貴志祐介『悪の教典』

イスラエル軍による、ガザ空爆が行われている現在、それを止めることのできない国際社会に対して、掲題の小説の主人公「ハスミン」という
サイコパス
と、なにか「同型」のものを感じてしまう私には、そう簡単に「近代」はやって来ないんだな、という「あきらめ」というより、ただ「静か」に「冷静」に、現実を見つめ理解しようという感情を起こさせられる...。)
土曜日に、掲題の小説を原作とした映画を見に行ったのだが、驚いたのは、むしろ、非常に多くの若者、特に、女性が見に来ていたことだった。
なぜなのかと考えれば、原作がそれだけ、学生に読まれている、ということなのでしょう。
しかし、私は、おそらく、この映画が女性たちにとって、なぜ見られているのかの「重要性」は、もし自分が、こういった
サイコパス
を育てることになった場合についての「想像力」を、喚起されているからではないのか、と思っている。

父親の、胸に詰まるような悲痛な告白は、終わりにさしかかっていた。
「......全部、あの子がやったんだよ。聖司は、人を殺すことを何とも思っていないんだ。生まれつき、共感能力が低いことは気になっていた。だが、まさか、こんなふうになるとは、想像すらできなかった」
「だけど、そんなことって、とても信じられないわ」
母親が、鼻にかかった涙声で言う。
「絶対、何かの間違いよ。聖司が......わたしたちの子供が、そんな」
「最初は、信じられなかった。しかし、もう疑う余地はない」
「だって、証拠は何もないんでしょう?」
「私が見たことが、証拠なんだ」
父親は、歯を食いしばっているようだった。
「あの晩、あの子は、たしかに家を抜け出していた」
「でも、ただ、夜遊びに行っただけかも?」
「それだけじゃないんだ。熊谷先生が亡くなった日も......」
父親は、冷静に、根拠を列挙していった。一つだったら、ただの暗号として片付けられるのかもしれない。だが、ここまで符合した場合は、もはや偶然とは考えられない。
「......聖司は、人殺しなんだ。それも、たった一度の過ちで人を殺めたというんじゃない。冷酷に、計算ずくで、二人を殺害している。私が、たまたま気がついただけでだ。もしかしたら、これまでにも、犠牲になった人は、もっと大勢いるのかもしれない。あの子は、怪物だんだよ!」
母親が号泣し始めた。
「これ以上、放置できない。わたしたちは、聖司を止めなくてはならない」
「あの子は......ただ理解できないだけなのよ。何が正しいことで、何が間違っているのか。きっと、わたしたちの教育が間違ってたの! だから、あの子を罰しないで!」
「罰とか......もう、そういう次元の話じゃないんだ」
父親は、声を絞り出した。
「あの子を、一刻も早く、社会から隔離しなくてはならない。これ以上、犠牲者が出ないように」
「そんなの、ひどすぎるわ! あの子は、まだ十四歳なのよ?」
「殺された人の遺族に対しても、ひどすぎると言えるのか?」
「でも、じゃあ、聖司は......」
少年法があるから、死刑になることはない。それどころか、一生塀の中に閉じ込めておくこともできないんだ。......私が心配しているのは、むしろ、それまでにあの子を変えることができるのかということだ」
母親は、しばらく黙り込んだが、やがて、別人のように掠れた声で訊ねる。
「......わたしたち、これからどうなるの?」
「わからない。......いや、間違いなく、すべてを失うことになるだろうな」
父親の声は低く嗄れ、まるで地の底から響いてくるようだった。
「だが......それでも、他に選択の余地はないんだよ」

もし、父親にこれだけの「危機感」があったなら、まず、この父親と母親が行うべきは、この息子から、

  • 自分たち二人を「守る」

ことだったことが分かるであろう。しかし、おそらく、この夫婦には、そうやって「すぐ」には、自分たちを切り換えられない。そんなふうに、人間はできていないからだ。「ハスミン」がこういった、サイコパスの傾向を身につけていくのには、子供の頃からの長く、他人には想像もおよばない
文脈
があるからなのであろう。
この会話は、息子に盗聴されていて、この会話のすぐ後で、この二人は、この息子に殺害される。
しかし、この息子は、上記の会話にある二人の被害者のときと同じように、自分が
被害者
であることを「演じる」ことによって、警察をあざむき、しゃばで生き残る。つまり、だれだって、自分の子供が親を殺すはずがない、と思っている。だから、警察も、それを疑わない。
こうやって、この後も、ハスミンは自らの犯罪が、ばれることなく、サイコキラーを続ける。
しかし、私は、この原作の小説を、半分くらい読んでいったくらいから、少しリアリティを感じなくなった。やはり、こういった作品は、一つの
エンターテイメント
だという印象である。この小説についても言えると思うが、日本のバブル以降の、犯罪史において、最も大きな影響を与えたのが、酒鬼薔薇事件とオウム真理教地下鉄サリン事件だと思っている。そして、掲題の小説も間違いなく、大きな影響を受けている。
オウム真理教は、最近、NHKスペシャルでもやっていたが、麻原がハルマゲドンを「自ら」の手で引き起こすために、かなり大量のサリンを自らが所有する工場で生産していた。そして、その量は、あの事件の量など、較べものにならないくらいの量の生産を目指していた。
そのように考えたとき、もしも、オウムのサリン製造が、あまりにも順調に進んでいたら、あの程度の「テロ」でおさまらなかった可能性がある。東京は、本当の地獄絵図になっていて、首都機能を麻痺させられていたかもしれない。
麻原は、このサリン製造の「事実」を打ち明けた一部の幹部クラスの信者に、

  • ポア(教団によりリンチ殺人)
  • 「テロ」協力

の二者択一という「踏み絵」を迫ったという(上祐さんのコメントがNHKスペシャルで流れていましたね)。
いずれにしろ、私がこういった事件をながめて受ける印象としては、むしろ、

  • 現代の日本において、いかに「凶悪犯罪」が難しいか(少ないか)

である。たしかに、酒鬼薔薇事件のようなものはあった。しかし、それは、「少年」の犯罪であった。そして、その後、犯人は少年院に入っている。
じゃあ、大人についてはどうか、と考えると、オウムの事件を除けば、ほとんど、大規模なものは、数えるほどしかない。
それは、なにを意味しているのか、と考えると、それだけ、難しい、ということを意味しているように思える。
つまり、あのオウムも「あそこまで」のことを教団内で行わなければ、あの犯罪を起こすことはできなかった。それだけ、犯罪が実行に移されることは、
難しい
と考えられるのではないだろうか。

「なぜ、こんな、馬鹿なことをする? あんたは、頭がいい。人の心をつかむのもうまい。いくらだって、まともなやり方で成功できるじゃないか? なのに、いったい何のために、こんな......」
蓮実を説得できるとは思っていなかったが、後半は、我知らず、懇願するような口調になっていた。蓮実は、じっと聞いていたが、やがて、授業中にいい質問をした生徒にするように、深くうなずいた。
「なるほど。質問はわかったが、答えるのは難しいな。たとえば、こう考えてみたら、どうかな。X-sports というのがあるだろう? Extreme sports の略だが、我々から見れば、とんでもなく危険なことをしているように見える。スキーで崖から飛び降りたりとかね。やってる本人の感覚というのは、なかなか、傍からは理解しがたいものがあるんだ」
「あんたは、スリルを求めてやってるっていうのか?」
圭介は、茫然として、蓮実を凝視した。
「いや。そういうことを言いたいんじゃない。......日常生活においては、誰もが、様々な問題に直面するだろう? 問題があれば、解決しなければならない。俺は、君たちと比べると、その際の選択肢の幅が、ずっと広いんだよ」
「はあ?」
何を言ってるんだ、こいつは。
「かりに、殺人が一番明快な解決法だとわかっていたとしても、ふつうの人間は躊躇する。もし警察に発覚したらとか、どうしても恐怖が先に立つんだ。しかし、俺はそうじゃない。X-sports の愛好家と同じで、やれると確信さえできれば、最後までやりきることができるんだよ。X-sports と同様、途中でためらうとかえって危険だけど、思い切って突っ走れば、案外走りきれるものなんだ。......どうだろう。こんな説明で、わかってくれたかな?」

これが、「ハスミン」が自らを自らで「分析」した内容になるわけだが、例えば、

  • 小学生がこんなことをできるはずがない(これができるためには、恐しいまでの緻密な「謀略」を長期間に渡って練っていたことになる)

というように、子供に対しては、上記は、ある程度は、予想できるのかもしれない(逆に、そこまでの計略が子供には無理なようにも思いますが)。
逆に、大人社会になると、そもそも、そういった謬見がなくなるし、もしも、なんらかの「証拠」が、
たまたま
残っていたことによって警察のお世話になっただけで、そう簡単に社会復帰が難しくなる(特に、最近のSNS時代においては、特にそうだろう)。
上記の、

  • 思い切って突っ走れば、案外走りきれるものなんだ

は、子供の頃からの、この「鬼畜」の「経験則」であるが、むしろ、大人になればなるほど、

  • 失敗する確率は上がる。

しかし、本人は子供の頃からの「経験則」を「信じている」ために、大人になっても、同じような「感覚」で行ってしまうが、それが

  • 何回も続かない

といったところに、なぜ、現代日本社会において、成人による凶悪犯罪が「少ない」のかの理由になってるのではないだろうか。

「私を殺したいか? 君が私を見る目は、まったく気に入らないな」
虚空から、ジミー・モルゲンシュテルンの声が響いてきた。
「君は、しょせんはサイコ・キラー------肉食の羊のような怪物だ。君のための居場所は、この世のどこにもない」
「黙れ」
蓮実は、声がした方向へ二発続けて発砲した。天井の漆喰が剥がれ、ぱらぱらと落ちてくる。

現代社会は「ルール」社会である。もしも、「ルール」を破ったことが、ばれたら、その人は、その「ルール」のパブリックなプレーヤーの位置から、排除される。つまり、警察のお世話になるわけだが、そう考えたとき、この場合の選択は二つとなる。

  • 徹底した情報の隠蔽
  • 罪を認めて、罰を受ける手続きに入る

掲題の小説の主人公の「ハスミン」は、この二つの道を前にして、徹底して前者を選び続けていった成れの果て、と言うことができるであろう。
しかし、この道は「いばらの道」だ。なぜなら、あらゆる「情報」が、あらゆる場所に「痕跡」を残すことは避けられないからだ。そう考えたとき、掲題の小説の後半は、私にはリアリティを感じられなかった。
おそらく、日本の歴史においても、サイコ・キラーのような存在は、いたのではないか、と考えている。しかし、上記の引用にもあるように、そういった存在は、「しゃば」には、
居場所
がなかった。おそらく、ヤクザ社会の中で、ある種の「隔離」のような形で、そこに置かれ、老いて死ぬまでを、そこで過していたのかもしれない。
原作はこんな感じなのだが、映画は、正直、人間が見るものじゃない、という印象だった。私は、この映画監督は、ある種の「ホラー」というカテゴリーで作ったのだろうと思うが、最後の、クラス全員を猟銃で打ち殺していく、ああいった
映像
を平気で国民に向けて流せる

  • 芸術家

が信じられない(そういう意味で、私は
芸術=偶像崇拝
が嫌いだ)。私は学校に「いじめ対策」として、警察が介入することに懐疑的だが、「不審者対策」として、警察が時々、学校に来ることには意味があるんじゃないかと、映画を見ながら思った。というのも、あまりに学校には
自分たちを守る
ための手段になるものがない orz。学校という場所が、子供たちが、自分たちを自分たちで守れるような形になっていないことを再確認させられたという意味で、勉強させてもらった、ということになるんだろうか...。

悪の教典 上

悪の教典 上