川田宇一郎『女の子を殺さないために』

日本文学なるものが、明治の夏目漱石あたりから、書かれるようになって、今に至るわけだが、正直、そういったものの需要がよくわからなくなっている側面がある。こういったものを、読んでいる人も書いている人も少なくなっている中で、こういった
日本文学
なるものの枠組み(文脈)で語ることの意味が、まったく、共有されないどころか、本当にそんなものがオーソライズされた形であったのか、といった大衆の受け止め方なのではないか。
しかし、他方において、いわゆる、「村上春樹」現象のようなものは、どうも、いつまでも続いているようで、その勢いには衰えを知らない感じすらある(まるで、J-POPの大御所のアルバムが、出せば売れるのと変わらないかのように)。
しかし、そもそも、村上春樹の小説が、どういったものなのかについて、十分なコンセンサスがあった上での反応なのかは、違うようにも思える。そういった意味で、掲題の本は、それに一つの答を与えるものとなっていると言えるだろう。

<鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いこと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。(『風の歌を聴け』)>
庄司薫の小説がどういうものか、この文章に集約されてます。たしかに赤黒白青四部作は、不自然な力学に支配されていて、セックスシーンがなく、一人も女の子は死にません。逆に『ノルウェイの森』ではセックスがあり、女の子が死にます。現実には、セックスと女の子の死に相関関係は何もないですが(中高年男性の死因に腹上死が結構多いくらい)、小説というのは、物語と現実の二重論理によってつくられています。

以前、古井由吉の「杏子」を読んだとき、「ノルウェイの森」という作品に違和感を覚えた記憶がある。というのは、読めばわかるが、その記述が、丸パクリなんじゃないのか、というくらいに、形式が似ていたからである。
そのあたりから、そもそも、村上春樹という人は、

  • なにがしたいのか?

が疑問に思うようになった。ということは、全ての問題は、彼の処女作において示されている、と考えられる。掲題の著者が分析するように、『風の歌を聴け』が、徹底した、作家の庄司薫「のこと」を書いてあることを知っていくときに。

庄司薫は「薫くん」よりたしかに一三歳年上。なんだ一回りも年上が書いていたのか(なんてずるいんだ、許せない!)と虚構性が先に目に付くだけで、実際に庄司薫は、日比谷出身、一年浪人して東大入学してます(しかもダンス習ったり優雅な浪人生活を送ったとされる)。

私たちにとって、忘れてはならないことは、ああいった赤黒白青四部作のようなものを書いた庄司薫にしても、こうやって東大に入るような「インテリ」なわけですね。こういった人たちが、素朴な田舎のジジババが、物語を語るように、物語を作るわけがないわけです。
つまり、これは小説
じゃない
と考えるべきなのではないのか。

庄司薫人形使い)が「薫くん」(人形)を演じようとしたのではなく、「薫くん」(人形)が庄司薫人形使い)になろうとしていた...。
純化すれば、小説の中に入っていった作者は物語世界に責任をとり、反対に小説の中からでてきた作者は、物語で無責任な行動をする登場人物の行動をそのままなぞらう。
「作中人物的作家」太宰治は、デビュー作『魚服記』からして滝壷に身を滑らせて落ちて死ぬ(魚になる)女の子の幻想小説ですが、田部シメ子と七里ヶ浜で入水自殺し、自分だけ助かり、またその体験をもとにした『人間失格』等で流行作家になり、その間にも内縁の妻とカルモチン自殺を企てたり、最後は山崎冨栄と玉川上水に身を投げて死にます。

わざわざ、高学歴の大学に入ったような人たちが、素朴な「物語」を今さら書くでしょうか? まあ、書いてもいいですけど、そんな「恥かしい」ものを、わざわざ世間に、さらすでしょうか?
つまり、ここにはある反転がある。一見すると、たしかに、これは小説だということなのだが、その細部は、『風の歌を聴け』がそうであるように、徹底した、庄司薫
パロディ
になっている。つまり、庄司薫に対しての
批評
を「小説」という形式によって、実現している。というかそれはむしろ、庄司薫自身が、そうだった、とも言えるわけである。
上記の引用にもあるように、赤黒白青四部作における、セックスをやらない(逃げる)存在が、サリンジャーの『ライ麦畑』のホールデン少年の「パロディ」でありながら、微妙にその行動は違っている(その差異に「批評」性がある)わけであり、そもそも、この「薫」という名前が、川端康成の『伊豆の踊り子』の「薫」から、来ているのではないか、と掲題の著者は類推する(このように考えれば、エヴァンゲリオンのカオルくんが、庄司薫から来ていると考えることは「自然」なのだろう)。
上記の引用にあるように、確かに、作家の庄司薫と、彼の作品の『赤頭巾ちゃん』の主人公の「薫くん」は、年齢も違うし、「同じ」ではない、と読者には思われる。しかし、その「薫くん」によって、ある「批評」性が示されるとき、そもそも、こういった「区別」が、あまり意味がなく思われてくる。
「薫くん」を使って、ある批評が示されるのなら、作者である庄司薫は、この作品に「よって」、ある批評を実践するであろう。つまり、作品は、他の作品の「パロディ」。つまり、ほとんど丸コピペをしておきながら、ある側面における、明確な違いを入れ込むことによって、コピー先の
批評
を行うわけである。つまり、物語は、こういった「作中人物的作家」という形式によって、一般に言われる「批評」以上に批評的側面を帯びていくことになる。
つまり、むしろ「逆」なのだ。むしろ、批評作品の方が、その「私小説」的な素朴な読解の「開陳」であることによって、小説的な側面をもつ。
つまり、私たちは、ある勘違いをしている。村上春樹の作品は、その処女作から、これを小説と読んではいけなかった。小説という形式を借りて、
批評
をやっていた。ところが、その批評家たち自身が、自分が批評をしている村上春樹の小説を、あくまでも、小説、つまり、物語を書こうとしているのだと、その範囲に抑え込もうとしてきた。そのことによって、批評家という特権的な立場を守れたから。
村上春樹の作品は、こういった作品のパロディ(=コピペ)にあふれている。
村上春樹の初期の作品は、女性がどんどん死ぬ。男や主人公の「僕」は死なないけど、「僕」が知り合う女性は、どんどん死ぬ。この死と、描かれるセッケスが、上記の引用にあるように、ちょうど、庄司薫の小説における、
セックスと女の子の死
の描かれ方の「反対」になっていることが分かるように、ここには、ある種の「批評」性があるわけです。
では、なぜ、『ライ麦畑』や、その批評的作品である『赤頭巾ちゃん』では、こういった傾向になっているのでしょうか。

軽小説の世界では「ラブコメ」という言葉でまとめられる、セックスをしないでいつまでも続く女の子と男の子の関係(チェッカーのループ状態)は「まさかという思いと、やっぱり」という偶然の事故のパターン化により維持されます。そして、サリンジャーが童貞ホールデン少年を必要としたのも、「薫くん」の『椿姫』と同じく、女の子が死んでしまう小説を問題としていたから、とぼくは考えます。

こういった傾向は、現在のラノベでも、ありふれた風景となっている。というか、例えば、「ノルウェイの森」における「おさななじみ」の描かれ方や、直子が「僕」の前に歩くことに象徴される「女の子に翻弄される主人公」のような描かれ方から、多くの部分において、近年のエンターテイメントに影響を与えているようにも思える。
他方において、村上春樹の初期の作品にあふれているような、「女の子を殺す」小説は、明治以降の日本文学にあふれている。つまり、男性作家が身の回りの女性(ばかり)を、
そういった境遇に次々と襲われる
存在でありながら、ほとんど「風景」のように流れていく、ということが、
なにか意味のあることのように
「計算」して描かれる、といったことが、ずっと続けられてきた、ということなわけです(「計算」だから「批評」なわけです)。
国境の南、太陽の西」だったかで、主人公がバーの店をどこに作るかで、その場合には、周到なマーケティングが必要だというようなことを、開陳する場面があったと思うが、つまりこれは、村上春樹が小説を書くときも、同じようにやっている、と正直に言っているわけである。
緻密に計算し、各登場人物には、なんらかの「批評」的役割を与えられる。「ノルウェイの森」にしても、各登場人物には、それぞれに、どこかで聞いたことがあるような
役割
が与えられて、まるで、その役割をこなすロボットのように、作者の「意図」通りに、計算された描かれ方をする。
もちろん、だからといって、それがいいとか悪いとか言いたいわけではない。言いたいわけではないが、これが「小説」だとか「物語」だとか言われると、なんとなくその、
衒学的
な押しつけがましさに、不快になる。むしろ、こういったものは、正直に、
批評
なんだと自称すべきなんじゃないのか、という感覚になる。
日本文学の「不幸」は、川端康成ノーベル賞をとったことある、と言えるのかもしれない。それは、川端の作品がいい悪いではなく、川端の作品の本質を理解されることなく、川端にノーベル賞が授与されたから、と。

一方の川端は「爽やか」がまったく似つわしくありません。たしかに『伊豆の踊子』は「川端康成には珍しく涙の爽やかな作品」と竹西寛子が解説していますが、逆に言えば思わず「珍しく」といってしまうほど例外的印象のようです。森茉莉は、次のように語ります。
<ノオベル賞の選者たちが、彼を、日本の月雪花をうたう作家として紹介しているのが、マリアには腑に落ちない。前回の批評の中にも書いたように、河端保成[川端康成]は小説の中に、醜いものをかまわず出している、というよりむしろ、そういうものを、綺麗なものの中に混ぜこむことによって、単なる美ではない、異様な美を造り出していて、そうしてその美と醜との絡みあいの中に一種の奇怪なものを出している。>(森茉莉『マリアの気紛れ書き』)

これ以来、日本文学は、川端の「呪い」にとりつかれている、と言えるのかもしれない。
村上春樹の小説が、こういった、過去の文学作品に対する「批評」的な
いじらしさ(=どうでもいいような、こだわり)
を、いつまでも描き続けているのに対して、村上龍が、自ら、小説の役割を
情報
とわりきることで、経済エッセイを書き続けることになったり、その小説が常に、「なにかしらのニュースを提供することを目的とした」ような
情報小説
のようになっていったのと比較したとき、興味深い違いが意味されているのかもしれない。
ある物語があるとき、そこに、作者の「隠れた暗号」なるものが、潜りこまされている作品を読みたいと思うだろうか? そんな、たんなる作者の
ロボット
がしゃべるのを聞いて、一体、なんだというのか。
たとえば、その作者が今までに出会った、「変わった」人を、そのまま、作品として描いたとき(指示したとき)、読者は、そういった「変わった」人と、出会ったことがなかったわけですから、一つの、
情報
となると考えられるでしょう。
逆に、一つの作品を「過去の名作」の、いろいろな場面をパッチワークのように組み合わせて、どこかで読んだことがあるような話を、まとめたようなものは、過去作品の

  • 啓蒙(=お勉強)

とはなるけど、この作品そのものの価値はなんなのかな、とはならないだろうか(あと読むべきところといえば、作者の個性とか、そういう話になるんですかね orz)。
(私は、村上春樹ノーベル賞をとろうがどうでもいいが、もしとるのであれば、ちゃんと、選考委員に「理解」されて、とってもらいたい、というのが素朴な感想だろうか...)。

女の子を殺さないために 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」

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