キャス・サンスティーン「共和主義の復活を越えて」

選挙を前にして、日本の政党の数がインフレーションを起こしている今の姿には、なんとも言えない不思議な光景のように思っている人もいるのかもしれない。
小選挙区制によって、二大政党の時代に突入したと言われていて、民主党によって、政権交代までが実現した後、なぜ、ここまでの政党のインフレが起きているのだろうか。
私は政治評論家ではないので、それについての「なぜ」に答えたいとも思わないが、一つのその特徴が、各党の名前であることは、考察に値する。
それら「名前」が、すでに、名前の体裁をなしていないことは、ことに指摘されているところで、まさに、「キラキラネーム」。というか、もはや、
中二病
と言っても過言ではないだろう(真幻魔大戦なんて、もう読んだことがある人すら、ほとんどいないだろうが)。それぞれが自分の好きな言葉を、党名として、友達小集団を「つるみ」、どこまでも分裂していく。
おそらく、こういった傾向を強化しているものに、脱原発があることは間違いない。つい最近まで、全国でさかんに見られた、脱原発デモは、国会周辺においてこそ、熾烈を極めた。これほどの規模のデモが、しかも長期に渡って続いたのは、日本の歴史においても、始めてであっただろう。
3・11での東北での、多くの死者を受けて、あれだけの国内の反原発デモの熱気の後に、何を日本の政治が行うのかが問われることになる、今回の選挙では、各立候補者には、その「民意」を、どれだけ、本気(マジ)で受けとめているかで、各グループのグラディエーションが生まれる。
しかし、こういったものを可能にしているものは、なんだろう?
日本の現在の衆議院選挙は、まったく、出自も意味も違う
二つ
の「投票」によって構成されていることを、まさに、投票所に行ったとき、実感させられる。

驚くべきこと、というのだろうか、衆議院選挙において、実際に、この「二つ」の選挙を行うわけである。これは、ある意味で、

  • 分裂症的

に思われる。というのは、有権者は、この、まったく「独立」した二つの投票において、

  • 矛盾

した組み合わせを「選ぶ」自由が与えられているからである。本来、選挙とは、なんらかの「意思」を表明するものと思われている。ところが、その二つが「完全なる矛盾」であっても、なんの制度的制約もないわけである。
現在、政治メディアをにぎわしている、合従連衡は、言わば、小選挙区制を意識したものであることが分かるであろう。小選挙区制は、一者総取り方式であるから、負けたら意味がない。全てが、死に票になる。そう考えるなら、強力な相手と渡り合うには、対立軸は、少なくするしか、道は開けない。
ところが、である。
他方における、比例代表制は、ある意味、その「反対」とも言えるわけである。

近年、比例代表制・集団代表制のシステムにおいて、利益の役割の再評価が進んでる。黒人、女性、障害者、ゲイやレズビアン、その他不利な状況にいる集団は、通常の選挙過程でめぼしい成果を収めることはほとんどなかった。とりわけ特定の選挙区で黒人が誰かを選出することを妨げてきた人種的投票妨害(racial block voting)の問題がある。この問題----マイノリティ投票の希釈として描かれる場合もある----は、代表者中に占める黒人その他の問題を論じることは有益だろう。というのも比例代表制は、多元主義の根拠や共和主義の根拠にもとづいて正当化されるかもしれないし、それが正当化される見込みとリスクを示しているからである。

掲題の著者のサンスティーンといえば、近年では、インターネット上における、カスケード現象を考察した人として、私たちは人口に膾炙している。つまり、サンスティーンは、熟議には、なんらの「危険」性があることを指唆しようとしている、と考えられる。
ところが、この、1988年の論文では、熟議民主主義を全面的に擁護しているようにみえる。というか、この「熟議」が、さまざまな「功利主義」的な選好を「所与の前提」とする政治思想を批判するために、使われている、というふうに読める。
つまり、この論文の地点から、現在に向かって、サンスティーンの考察のポイントが移っているようにも思えるかもしれない。
しかし、上記の引用もそうなのだが、そう簡単に考えるべきなのではないんじゃないのか、という印象を受ける。
上記の引用の最後で言及しているように、比例代表制は、多元主義を招来し、その正統性の根拠となっている面があると主張する一方で、むしろ、
共和主義
においてで「さえ」それを肯定しないわけにはいかないポイントがあるのだ、と主張する。

しかしながら皮肉なことに、比例代表制を擁護する試みは、共和主義の根拠にもとづいて正当化されたときいっそう説得力を増す。ここでの基本的な議論は、多様な集団、とくに不利な状況にいる集団の熟議過程へのアクセス可能性を保障する仕組みが創設れるならば、熟議過程は崩壊するどころか、むしろ改善される、というものである。集団代表制は、まさにこの効果をもたらすことによって、それがなければ排除されていた多様な見解が代表過程において継続的に表明されることを保障するであろう。この点で、集団代表制は、マディソン的熟議が実世界で具現できないことを補う次善の策のようなものとなる。そしてアクセスの目的は、おもに各集団に「議席の分け前」を保障することではなく----それはまったく重要でないわけではないが----、むしろ全関係者の一部だけにしか共有されない利益の間違った出現によって熟議過程が歪められないようにしておくことである。比例代表制は、このように具体化される際には、政治的結果が、影響を受ける人々全員の視点に関する理解を組み入れる可能性を高めるように設計される。こうした理由から、比例代表制は、統治過程において意見の不一致と多様な視点が創造的な機能を果たすことを承認する点で、抑制と均衡や連邦制などの諸制度と機能的に類似しているかもしれない。この意味で、比例代表制を擁護する近年の提案と、元来の憲法体制が含んでいた共和主義の諸要素との間には連続性があるのである。
市民のなかから主要な特定集団を形式的・機能的に排除することは、しばしば共和主義の思想体系の構成要素であった。現代の政治には、そのいくつかの例がみられる。こうした理由から、比例代表制や集団代表制は、ある文脈では非常に望ましい改革であろう。多分意外であろうが、比例代表制の支持者が否定しようと躍起になっていう共和主義的前提の観点からみても、それはとりわけ望ましいのである。まぎれもなく非マディソン的諸制度が、熟議デモクラシーのマディソン的目標に達するには不可欠な場合もあるのである。

サンスティーンがカスケード現象を強調する場合においても、こういったメリットとデメリットの相対化を意識した上で、では、そのデメリットが極大化される「条件」を検討しているように思える。熟議が否定されるべきことであることの論証をしているのではなく、

  • どういった条件においては

否定されるのか、そういった細部の条件の考察をしているということであって、彼にしてみれば、単純な肯定も否定もない、ということなのであろう。いや、むしろ、「熟議」の肯定すべき側面については、掲題の論文のように、何年も前に徹底して考察していた後に、
相対的
に、カスケード現象が考察の対象として、入ってきた、と考えるべきなのだろう。
多党であることが、選挙の後も含めて、どこまで維持されていくのかは、別の問題として、多くの人は、そもそも、

  • 政党

というものが「これこれこういったものなのだ」というイメージをもちすぎではないのか、と思う。つまり、「政党であれば、こうなっていなければならない」といったドグマを強く持ちすぎではないか。
「党」といっても、ただの、人の集まりである。この場合、次の二つによって、構成される、と言えるだろう。

  • 人の結びつきの強度
  • マニフェストなどの政策理念の共有による強度

そう考えたとき、別に、たった二人しかいなくても、「党」になれる。また、ある「党」の「中」に、別の「党」が、存在しうるであろう(党内グループ的党)。また、オリーブの木のように、ゆるやかに党それぞれが結びついている「だけ」であっても、それを「党」と呼ぶことは可能であろう(党連合的党)。
つまり、各立候補者が、自らをどういった「連帯」的存在として、「固有名」化させるのかが、政党名であるとするなら、その
単独性
を指示するものとして、名称が「中二病」的になることは、自然であるだけでなく、必須なようにさえ思えてくるわけだ。つまり、日本の政治の、さらなる、発展(それは、近年のSNSが確実に後押ししていると思われるが)には、さらなる、キラキラネームが求められている、って、またまた、極論になってしまったようだ...。

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

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