ジェイムズ・S・フィシュキン『人々の声が響き合うとき』

もしあなたが、病気なり怪我なりで、病院のお世話になるとき、「インフォームド・コンセントなんて不要だ」と言う人を信用できるだろうか?
言わば、これこそが、近年さかんに話題になっている「熟議民主主義」の意味なのではないか、と思っている。

民主的な熟議とは集団のインフォームド・コンセントの一形態だと考えて、熟議の質に関する五項目を検討してみよう。

患者が医者にかかるとき、自分がこれから治療の対象となるものについて、「知っていない」のに、医者が患者を治療すると言っているとき、患者には医者への、ある不信感がもちあがってくる。つまり、「なぜ」医者は患者に説明しようとしないのか。
では、逆に問うてみよう。なぜ医者は患者に説明をしなければならないのか? おそらくそれは、その治療によって引き起こる「結果」に関係している。
患者に対して医者は、なんらかの「介入」を行う。すると、患者には、なんらかの「変化」が起きる。その場合、その変化は二つに分けられる。

  • A1)患者にとって受容可能な変化
  • A2)患者にとって受容不可能な変化

また、こういった変化に対して、以下の二つに分けることが可能だ。

  • B1)医者が「意図」した変化
  • B2)医者が「意図」しない変化

患者にとって問題は、A2だ。これが、B1によって起きた場合、患者にとって悲劇を通り越して「喜劇」であろう。なぜなら、こんなことなら、この医者に治療を頼まなかったから。A2+B1の例として、この治療が患者にとって受け入れられないような治療費が請求されるものだった場合も考えられる。
また、B2についても、「リスク」というアイデアによってコントロール可能な側面があったかもしれない。過去の臨床結果を収集するなど。
これが、「パターナリズム」である。

  • あなたのために、やってあげる。

もしこれが患者にとって「ありがた迷惑」であったとき、医者は患者の「人権」を犯した、と考えられるのではないか、ということなのである。
しかし、以下のような場合を考えてみよう。
たとえば、公共事業において、国民はほとんど情報をもらっていない。いつの間にか、道路の工事が始まって、いつの間に完成していて、いつの間にか自分でも使っている。
それは、知らされていなかったというより、地域の発信されている情報にふれる機会がなかった、つまり、自分まで届いていなかった、ということと考えられる。
つまり、情報伝達は「どこまでやるのか」ということである。
医者が患者に、どこまで説明しなければならないのか。もしその説明を患者が理解しないなら、それでも説明を続けなければならないのか。難しい数学の証明によって、主張されている理論を患者に、本当の意味で理解させようとする医者はいないだろう。つまり、インドームド・コンセントには、ある

  • いいかげんさ

が大きく影響していることがわかる。そうすると、こういったコミュニケーションまで欺瞞的に思えてくる。「ちゃんと」説明してないんだから、だめじゃん、と。
しかし、一般には、そう考えられない。つまり、こういったことは、なんらかの「ルール」化が進むからである。それは弁証法のようなもので、ある病気があれば、

  • こういう場合は、患者に以下のような形で、そのポイントを説明すべきだ

といったコンセンサスができてくる。どういったことが、大きなリスクとして想定されるか、こういったものが、「パターン」として整理されてくる。
(つまり、なぜ複雑社会であり成熟社会である現代が、ルーマンの言うような、情報のインフレーションを起こしていないのかは、ここにあるように思われる。つまりは、情報とは「正当化」のことであって、「間違っていない=細部まで全て証明が記述されている」こととは違う、ということなのだろう。つまり、たとえ説明がいろいろ省略されていたとしても、その説明体系が「オーソライズ」されているなら、正当化される、という意味だ、と。)
たしかに、医者が患者に、これに関連する「あらゆる」ものを説明しなければらない、となると、時間がいくらあっても足りない。しかし、こういったポイントだけなら、それほどの時間はかからない。
あとは、医者はこういったものを患者に説明していく作業となるわけで、単調な作業とも言える。
では、医者は、どんな「役割」を求められるのか?
それは、言うまでもなく、「この」患者の「特異」性である。もし、この患者が、他の人にはない、なんらかの病気を併発していた場合には、どんなところに注意がいるか。こういった
条件
によって、上記の説明体系は、マイナーチェンジを必要とする。つまり、たとえ患者に説明することになる内容が少なかろうが、それを説明する側が想定しなければならない情報は膨大であったとしても不思議はない、ということである。
ここには、ある「次元」の違いが発生していることが分かるであろう。なぜ、医者が患者に説明する内容が少なくすむのか。それは、過去の症例の蓄積から、この症状の場合に、「トラブル」となるポイントが蓄積され、そういったポイントを回避することを重点的に行われることで、議論の「過不足」が起きにくくなっていく、ということなのだ。
言うまでもなく、医者の患者への「パターナリズム」は避けられない。しかし、その「次元」がより高次のフェーズに移行していることが分かるのではないか。
熟議ということを考えるとき、とても重要なポイントは「なぜ熟議をするのか」である。
まずもって、患者が欲しいのは、情報である。自分が患っている病気について、多くの情報を集めることが求められる。場合によっては、多くの病院で診断を受けて、それらを比較してみることも、大切かもしれない。
また、各情報には矛盾も存在するかもしれない。会う医者によって、言うことが違っている場合、どのように判断すればいいか。
一つの方法が、「エリートによる熟議」だ。これは、自分が医者と話さない。そうではなく、医者同志が、対立した主張をめぐって、自分が正しいと、公開の場で、議論し合ってもらうわけである。こういったことを行ってもらうことで、どこに議論のポイントがあるのかが、広く、知られることになる。
しかし、考えてみよう。なぜ、インフォームド・コンセントが行われるのか。患者がある病気にかかったとしよう。その場合、患者が進んでいく未来は一つだろうか? いろいろな可能性がありうるのではないか。ある場合においては、まったく治療をしないというのもありうるのではないのか。それが、その人にとっては、充実した人生なら、それも、ありうるであろう。
熟議民主主義は、一つには、
愚かな議論
を、いち早く排除していく手続きとなる可能性がある。それは、つまりは、

  • 論理性

である。ある命題があったとき、この熟議に参加する、多くの人が「計算」をして、一つの答えになるなら、それは「検算」が行われている、ということと同じだと言えるだろう。そうやって、検品作業を乗り越えた理論だけが、論じるに値するものとされていくことで、「議論の品質向上」が期待される。
(熟議民主主義の目的は、「民主主義」というより、むしろ、こういった形で、参加者や視聴者に、筋の悪いデマ的議論を「共同」で、よりわけていく作業を「論理的」に行っていく場という面の方が大きいように思われる。)
民主主義は、国民の投票によって決定していくということになっている。つまり、国民がまず「理解」しないことには、なにも始まらない。むしろ、理解せず、行動するなら、それは「ポピュリズム」ということになる。

第二に、世論調査がその名にふさわしいほど、世間は「意見」と言えるほどの意見を持ってはいない。回答者は「知らない」と認めたくないため、その問題について一度も考えたことがないと答えるよりは、ほとんど適当に答えを選ぶ。

しかし、国民が興味がないなら、なにも考えないことは不可避なのではないか。つまり、民主主義は不可避的に衆愚政治になる、といった、プラトン主義、エリート主義信仰者は、今でも多くいるのではないか、と思われる。
国民が考えない、国民が「動物」であるなら、だれが考えるか。それが、エリートである。エリートが、国民にかわって、パターナリズムを行う。
しかし、それが、さまざまな「合成の誤謬」によって、うまくいかなかったのが、「原発問題」であると言えるのではないか。よって、エリート主義者にとって、原発を考えることは「欝」になる。
原発は、エリートが、国民へのパターナリズムによって、推進してきた政策である。
ということは、論理的にエリート主義者は、原発を否定できない。原発を否定することが、エリート主義の否定と同値になるから。
大事なことは、原発が必要かどうか、ではない。原発がエリートのパターナリズムによって、原発安全神話によって、「信頼」されてきながら、その「信頼」が、
3・11
によって、成立しなくなったところにある。つまり、多くのエリート主義者は、そもそも、なにが問題になっているのかを理解できていない。
問題は、その「信頼」が「もうない」ことなのである。
だから、この問題は深刻なのである。大事なことは、原発よりもなによりも、エリートが「信用」できない、ことを国民が知ったことなわけである。
これによって、「あらゆる」エリート・パターナリズムは、今、
存続の危機
にある。これに比べたら、原発をどうするのかなど、(やるべきことが廃炉に決まっているという意味で)自明すぎるわけで、たいした問題ではない、とも言えなくもないわけだ。
日本政治のあらゆるところに、このエリート・パターナリズムの網が、はりめぐらされている。学校システムから、官僚システムから、どこもかしこも、エリート・パターナリズムが、いわば、
日本を回している。
エリート・パターナリズムとは、いわば、「知的」暴力と言うことができるのではないか。ある頭のいい、成績のいい人が、愚者の頭を殴ったとしよう。しかし、殴った側が「お前のため」に殴ったんだから、むしろ、感謝しろ、と言い始めたら、それが、エリート・パターナリズムなわけである。「やってやった」。まさに、これは国家の構造だと言えるだろう。国家は、国民から、税金を収奪することによって、福祉を提供する。

  • 強奪されてるのに感謝しろ、だって?

以前も紹介したことがあるが、ある医者は、インフォームド・コンセントに否定的な発言をしている。つまり、それは医者の「逃げ」だ、と。

ああ、それは今の若い医師のやり方と同じです。末期のがん患者さんに「あなたの五年生存率は五%です。治療の選択肢としては、これとこれがあります。どうするか、あなたが選んでください」という。私も若い頃はそうでした。でも、患者さんとの関係を考えると、これは非常に冷たいことだと思うようになった。
私は若い頃、「告知をしよう」という運動をしていました。昔は告知をしていなかったので、放射線治療は本当に大変だったのですよ。肺がんなら「肺にカビが生えていますから、光を当てて乾かしましょう」というようなウソをつかなければならない。告知をしないことの一番の問題は、患者に選択肢がなく、選べないということです。選ぶためには情報が要る。だから告知をして情報を提供し、患者さん自身に決めてもらうべきだ、と考えていました。ただ、今は逆に、言い過ぎの面が出てきている。責任の所在を全部、相手に渡してしまう。辛さを全部、患者さんに押し付けることになる。もちろん、昔のパターナリズムは非常に問題ですが、情報を提供して自分で選べ、と患者に言うアメリカ式は、日本人には厳しいかも、と今は感じています。
(中川恵一「「原発本」はどう読まれたか」)

これは、一種の「武断主義」と言えるのかもしれない。エリートはエリートの誇りをもって、「あえて」選ぶわけである。逃げも隠れもせず。しかし、そのインプリケーションは、どのように聞けばいいのか。例えば、放射線医療によって、患者は膨大な放射線を浴びることになる。その治療を受けるべきなのかどうかは、一回のレントゲン撮影を患者は「やってもいい」と思えるのかどうか、から始まり、大きな判断を必要とする。
なぜ、患者はインフォームド・コンセントを求めるのか? それが、参加型民主主義の理由でもあるのだろう。自分が受けることになる結果を、だれかの匙加減に任せることを許せないと思うから、であろう。つまり、自分が受けいれることになる結果は、自分で選びたいわけだ。
しかし、こういった態度からは、上記で指唆したように「衆愚」は避けられなかったのではないのか。もし、一つだけ言えるとするなら、

  • 間違えたっていいじゃないか。

愚者が間違うことは、避けられない。つまり、ハイエク的な「自生的秩序」が主張することは、そういった愚者の愚行が、たとえ、頻発しようとも、
局所的秩序が継続する
社会を目指すべき、ということであって、つまりは、たとえ原発が何度も深刻な事故を起こしても、社会がサステナブルなら、原発には、居場所があると言えるが、3・11での福島県の深刻な現状を見ても、原発事故は、そう何回も起きてもらっては困る(そのたびに、県が丸ごと一個、今の福島のようになっていく)、こういった熟議民主主義とも相性が悪そうだ...。

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義