やなぎなぎ「ユキトキ」

アニメ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の原作は、以前このブログで考えた、ラノベ僕は友達が少ない」の

  • アンサー小説

のようになっているようにも感じる(つまり「俺がいる」は、そのモチーフが非常に似ていて、なんらかの「はがない」に対しての、著者なりの「応答」になっている、と個々の箇所を解釈できるのではないか、という意味である)。
主人公の、比企谷八幡(ひきがやはちまん)は、高校生でありながら、まず、クラスの中で会話をすることがない。つまり、いわゆる「友達がいない」、「ぼっち」というわけである。
彼が、国語の時間に提出したどうしようもないレポートを見て、国語教師であり生活指導の平塚静(ひらつかしずか)は、彼をある部活に入部させようとする。
それが、奉仕部であったが、そこの唯一の部員であり部長が、雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)という、この作品のヒロインである。

人間、嫌なことほどよく覚えているものだ。今でも夜中に思い出すたび、蒲団をかぶって「うわああぁぁぁ!」ってしたくなる。
バッドトリップしていると、雪ノ下は高らかに宣言した。
「持つ者が持たざる者に慈悲の心をもってこれに与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、モテない男子には女子との会話を。困っている人に救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動よ」
いつの間にやら雪ノ下は立ち上がり、自然、視線は俺を見下ろす形になっていた。
「ようこそ、奉仕部へ。歓迎するわ」
とても歓迎されているようには聞こえないことを面と向かって言われて、俺はちょっと涙目になった。
思いっきりひこまされたところへ追い討ちがかかる。
「平塚先生曰く、優れた人間は憐れな者を救う義務がある、のだそうよ。頼まれた以上、責任は果たすわ。あなたの問題を矯正してあげる。感謝なさい」
ノブレス・オブリージュというやつが言いたいのかな。日本語だと、貴族の務めとかそんな感じだ。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

奉仕部とはなにか。表向きは、困っている生徒のサポートを行うボランティア部ということらしいが、平塚先生の意図は、どちらかというと、クラスの問題児を一カ所に集めておいて「管理しやすく」している方にあるようにも思われるわけである。つまり、雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)にも、ある「問題」がある。ありていに言ってしまえば、彼女も「ぼっち」だということである。
彼女は別に、八幡(はちまん)のように、クラスで相手にされていない、というわけではない。というか、美人で勉強もでき、学校で彼女のことを知らない人がいないくらいでありながら、彼女は自分にも「友達」がいない、と言う。

女子に嫌われる女子。そういうカテゴリーは確かに存在する。俺だって伊達に十年学校に通っていない。中心にいたけではないが、傍から見ているだけでもそれはわかった。否、傍から見ていたからこそわかる。
きっと雪ノ下は常に中心にいて、だからこそ逆に四方八方敵だらけだったに違いない。
そうした存在がどんな目に遭うか、そこから先は創造ができる。
「小学生のころ、六十回ほど上履きを隠されたことがあるのだけど、うち五十回は同級生の女子にやられたわ」
「あとの十回が気になるな」
「男子が隠したのが三回。教師が買い取ったのが二回。犬に隠されたのが五回よ」
「犬率たけぇよ」
それは想像を超えていた。
「驚くポイントはそこではないと思うのだけど」
「あえて聞き流したんだよ!」
「おかげで私は毎日上履きを持って帰ったし、リコーダーも持って帰るはめになったわ」
うんざりいた顔で語る雪ノ下に、俺は不覚にも同情してしまった。
別にあれだよ? 身に覚えがあるとか小学校のとき、朝の教室で誰もいない時間を見計らってリコーダーの先だけ交換した罪悪感とかからじゃないよ? ただ純粋に俺は雪ノ下を哀れに思ったのだ。ほんとほんと。ハチマン、ウソ、ツカナイ。
「大変だったんだな」
「ええ、大変よ。私、可愛いから」
そう自嘲気味に笑う雪ノ下を見ていると、今度はさほどいらっとしなかった。
「でも、それも仕方がないと思うわ。人はみな完璧ではないから。弱くて、心が醜くて、すぐに嫉妬し蹴落そうとする。不思議なことに優れた人間ほど生きづらいのよ、この世界は。そんなのおかしいじゃない。だから変えるのよ、人ごと、この世界を」
雪ノ下の目は明らかに本気の目で、ドライアイスみたいに冷たさのあまり火傷しそうだ。
「努力の方向性があさってに飛びすぎだろ......」
「そうかしら。それでも、あなたのようにぐだぐだ乾いて果てるより随分マシだと思うけれど。あなたの......そうやって弱さを肯定してしまう部分、嫌いだわ」
そう言って、雪ノ下はふいっと窓の外に目をやった。
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

奉仕部は、雪ノ下の視点からすれば、建前は、一つ前で引用したような「ボランティア」的な、優等生には、

  • 必須の属性

として求められているものであることが分かるであろう(「だから」優等生はボランティアをやる orz)。しかし、本音は、上記の引用にあるように、彼女による「世界変革」運動である。そういうとおおげさな言い方だが、ようするに、子供の頃からの「いじめ」に対する「私怨」を「肯定的」に解決しようと口に出してみたが、本音は、「リア充死ね」的な感情だと言えるだろう。
この「俺がいる」と「はがない」の違いはなんだろう? 一つはっきりしていることは、「俺がいる」は「教師の指導」から活動が始まっていることであろう。他方、「はがない」は、二人の「幼馴染」のヒロインとの関係として描かれたが、「俺がいる」では、そういった幼馴染「だから」友達になる、といったような「因果関係」に逃げられない構造になっていることであろう。
「はがない」は、ある意味、各キャラクターの「性格」を、最初の段階で決定したためか、この学校に、他に大勢いるはずの学生たちとの関係を、描けなくなってしまっている。そもそも友達がいない連中の「ざんねん」さを作品のフレームにしてしまったため、彼らとの、その後の「弁証法」が描かれない。実際、作品のほとんどは、部室に籠り、テレビゲームをやっている姿しか描かれない。
他方、「俺がいる」の方では、クラスの「ヤンキーっぽい」連中との関係も含めて、さまざまなクラス内の人間関係と、いきがかり上、ぶつかりあいながら、積極的に関わっていく方向で描かれる。もちろん、そうなったとしても、彼らとの関係が「友達」に変わると単純に言えないわけだが、少しずつ、なんらかの「お互いの反応」に巡り遭うことで、そんなに仲がいいわけではないけど、お互いを認め合っていく関係が描かれるようになっている。
雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)にしてもそうだ。
彼女の冷えきった感情は、掲題のアニメのOP曲では、彼女の名前の「雪」つまり「冬」の冷たさと重ね合わされている。そして、「アザレア」とは、たまに、冬にも咲く花として、「春」、つまり、彼女のそのかたくなな心が溶けていく姿を示唆する言葉になっている、ということなのだろう。

雲からこぼれる冷たい雨
目を晴らすのは遠い春風だけ
アザレアを咲かせて
暖かい庭まで
連れ出して 連れ出して
なんて ね
幸せだけ描いたお伽話なんてない
わかってる わかってる
それでも ね
そこへ行きたいの

まだ、冬の深い頃、アザレアが咲くことは、めずらしいが咲かないわけではない。そのことが、まるで、春の訪れを待てずに、今すぐ、ここに来てほしい、と願っているようにも思われる。つまり、「幸せだけ描いたお伽話」に行けないことは、わかっていることだとしても、だとしても、そこに

  • 行きたい

という強い願望が示唆されている形になる。
しかし、である。
少しずつ、時間がたち、やがては春が来るのだ。そして、春が訪れれば「アザレア」も咲く...。

わからずに待っていたあの日はもう
雪解けと一緒に春にかわっていくよ
透明な水になって
そうして ね
アザレアを咲かすよ
長い冬の後に
何度でも 何度でも
陽の満ちるこの部屋の中で

「はがない」に比べて、「俺がいる」は、どこか「教育」的な作品だ。それは、彼らが「ざんねん」であることを認めながらも、そういった回りからの扱いに、彼らなりに「自己主張」をしていこうとする姿を描いているからであろう。そういう意味で、週刊少年ジャンプ的だとも言える。
では、本当に「アザレア」は咲いたのだろうか? 雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)の感情のこわばりは、溶けていって、解決していってるのだろうか?
作品は、そのことに二つの形で答える。一つは、この作品が始まった時点で答えられた、ということ。つまり、こういった奉仕部に、多くの生徒が関わり、彼女と関係していくことそのものが、答えだったという肯定的なもの。もう一つは、そうはいっても彼らが「ざんねん」系としてのキャラを生きているという意味で、そう簡単に根本解決なんてできるわけがない(世の中から「いじめ」がなくならない)という意味で、否定的なもの。
いずれにしろ、彼らが「前に進んでいる」ということが、この作品が続いているということなのであろうから、どっちにしろ、青春ラブコメは「肯定的」であり、否定的ではありえない、ということなのでしょうけどね...。