地方について考える

以前このブログでとりあげたことのある本だが、私は、

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

は、今の地方の問題を考えるときに、とても重要なのではないかと思っている。この本は、確かに、限界集落の話ではある。そうすると、一見すると、非常に限られた地方のど田舎だけの話のように聞こえる。
しかし、おそらく、そうではないのであろう。
そのことの、一番の証拠は、地方における、「漸進的」な人口減少にあると考えている。このことが、一番分かるのが、小学校や幼稚園のクラスの人数の減少である。
この減少は、だいたい、10年単位くらいで見ると、そのスピードが分かってくる。
上記の本で、著者が、限界集落を考えるときに重要なポイントとして指摘されていたのも、こういった人口減少が「急激に来るわけではない」というところだったと思う。
急激に減少しないが、明らかに、少しずつ減っている。こうやって少しずつ減って何が問題かというと、おそらく、小規模のビジネスが、少しずつ成立しにくくなっていく、ということではないかと思われる。お客さんのパイが減っていくので、狭い地域の人を対象にした商売が難しくなる。自然と、車社会が普及した地方では特に、国道沿いの巨大スーパーマーケットのような所に、県内中から人が集まるようになり、地域の商店街を利用しなくなる。
そして、だれも利用しないと、子供の数以上に、あっという間に、ゴーストタウンになっていく。
そうすると、その地域で、車という足のない人たち、車をもっていない年寄りや、子供たちが生活しにくい地域になっていくし、おそらく、こういう地域を東京の人が見れば、もうそれは「限界集落」と区別できなくなっているのではないだろうか。
地方を歩くと、一番最初に気付くことは、どこの道も、ちゃんと「きれい」にしてあることではないかと思う。確かに、人は減っている。しかし、道は、きれいに掃除がされている。そういう意味では、昔と変わらない。逆に、変わっていないことが、まるで、タイムスリップをして、昔に戻ってきたかのような感覚になる。
私は、こういった地方の緩やかな衰退は、これだけ、あらゆるものを東京に集中させてきた日本において、必然の結果のように思われてしょうがない。つまり、日本の政治において、地方に産業が必要だとか、そういった視点がほぼない。そうなれば、そりゃあ、あらゆるものが東京に集中するのであろう。しかし、そうであったとしても、地方の今住んでいる人たちの生活は続く。それが、上記の山下さんの本が言おうとしていることであった。だから、その衰退は

  • 緩やか

であるということが、重要なポイントであった。私たちは少しずつ進んでいく「衰退」を、例えば、その中にいる人たちは、あまり大きなことと考えない。というのは、彼らのその衰退に「少しずつ」適応してきたからである。しかし、それを外部から見ていると、そうやって、例えば、10年単位で進んでいる「変化」になにかの対策をやろうとしてきていない姿は、不思議に思えたりもする。
おそらくそれが、「東京中心主義」なのであろう。なにか、昔の田中政治のように、日本改造計画なるものが、また唱えられて、日本列島の改革が始まって、今の地域の衰退も「なんとかなる」と思っているのであろう。つまり、ずっと「他人依存」であることの証明のようにも思われる。
しかし、そういうことと、実際に住んでいる人たちの「日常」は、違うわけである。彼らの日常は、別に、暇ではない。こうやって衰退してきた、10年の間も、同じように、毎日のルーティーンをやってきたわけで、つまり、大きく言うなら、こういった地方問題を考える

  • フレーム

をおそらく、私たちはまだ見つけ出せていない、ということなのだろう...。