マーサ・スタウト『良心をもたない人たち』

(さて、オバマが再選ということだが、これって、彼の医療制度改革を、ヒスパニックなどのマジョリティが支持した、ということを意味しているのだろうか?)
掲題の本も、ある意味で、ある種の傾向をもった性格をしている人を dis ることを目的としていると言っていいのかもしれない。
おそらく、心理学はそういった傾向が大きい分野なのかもしれない。本来、人々の「意識の流れ」は、個的なもので、その人に寄りそい、分析していかなければ、なにも言えないはずなのだが、心理学はそれを、
一般理論
に昇華させないと気がすまない。

想像してみてほしい----もし想像がつくなら、の話だが。
あなたに良心というものがかけらもなく、どんなことをしても罪の意識や良心の呵責を感じず、他人、友人、あるいは家族のしあわせのために、自制する気持ちがまるで働かないとしたら......。
人生の中で、どれほど自分本位な、怠惰な、有害な、あるいは不道徳な行為をしても、恥をまったく感じないとしたら。
そして、責任という概念は自分とは無縁のもので、自分以外のばかなお人よしが文句も言わずに引き受けている重荷、としか感じられないとしたら。
さらに、この風変わりな空想に、自分の精神構造がほかの人たちと極端にちがうことを、隠しおおせる能力というのもつけ加えてみよう。
人はだれでも、人間には良心が当然そなわっているものと思いこんでいるから、あなたはなんの苦もなく自分に良心がない事実を隠すことができる。あなたは欲望を罪悪感や羞恥心によって抑えられることもなく、冷酷さを他人から非難されることもない。あなたの血管を流れる冷たい血はあまりに特異で、完全にほかの人たちの経験を超えるための、他人にはあなたという人間を推し量ることさえむずかしい。
言い換えると、あなたは良心の制約から完全に解き放たれていて、罪悪感なしになんでもしたい放題にできる。しかもそのうえ、良心に歯止めをかけられている大多数の人びとのあいだで、あなたが一風変わった有利な立場にいることは、都合よく隠すことができ、だれにも知られずにすむのだ。
そんなあなたは、どんなふうに人生を送るだろう。自分は巨大な能力を隠しもち、ほかの人たちはハンデキャップ(良心)を抱えている、という条件を、どんなふうに生かそうとするだろう。

よく、良心、つまり、善や悪なんてものは、この世界にはない、みたいなことを言う人がいる。つまり、この世の成り立ち(=物理学)には関係ない、みたいな意味で言っているのだろう。
しかし、そういうことをいう「以前」に、そもそも「良心」の定義はなんなのか、つまり、お前「は」、ここで、どういう意味で使おうとしているのか、が問われているはずで、そういった文脈なしには、なにも、判断できない、ように思われる。
例えば、上記においては、不道徳行為を自らが行っても、それを行っている自分の反応が「無反応」といったような所にこそ、重点が起かれているように思われるわけで、このように考えたとき、それはどこまで、「物理学」と関係ないと言えるんですかね?

精神医学の専門家の多くは、良心がほとんど、ないしまったくない状態を、「反社会性人格障害」と呼んでいる。この矯正不可能な人格異常の存在は、現在アメリカでは人口の約四パーセントと考えられている----つまり二五人に一人の割合だ。
この良心欠如の状態には、べつの名称もある。「社会病質(ソシオパシー)」、ないしはもっと一般的な「精神病質(サイコパシー)」。じつのところ罪悪感の欠如は、精神医学で最初に認められた人格障害であり、過去には譫妄[錯覚・幻覚・異常行動をともなう行動]なき狂気、精神病質的劣勢、道徳異常、道徳的痴愚などという言葉も使われた。
精神病の診断でバイブルとれている、アメリカ精神医学会発行の『精神疾患の分類と診断の手引』第四版によると、「反社会性人格障害」の臨床診断では、以下の七つの特徴のうち、少なくとも三つをみたすことが条件とされている。

  1. 社会的規範に順応できない
  2. 人をだます、操作する
  3. 衝動的である、計画性がない
  4. カッとしやすい、攻撃的である
  5. 自分や他人の身の安全をまったく考えない
  6. 一貫した無責任さ
  7. ほかの人を傷つけたり虐待したり、ものを盗んだりしたあとで、良心の呵責を感じない

ある個人にこれらの”症状”のうち三つがあてはまった場合、精神科医の多くは反社会性人格障害を疑う。
だが、アメリカ精神医学会の定義は、実際のサイコパシーやソシオパシーではなく、たんなる”犯罪性”を説明するものだと考え、精神病質者全体に共通するものとして、べつの特徴をつけ加えた研究者や臨床家もいる。そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、口の達者さと表面的な魅力である。

上記で、「4パーセント」という具体的な数字が出ているが(掲題の著者はアジア人はもっと少ない、と言っているようだが)、それは、おそらく、なんらかの心理テストのようなもので、導いている、のであろうが、問題は、そのように形式的に導出したこの「結果」が、ではその実態として、何を意味していると言いうるのか、ということになるのだろう。
上記のような「症状」の興味深い点は、基本的にこれは「病気」扱いにならない、ところであろう。というのも、本人が「困っていない」からだ。
上記の問題は、以下の問題と考えることができるのかもしれない。

  • 集団的行動戦略 ... 自集団と他集団との間の利益関係に重心を置いて考える。
  • 利己的行動戦略 ... 自分と自集団内の他人との間の利益関係に重心を置いて考える。

つまり、ある人が、自分の行動を、他人との競争という「側面」だけで考えたとき、下記の方にばかり重心が移り、上記の視点を見失っている、と言えるのかもしれない。
しかし、一般にこういったことを考える場合、もう少し、いりくんだ話をしようとしていて、例えば、受験勉強のような場面を考えると、上記のような、集団的行動戦略をやっている中で、一人だけ、利己的に勉強をしていると、たんに成績が自分だけ良くなる、というわけで、有利だということにもなる。
つまり、逆に、上記で言っている「サイコパシー」は、こういった
鈍感力
のようなもので、友だちは少なくても、受験勝ち組に入っている、とも考えられるのかもしれない。
この本でも強調されているが、「サイコパシー」の人を「サイコパシー」でない人は、なかなか、気付けない。なぜなら、「そういう疑いを持っていない」から、ということになる。
しかし、いずれにしろ、こういった「サイコパシー」が、なにによって、もたらされているのか、と問うことには意味があるのかもしれない。

動物行動学者のジェーン・グドールは、ゴンベで観察したチンパンジーの群れについて、こう語っている。「彼らは社会的調和を維持したり、修復したりするための行動パターンを豊かにもっている......抱き合う、キスをする、軽く叩く、手を握るなどの行動で、長いあいだ離れていた相手に挨拶をする......おたがい同士、時間をかけて穏やかに毛づくろいをする。食べ物をわけあい、病気や怪我をしたものをいたわる」そんな根源的な他者とのきずなを欠いたとき、人はどうなるだろう。

サイコパスにおよぼす環境的影響について調べている研究者の多くは、幼児虐待よりも”愛着障害”の影響に目を向けた。愛着は、幼児に親との接触をうながす先天的な脳の働きであり、それによって最初の人間関係が形づくられる。この最初の関係が決定的に大切なのは、それが幼児の生存にかかわるだけでなく、関係をとおして、幼児の未成熟な大脳辺縁系組織が、大人の脳の成熟した機能を「利用」しながら自然に完成されていくためだ。
親が幼児に感情移入して反応すると、子どもの中で満足感や高揚感などのプラスの感情が促進され、欲求不満や恐怖などのマイナス感情が緩和される。この作用が秩序や安全の感覚をやしない、しだいに幼児の記憶に刻まれていく。そして英国の心理学者のジョン・ボールビーの著書『愛着と喪失』の言葉を借りれば、世界の中に「安全基地」をもつことができるのだ。
研究によれば、幼児期に適切な愛着を体験すると、多くのしあわせな結果が生まれる。感情を健全に制御する能力、自伝的記憶、自分の体験や行動を反省する能力などが育つのだ。とりわけ重要なのが、のちにほかの人びとと愛のこもったきずなを結べるようになる点だろう。愛着による最初のきずなは生後七ヶ月目までに築かれ、たいていの乳児は最初にふれあった相手への愛着をとおして、これらのだいじな能力を発達させていく。
愛着障害は、幼児期の愛着が阻害されたために生じる悲劇的状態だ。原因は親の無能力さ(親に深刻な感情障害があった場合など)や、幼児が長期にわたって放置された場合(昔風の孤児院など)である。最初の七ヶ月のあいだに愛着を体験できず、深刻な愛着障害をもつ子どもや成人は、ほかの人びとと感情的にきずなを結べず、悲惨な運命をたどる。

上記のチンパンジーの例は、人間についてだって同じであろう。子どもの頃、当たり前のように、さまざまなスキンシップをしていた人は、まず、それが無駄かどうか以前に、
そういうことはやるものだ
から、反射的に入るわけであろう。それが慣習というもので、それに、いいもわるいもない。体が勝手にやっているのだから。
しかし、そういった愛情を注がれて育たなかった人の場合は、まず、そういった行動を行うのに「内省」から入る。やるべきかどうか。だから、ワンテンポ遅れる。失敗する。
そういう経験を繰り返していくと、大多数の人が反射的に慣習としてやっていることを自分だけやらないことで、その「恩恵」を自分だけ受けられない、ということになって、ますます、「被害妄想」を大きくして、「サイコパシー」をひどくする、という感じだろうか。
人間のやっていることなんて、ほとんど反射みたいなもので、相手が笑ったら自分も笑う。ミラーニューロンじゃないが、ほとんどが、そんなものであろう。
兄弟がいる人であれば、兄が走りだしたら、弟もその後について走りだす。こんなことばっかりやってると、自然と運動神経がついてきて、運動が得意になる、みたいな。
しかし、他方において、私は、あまり、こういった問題を重要視したいようには思わない。というのは、これだって、結局は程度問題というところがあるのではないか。つまり、だれでも少なからず、こういった傾向があると言わざるをえないように思うからだ。

服従についての研究でくり返し同じ結果がでたため、ミルグラムは人間の性格について学ぼうとする人びとに困惑と刺激をあたえる有名な発表をおこなった。「かなりの割合を占める人が、しかるべき権威からの命令だと了解したとき、その行為の内容にかかわりなく、また良心の制約もなしに、命じられたとおりのことをおこなう」
ミルグラムは、権威が良心を眠らせることができるのは、服従者が「思考を調整する」ためだとみなした。つまり、「この行動については自分には責任がない」と考えるようになるのだ。彼の頭の中で、自分はもはや道徳的に責任ある行動をとるべき人間ではなく、絶対的権威者の代行人にすぎなくなる。責任と主導権のすべては権威者にある。この「思考の調整」のおかげで指導者たちは秩序を築きあげ、支配をおこなえるわけだが、おなじ心理メカニズムが、自分の利益のみを追及する、有害なサイコパス的権威者に利用されてきたのも事実だ。

だれだって、少なからず、こういった傾向をもつ。だとするなら、あまりにこだわることも、違うように思われる。
一般に、「利己的」であることは、経済学などが特にそうだが、「個人の権利」として考えられ、別に「普通」のこととして扱われる。しかし、それを、
良心がない
と整理されると、ギョッとする。たしかに、良心を「持たない」という表現に意味があるとして、もしそういう人なら、それは結果として「利己的」としか、表現のしようがないであろう。
だとするなら、それって「(かなり狭義の意味で)自分に得にならなければやらない」という「格律」に従って生きている、ということを、言っているということで、普通に考えれば、他人と友好的であった方が、トラブルも少ないわけで、多くの場合、「平和的」だということなのだろう(なんとなく、友だちが離れていって、孤立してしまう、といった感じか)。
しかし、こういった形で、心理学者が昔から研究している、ということなら、彼ら自身にも、それなりの「自覚」があるということなのだろう。

とはいえ私は、サイコパスも意識のどこかずっと下のほうで、自分には何かが欠けている、ほかの人たちがもっている何かが自分にはないという、かすかなささやき声が聞こえるのでないかと考えている。というのも、実際にサイコパスたちが「むなしい」とか「うつろだ」と言うのを聞いたことがあるからだ。

なんにせよ程度問題のようにも思われる。サイコパシーと言っても、それなりに自覚的にトレーニングをすれば、改善もしそうにも思われるわけで、どうも、こういった心理学的なカテゴリーは苦手である...。

良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)