ミシェル・フーコー『真理とディスクール』

少し前に、計算には通信が不可分の関係にあるんじゃないのか、と書いたとき、頭にあったのは、ケインズ美人投票であった。

  • だれが美人だと思うかを言う:ある人A --> ある人B

この場合に、私たちが思うのは、「Aには二人、いるんじゃないのか」ということである。

  • ある人A = A_1 + A_2
  • だれが美人だと思うかを言う:A_1 --> A_2 --> B
  • A_1:自分の美人だと思う人を言う
  • A_2:みんなが美人だと思う人を言う

つまり、

  • A_1:自分の本心のまま発言する。本音。
  • A_2:その本心をコントロールしながら、自分が「有利に生きられる」ことを発言する(利益相反的に発言)。建前。

こんな関係になっていると思われる。しかし、一般に、A_1が「感情」で、A_2が「理性=計算」、と考えられているが、それは違うんではないか、と考えている。例えば、

  • A_1:科学における「計算」。
  • A_2:学校の教科書。

この場合、A_1は単に、純粋に、なにも考えずに計算をする、ということを意味していて、つまり、「その他のことを考えていない」ということを意味している。科学の真理探究は、ただただ、真理は何かを目指して行う活動となる。他方、A_2とは、そういった科学の結果から、どうやって、自分が職を見付けて、大学のポストを確保して、定年までの生計を確保するか、といったことと関係してくる。そうした場合、当然、その時の権力者たちがどういった考えをしているかで、内容が「タブー」化されていく。
ミシェル・フーコーは、掲題の本で、古代ギリシアにおいて使われた、「パレーシア」という言葉に注目します。
ある人民Aが、なんらかの発言をした、としよう。その場合に、それが、その地の、権力者Bにとって、都合の悪い、発言だったとしよう。すると、BはAに対して、なんらかの制裁を加えることになる。

  • Aが発言Xを行う --> BがXを知る --> BがAに制裁Wを行う --> Aが制裁Wを受ける

ということは、どういうことを意味するか?

  • 人民Aの発言 ⊂ 権力者Bに怒られない発言

上記のパラグラフと対応させると、

  • A_2の発言 ⊂ 権力者Bに怒られない発言

ということになる。この関係は、東京のような国家中枢に近づけば近づくほど、強力になっていることが予想される。
しかし、問題は「これでいいのか」というところにある。だれもが、「権力者Bに怒られない発言」しか行わなかった場合、もちろん、そういった発言をしないことによって、人民Aは、権力者Bに嫌われず、自らの社会的な地位を失うことはない。しかし、そうやって、
だれも言わない
ことによって、その共同体自体が、消滅したらどうなるか?
そこで、提案される概念が「パレーシア」だと言えるだろう。つまり、

  • だれかが言わないとその共同体が滅びる発言 ∩ 権力者Bに怒られる発言 ≠Φ

こうであるなら、なんとかして、

  • だれかが言わないとその共同体が滅びる発言 ― 権力者Bに怒られない発言 ⊂ 人民のだれかの発言

としなければならないであろう。
フーコーが注目する、パレーシアという言葉が、古代ギリシアエウリピデスの悲劇で使われてから、広がり、古代ギリシア世界において、なくてはならない、概念となっていきますが、その初期の「形式」が、上記と言えるでしょう。
パレーシアを、フーコーは「真理」と同一視します。それは、実際に当時の人々がそういう意味で使ったから、ということもありますが、問題は、どうして、そうだと言えるのか、にあります。

ところで古代ギリシアでは、パレーシアステースが自分が真理を所有していることに、なんらかの疑念をもっていることを示す箇所はみつけられませんでした。これがデカルトの問題とパレーイアステースの姿勢との違いなのです。デカルトにとっては、疑問の余地のない明晰で判明な明証性がみいだされるまでは、デカルト本人にも自分で考えていることがほんとうに真理なのかどうかは、確実ではなかったのです。
しかしギリシアのパレーシアの概念では、真理の獲得は問題になっていないようです。語る主体がある道徳的な特質をそなえていれば、真理を所有していることが保証されたからです。だれかが特定の道徳的な特質をそなえていれば、それはその人が真理に到達できるという証拠ですし、その人が真理に到達できるのであれば、こうした道徳的な特質をそなえていることが証明されるのです。
この「パレーシアのゲーム」では、パレーシアステースとは、まず真理を知るために、そしてこうした真理を他者に伝達するために必要な道徳的な特質をそなえていることが前提なのです。
パレーシアステースの真摯さを「証明する」ものは、その勇気です。ギリシアでは、ポリスの大多数の人々の考えと違うことを語るのは、危険なことでした。そしてこの危険なこおとを引き受ける勇気があるということは、その人がパレーシアステースであることをはっきりと示すものだったのです。

上記の引用を理解するには、まず、古代ギリシアの最初の政治形態は、僭主制しかなかった、ということを抑える必要がある。僭主制においては、圧倒的な問題は、国王の「主体」であるといえるであろう。国王が、ある市民に対して、気分を害すれば、その市民は、奴隷の身分に落ちます。つまり、なによりも優先されるのが、国王の、感情だということになります。
しかし、言うまでもなく、これでは、国王が間違えていたとき、国家は滅びることになります。それでは、国民の生活は、国王と心中するのと変わらないことになる。
しかし、僭主とは、そこまでの国民の「信頼」のある存在であるだろうか? 言うまでもない。僭主とは、そういう存在ではない。
国民の「崇拝」の対象は「神」である。つまり、デルポイの信託を始めとして、神への「信頼」に対応している。というのは、農民であれば、豊作祈願と、農民の崇拝には、深く関係しているからです。
国王は、そういった国民の神への崇拝を、「利用」して(裏から、かすめ取って)、自らの権威を主張していると言えるでしょう(東アジアであれば、国王が、星座や暦や灌漑設備を支配することで、実質的に、

  • 神の力を代替する存在

として、国王は、振る舞うことになる...)。
しかし、言うまでもなく、国民の崇拝の対象は「神」である。というのは、これは一つのゲームになっている。
上記で記したように、国民は国王の意志に反する行動や言動はできない。しかし、国民の崇拝の対象は、言わば、農民であれば、農業の豊穣の神であって、そもそもそれは、国王ではない。もっと言えば、国王の「個人的な意見」によって、農民の「豊穣神への崇拝を中心とした農業活動」を破壊されてはなかわない。
そこで、デルポイの信託である。デルポイの信託は、基本的に、どっちにも解釈されることしか言わない。しかし、それを国民は、「神の発言」と解釈する。しかし、国王の権威は、言わば、「国民の神への崇拝」を利用したものであるだけに、国王も、そう簡単に、けむたがるわけにはいかない。つまり、国民は、神に

  • だれかが言わないとその共同体が滅びる発言

を言わせることで、国王を「制限」し、国家共同体の存続を図るわけである。
パレーシアというのも、これの一種と考えられるであろう。その場合、パレーシアを行う国民は、神を介在させることなく、国家の存亡を賭けて、国王に諫言するわけだが、その場合、その諫言には、諫言を行った国民の「リスク」が、国王の気分を損ねる可能性として、併置される。

このように、パレーシアの機能は、だれかに真理を示すことではありません。批判する機能を果たすのです。聞き手や話し手みずからを批判するのです。「あなたはこのように行動し、このように考えている。しかしそれはしてはならないことだし、そのように考えるべきではないのだ」と批判するのです。あるいは「あなたはこうふるまっているが、それは正しいふるまいではない」」。「わたしはこうしたが、それは間違っていた」。パレーシアは批判という形式を取ります。そして聞き手を批判するか、話し手みずからを批判するかを問わず、話し手や告白者はつねに、聞き手よりも低い地位にあるのです。
パレシアステースはつねに、聞き手よりも力をもたない者です。パレーシアは「下から」訪れます。いわば「上に向かって」語られるのです。古代のギリシアでは、文法を教える教師や、自分の子をとがめる父親がパレーシアステースと呼ばれなかったのは、そのためです。しかし哲学者が僭主を批判するとき、ある市民がポリスの大多数の人々を批判するとき、生徒が教師を批判するとき、語り手はパレーシアを行使していると言えるのです。

僭主制国家において、これは、恐しいことです。パレーシアを行った国民は、奴隷に落とされるかもしれない。真理は「勇気」と併置されているわけだが、それは、戦士が自らの生命を賭けて戦う姿と対比されるわけで、つまり、それが、国家そのものを救う、という認識があるということになる。
しかし、ここで、発想を変えてみましょう。つまり、もしもこの、パレーシアに社会的なステータスが認められていったとき、どのようなことが起きるか? このパレーシアがギリシア悲劇などで、何度も使われるようになり、古代ギリシアの人たちに、パレーシアの「必要」性が認識されていくようになります。
つまり、それが「民主制」だと言えるでしょう。国王は、パレーシアによって「制限」されていく必要が認められるなら、それは、そもそも、国王を「採用しない」国家であっていい、ということを意味していくでしょう。
つまり、パレーシアを「権利」とする国家、民主制国家、が誕生する。
しかし、そのことは、何を意味するのでしょうか。
つまり、パレーシアがそれとして認められることで、逆に、今度は、そのパレーシア自体の「意味」が、不可避的に「変容」してしまうわけです。

パレーシアが最悪の市民にも認められるために、邪悪で、不道徳的で、無知な発言者の圧倒的な影響が、市民を僭主制に導いたり、ポリスに害を与えかねなくなったからです。こうしてパレーシアは、民主制にとって危険なものになってきました。

民主制が必然的にこういった問題に悩み始めるのは、今の日本の政治を見ても分かるかもしれません。反原発の国民のあれだけの意志を前にしながら、例えば、ツイッターなどでの、
饒舌
既得権益「ラウド・マイノリティ」たちの、ビッグ・マウスに、企業がクレーマーに悩まされるように、悩まされることになり、さまざまな意志決定に影を落とすようになっていると言えるでしょう(民主主義は、必然的に、こういった、

たちの、「利害当事者としての必死さ」として、自らの全てのパワーを注いで、民主主義的意志決定を破壊してくるわけです(反原発潰し)。アメリカ政治が、完全に、有象無象のロビー活動によって支配されているように、民主主義は絶えず、こういった、
ポピュリズム
の暴力に悩むことになります(言ってみれば、古代ギリシアアテネ民主主義も、プロポネソス戦争を経て、こういった連中による、利己的かつ饒舌な勢力の台頭に絶えず悩まされながら、没落していった、と言えるのではないでしょうか)。
他方、古代ギリシアは、それ以降、犬儒派ストア派といったような、ソクラテスの「魂の配慮(=ロゴスの尊重)」の延長から、行動の徳や、内面といった、
個人的なパレーシア
へと、主題が移っていくわけです...。

真理とディスクール―パレーシア講義

真理とディスクール―パレーシア講義