市田良彦『革命論』

さて、掲題の著者は、何が言いたいのか。それは「序章」に集約されている。しかし、その議論は、どこかアクロバティックであり、おもしろい論点を提出していながらも、私の視点からは、どこか、混乱しているようにも思えたわけであるが...。

政治哲学が流行している。テロや金融危機や経済格差について、さらには原子力災害について、黴に生えた机上の空論でるはずだった哲学がまだなにかを語りうるということを、この政治哲学は実証している。どんな現実的な問題についても踏み込んで語ろうとする真摯な姿勢と能力によって、この哲学は人々に受け入れられている。それが扱うのは一言で言って、諸現象にはらまれる倫理問題----価値としての「自由」や「正義」----でるから、流行の背景には、いたるところで倫理的な判断を下そうとする現代人の欲求があるのだろう。そしてこの政治哲学に対する、したがって現代人の倫理志向に対する、深い違和感が本書の底流をなしている。政治哲学とはそんなものだったのか、倫理とはこの政治哲学が問題にしているような問題だったのか。
倫理(英語の ethics)という語のもとになったギリシア語のエートス ethos は、人の「住みか」とそこでの彼や彼女の「あり方」の両方を指していた。つまりエートスには、人が暮らす家や土地や政治的共同体がどのようであるかという事実問題と、そこで彼/彼女がいかに振舞うべきかという規範問題の区別がない。たとえば、「中庸」により自らを「習慣」づけよと説くアリストテレス倫理学になっては、「習慣」は人が暮らす客体的環境であり、かつ主体的にコントロールすべき行為である。この倫理には、認識の対象である「事実」と道徳的価値に由来する「当為」、という近代的な区別がない。今日流行の政治哲学=倫理学は、ギリシャ的倫理におけるこの非区別を一面ではたしかに受け継いでいる。今日の倫理は、たった一つでありかついたるところにある「住みか」で問題にされるのだ。生殖技術や臓器移植から国際紛争にいたるまで、家族間のトラブルから地域社会や国家のあり方まで、さらに麻薬から自然環境まで、「住みか」がなにであってもどこであっても、今日の倫理学はそこでの人の普遍的「あり方」を問題にして介入しようとする。

これではしかし、道徳と同じではないのだろうか。適用範囲の普遍性にかんするかぎり、今日の倫理とキリスト教や近代の道徳の間に、大きな差異があるようには思えない。いずれにあっても、それらが説く「あり方」は、「人を殺してはならない」のように、時代や環境、まさに「住みか」に左右されてはならない命令のかたちを取る。ただ道徳の普遍性は、地上の「住みか」でなく天井に由来する。神から直接下さっるか、動物以下の存在(必然が支配する世界)に対し天井に位置する人間の「自由」にもとづいて、道徳的命令は下される。道徳の存立根拠に事実の世界は必要なく、事実の認識に道徳は必要ない。デカルトはそのことを、悪人でも真理を認識することができると述べた。そして道徳はあくまでも、「自由」な人間を善導教化しようとする。これに対し、今日の倫理は、様々な仕方で限定されてあるはずの「住みか」をどんどん無差別に「住みか」と見なすこと、「住みか」なるもの、「住みか」として等質なものの範囲をどんどん拡大していくことによって、その普遍性を主張する。生命倫理から環境倫理へ、さらに企業や大学の「コンプライアンス」へ、どこまでも適用範囲を拡大していける能力に、今日的な倫理は学としての普遍性を賭ける。つまり今日の倫理は地上を等質化することで、天上に由来する道徳と肩を並べようとするのである。人間よりも先に地上の善導教化を、それは果たそうとする。

掲題の著者がまず問題にするのは、現在の政治哲学が、実質において「倫理」を問題にしていながら、それが、

  • 道徳

と同値なものとして、読み替えられていることへの「違和感」である。その場合に大事なことは、ここで倫理が道徳と同値となってしまう条件として、近年における、「グローバル化」、「フラット化」を含意していることに注意がいる。
多くの人が使っている「倫理」という言葉は、実際のところは「道徳」のことである。それは、倫理を「非道徳」的な対象を、一見「肯定」しているかのように使っていても(上記の引用における、「悪人でも真理を認識できる」という意味で)、どっちにしろ、その倫理が「道徳」と、「グローバル化」「フラット化」として「通底」しているという意味で、変わらない、というわけである。
もちろん、私も、こういう意味でなら、著者に同意する。しかし、著者の論点は、この後、微妙にずれていく。

政治哲学を今日ほとんど一人で代表している観さえあるマイケル・サンデルは、そこに潜む難点をはっきり自覚している。ホロコーストの生存者が多く住むコミュニティのなかを行進するネオナチと、南部の分離主義者たちのコミュニティのなかを行進するマーチン・ルーサー・キングのそれぞれに、行進を禁止する倫理的根拠はあるのかないのか。「二つの事例を識別しる原理的な仕方があるのだろうか。言論の内容にかんして中立的であることを旨とするリベラルにとっても、また、問題となっているコミュニティにおける優勢な価値にしたがって権利を定義するコミュニタリアンにとっても、答えは否のはずである」(『リベラリズムと正義の限界』第二版への序)。ネオナチが信仰する共同性とキング牧師が目指すそれとの間で、政治哲学は選ぶことができない。自らより上位の価値、したがってもはや学問的に論証するのではなく単に信じることしかできない次元のザ・正義をもち込むのでないかぎり、政治哲学=倫理学には、単一人種内の平等と人種間の平等の間に優劣がつけられない。優劣をつけないことが倫理=道徳的に正しい。しかしそんな不可能を確認して、なんの益があるのだろうか。難しい問題だと学者に指摘してもらって得をするのは、この場合では明らかにネオナチのほうではないのだろうか。「住みか」の無差異「住みか」の間の歴史的に成立した関係を、すべて文字どおり無視させてくれる。日本も韓国も中国も同じように「住みか」であるから、「嫌韓」も「反日」も「反中」も倫理の論理のうえでは同じ穴の貉にすぎず、つまりどれかだけに退場を命じるわけにはいかない。考えうるかぎり最大の「住みか」における正しい「あり方」を求める「無限の正義」の前には、キリスト教原理主義イスラム原理主義は等価なものに止まり続けるほかない。

私は、ここで著者が述べていることは、この本の論旨をコントロールするための、一つのミスリードではないかと考える。というのは、上記の引用箇所でとりあげられている、マイケル・サンデルが述べていることは、もう少し微妙な議論であり、私には、むしろ、その反対のことが述べているように思われるからである。
なぜ私が、上記の引用箇所において、掲題の著者は、ある種のミスリードをさせようとしていると言っているかというと、上記の著者の引用箇所は、ようするに、マイケル・サンデルが、「リベラリスト」の主張の箇所をまとめている所なわけである(たしかに、「コミュニタリアン」に対する同一性を指摘してはいるが、上記の本の訳者も指摘しているように、たとえそうであっても、サンデルを一種の「コミュリタリアン」として考えることには、妥当性がある、ということである)。ところが、掲題の著者は、なぜか、上記が「リベラリスト=正義主義者」の主張であるということを、断らずに、それが、まるで、マイケル・サンデルの主張であるかのように、語っているから、私はミスリードじゃないのか、と言っているわけである。

アリストテレスの政治理論がその例である。彼によれば、人々の権利、あるいは、「理想的な国制の本性」を探究する前に、「最も望ましい生の仕方の本性、まず決定することがわれわれには必要である。それが難儀なままである限り、理想的な国制の本性も難儀なままであるあずである」。

リベラリズムと正義の限界

リベラリズムと正義の限界

顕著な例は、1965年の訴訟における、フランク・ジョンソン判事の意見であり、マーティン・ルーサー・キングがセルマからモンゴメリーまで、歴史的な行進をすることを許すものであった。アラバマ州知事、ジョージ・ウォーレスは、その行進を妨害しようとした。ジョンソン判事は、州がその公道の使用を規制する権利があり、また公道に沿った大行進が「憲法上許される上限に」達していることを認めていた。しかしながら、彼は、その行進の大義にある正義を根拠として、それを許可することを州に命じた。「公道に沿って平和的に集会し、示威行為をし、行進する権利の程度は、抗議され、請願が向けられた誤りに対する示威行為の権利の程度は、それに従って決定されるべきである」と彼は述べている。
ジョンソン判事の決定は、内容に中立的ではなかった。それは、スコーキーでのナチに役立つものではないであろう。しかし、それは、権利へのリベラルなアプローチと、権利が推進させる目的への実質的な道徳判断に権利を基づかせるアプローチとの相違を適切に例証するものである。
リベラリズムと正義の限界

(つまり、ここの部分をどう読むのか、ということなんですけどね。)
ここでサンデルが好意的に紹介している考えを私は、あえて、「コミュニタリズム」と呼ぶ必要もない、と思っている。
というのは、私は、こういった、どこか保守主義的な態度こそ、ジョン・ロック流の「自然権」であり、社会契約であると思うからなのだが(サンデルの正義論がアメリカの大学で流行したことと、アメリカの創成がロックの哲学と深く関わっていることは、無関係ではないだろう)。
例えば、なぜ掲題の著者は「革命」にこだわるのか。それは、上記の、「政治哲学=倫理=道徳」が、本来の意味での「倫理」ではないと考えるからで、その本来の意味での「倫理」を回復するためには、その社会契約に対する外部的与件である「革命」に注目するしかない、と考えたからであろう。
(そういう意味で、序章以降の議論は「革命論」というわけである。)
これに対して、掲題の著者は、おもしろい論点にこだわる。それは、そもそもなぜスピノザは、社会契約論を捨てたのか、という問題である。

マトロンが行ったのは、具体的には、『政治論』に認められる「欠落」を『エチカ』第三巻の「人間の間に働く情念」によって埋めるという試みである。ここでの「欠落」とはしかし、未完に終わった『政治論』の書かれざる最終部でも、テキストの途中に残されたすぐに目につく欠落部分でもなく、『神学・政治論』から『政治論』にかけてスピノザに「進化」を認めたときに生じる、あくまでも問題的な「欠落」である。『神学・政治論』に色濃く残されている国家形成をめぐるホッブス的社会契約論が、『政治論』では完全に姿を消している事実を、スピノザ社会契約論を意図的に捨てたと受け取ることから生じる問題である。

例えば、ジョン・ロックの社会契約は、ホッブスやルソーの意味で「社会契約」なのだろうか、という疑問がある。というのは、そもそも、ジョン・ロックは社会契約と言っておきながら、「革命権」を認めているわけである(つまり、掲題の著者は、こういったスピノザの姿勢に「革命権」についての示唆を読んでいる、ということである)。
そもそも、なぜロックは革命権を認めるなんていうことになってしまったのか。それは、そもそも彼自身の社会契約が、始めから、自然権以上のものでなかったために、つまり、各個人が神との「対話」の中で、「選んでいく」秩序以上のものではなかったので、そもそもの最初から、彼にとっての社会契約が、「流動的」ななにか以上のものではなかった、ということなのではないか、と思うわけである。
そのことは、例えば、日本の市町村が、つい最近まで、市町村合併を繰り返していたことにしたって、それも一つの「社会契約」と考えられるわけであろう。つまり、やりたかったら、合併すればいいし、嫌になったら、分裂すればいい。
大事なことは、そうした場合に、どうして、その市町村を、

  • 国家ではない

と言わなければならないのか、ということなのである。最近引用した、一ノ瀬さんの発言を、もう一度引用してみよう。

われわれは通常、家族を自分にとってかけがえのない人格と見なし合って生活している。しかし、そうした見なし合いのなかには、もしかしたら一瞬のうちに家族の人格性が変容してしまうかもしれない、そういうことがありうる、という暗黙の了解も織り込まれていると言うべきである。だからこそわれわれは、家族の言動や表情の変化を気遣い合い、暗黙のうちに確認し合う、法的にいっても、実感からいっても、人格性がゆらぎがちだと考えられる老人や精神疾患者や子供の場合に、こうした気遣い合いと確認し合いの契機が一層顕在化する。痴呆の症状を呈しつつある老人が眠りから覚めたとき、非行に走りつつある子供が遊びから戻ってきたとき、われわれは様子を尋ねる。それ何げない家族の触れ合いだが、そこには、人格性を確認し合うという営みが間違いなく潜在している。そしてその裏には、人格というものは変わりうる、という冷静な了解が控えているのである。ロックの議論は、こうした日常的な実感をそのまま取り込むことができるのである。

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

大事なことは、ロックにとっての「国家」とは、こういった個人の「経験」の狭い範囲で成立する「秩序」を超えていない、ということである。というより、そういったものを超えた何かがあると考えることが、形而上学であり、「理性の越権行為」だというわけである。
(先ほどの議論に戻れば、たしかに、「嫌韓」「反日」「反中」を同列に述べることは、文脈によってはありなのでしょう。しかし、そのことと、在特会が「朝鮮人を殺せ」とデモをすることを認めるのかは別の話だ、ということであろう。実際、安倍総理自身が問題視したくらいに、ですね。そして、実際、そのことを、サンデルもここで、ネオナチとの比較で考察しているんじゃないんですかね?...。)
たとえば、さらに掲題の著者は、フーコーの延長に、おもしろい論点に注目する。

けれども現実には、統治の最小化こそ反牧人革命の可能的内実であると考えるかのような傾向が、フーコーにごく近いところから出現した。コレージュ・ド・フランスにおいて彼の助手を務めたフランソワ・エヴァルドである。その大著『福祉国家』(一九八六年)は、自由主義者たちによる「社会」という観念の発見ないし発明には、統治を最小化するという問題意識に止まらない、最小化のための具体的方策が含まれていた、と歴史的に論証しようとする。保険技術である。海洋保険にはじまる保険が、生命保険、失業保険、年金等々の「社会的」なリスク回避方法に拡張されていく歴史過程を、エヴァルドは丹念に辿り(特に第二部「リスクについて」)、自由主義がすでに一種の福祉国家論であったと主張する。「大きな政府」だけが福祉国家であるわけではない、それが同書の中心テーゼである。「小さな政府」と「大きな政府」の福祉国家としての連続性を示すものとして、リスク概念は発見されている。同書はあくまで歴史書であり、こうした彼の議論も、自由主義が一つの社会管理思想であり、したがって「統治性」であったことを強く示唆するものとして読むことはできる。

戦後の冷戦体制の終了と共に、社会主義を嘲笑する議論が巷を席巻するようになる。もちろん、そのことは、スターリン体制時代のソ連の収容所国家への抵抗の意思を現していた、と考えることはできる。
しかし、他方において、そのオールタナティブとして提示される「自由主義」が、たんに「小さな政府」の欺瞞性にあるのではなく、

  • その強烈な「統治性」を目指す点においては社会主義と変わらなかった

というわけである。
(このことは、実際に、日本の有識者が、さかんに自由主義に言及しながら、なぜか、原発の国家管理を疑っていない姿勢を見るにつけても、その矛盾を感じないことはないであろう orz。)
掲題の著者が、フーコーがこういった「管理社会の最小化」を目指したという意味で、フーコーの考える国家が実質的に「国家の希薄化」であったと考えることは、上記の文脈からも、その姿勢そのものが、ある種の「革命」的態度と考えられるというわけであろう。
そんな感じで、掲題の本には、さまざまに、まだまだ示唆される含意があるように思われる...。