を対象とした調査をみても、自分の重視する科目では自分の方が成績がよく、重視しない科目では友だちの方がよいといった図式が成り立つような相手を友だちにしているという結果が出ている。
同窓生の中でも、同じ会社の友だちや同業者の友だちより、違う会社や異業種の友だちの方が、つき合いやすく、長続きしやすいのも、比較過程が働きにくいからといえる。

こうやって見ると、私たちが、こういった傾向の行動をしがちであることは、不可避なように思われる。
では、SNSは、なにが問題なのだろうか。おそらく、ここで問われているのは、
編集機能
のようなものなのではないか。パブリックな雑誌や新聞は、基本的に、「エディター」による、編集作業を介して、衆目にさらされる。それは、多くの言論が、人々が吐き出す「そのまま」の「形態」では、商品と呼べないような性質をもっているからではないか。
例えば、コミケなどの二次創作表現物は、一つの傾向として、非常に「生々しい」情念が吐き出されているような、迫力がある。しかしそれは、他方において、荒削りであり、「くどい」印象を受ける。つまり、そのまま、パブリックな市場に出すには、洗練されていない、という印象を受ける。
こういった編集作業においては、さまざまな視点から、この商品の「品評」が行われる。

  • ポリティカル・コネクトネスから問題ないか?
  • 別の作品のパクリを疑われないか?
  • 今後の展開で矛盾に立ち至らないか?
  • 十分に採算を見込めるか?

こういった「検品」にかけられ、それを潜り抜けられたものだけが、市場に出てくる。
しかし、コミケ的な二次創作市場においては、そういった「他者」の視点による、レビューを抜きに剥き出しのまま、「欲望」がさらされるので、ちょっと、
見るに耐えない
感情の「吐露」が、そのまま、市場に流れてしまう。同じようなことは、ツイッターにも言える。ここには、なにも検閲がない。どんな
差別発言
も、そのまま、流通し、リツイートされていく。つまり、本来私たちが「商業作品」とは、かくあるべきだ、といったときに考えていたような、
品質
が保たれない、剥き出しの「感情」が、なんの文脈もなく、並べられる現象が起きていることになるだろう。
そういった意味では、キュレーションではないが、そういった「野蛮」な天才たちの嘔吐物を、「咀嚼」して、世間に「さらせる」ような、体裁に整えるネットの、まとめサイト的なものの需要はあるのかもしれない。
いずれにしろ、そうしたコミュニケーション・スタイルが一世を風靡していくとき、どんなところに、ポイントを置いたらいいのだろうか?

パレーシアにおいては、語る者は自分の心のうちのすべてを正確に語ることが期待されています。語り手がなにを考えているかを、聞き手が正確に理解できるようにするのです。ですからパレーシアという語がつかわれると、語り手と語られたことの間に、ある種の関係が生まれていることが示されるのです。パレーシアでは、語り手は、自分の語ることがみずからの意見であることを、明確かつ明瞭に示します。そのために語り手は、自分の考えていることを隠すようなレトリックは使わないようにします。パレーシアステースは、みつけられる限りでもっとも直接的な表現を利用するのです。
レトリック(弁論術)の場合には語り手は、聞き手に自分の主張を受け入れさせるために、いくつもの技術的な装置を使うことができます。そして弁論家が自分の語ることをほんとうに信じているかどうかは、問題になりません。しかしパレーシアの場合には、語り手は自分の信じていることを、できるだけ生の形で示すことで、他者に働きかけるのです。

真理とディスクール―パレーシア講義

真理とディスクール―パレーシア講義

ある人が何かを語っているとき、一つだけ、はっきりと言えることは、

  • 気持ち悪いレトリック

には、そういった表現を使っている人の「意図」がある、ということです。つまり、それは「弁論術」のカテゴリーに入ります。つまり、それを読んでいる人に、なんらかの、
感情操作
を意図して、そういった表現をしているわけです。例えば、「私は野田総理の政策には個人的に反対ですが、消費税増税は、必要なんじゃないか、うんぬんかんぬん」みたいな表現をしていたとします。この場合、後半の消費税に賛成か反対かが、本来は、言いたいことであるわけで、前半の、野田総理がどうのこうのは、関係ない。それを、わざわざ、一緒にして言及しているということは、自分が野田総理に「おべっか」を使いたくて、消費税増税に賛成と言っているんじゃない、といった、
言い訳
を一つの表現として、言おうとしている、ということが分かるでしょう。
他方において、「パレーシア」においては、そういった、姑息な「レトリック」を否定します。単純に、思っていることを、直截に吐き出します。すると、当然のこととして、表現は単純になります。
私は、むしろ、SNSの時代だからこそ、このフーコーが晩年にこだわった「パレーシア」が重要なように思われます。上記において、社員が会社に
諫言
するとき、どうやったら伝わるでしょうか? 批評家が国民に向かって、真意を理解してほしいと思ったとき、どうやったら伝わるでしょうか? どうせ、レトリックは、「ばれます」。その、つまらない「意図」は、白日の下にさらされるのですから、無意味かつ信頼を落とす行為だと思った方がいい。ただただ、
シンプル
であること。これだけが、相手に信頼され、相手の「理解」を勝ち取れる手段のように思うわけです...。

病的に自分が好きな人 (幻冬舎新書)

病的に自分が好きな人 (幻冬舎新書)