ネトウヨと「いじめ」

ネトウヨという言葉が人口に膾炙するようになって久しい。今では、こういった人たちが決して無視できる政治勢力ではないのではないか、という考えが大きくなってきているとも言える。
そのことは、麻生太郎安倍晋三が今やネトウヨ的な「人気」と簡単には区別して考えられなくなっていることとも関係している。
しかし、そういった動きと共に、簡単に彼らを「信頼」することの危険性も考えられるようになってきている。安倍首相が迷彩服を着て戦車に乗ったことがあったが、そもそも、あれを企画して、安倍さんにそこまでさせたのは誰だったのか。731と書かれた飛行機に首相が乗ったとき、そう機体に書いたのは(書かれた機体に載せたのは)誰だったのか。また、つい最近、自民党のある議員の集会で、嫌韓や反中を明らかに意図したステッカーが、なにものかによって、彼らの勉強会の会場で売られたそうだが、一体、それは誰だったのか。
安倍首相や今の政権中枢は、彼らネトウヨを利用しているつもりでいるのかもしれないが、むしろ、彼らの方が、

  • 総理大臣を利用している

のである。おそらく、こういった事件が今後も続くのではないか。
というのは、ここで大事なことは、そもそも、

ということなのである。彼らは無名の存在である。一つだけはっきりしていることは、このネット上に存在して、2ちゃんねるなどを中心にして、さまざまな書き込みをしている。分かっているのは、それだけである。
彼らの「動機」はなにか。
というか、そもそも、彼らにとって、本当に政治が重要なのか。本当に政治のことを真剣に考えて、毎日を生きている人なのか。そこまで、彼らは勉強熱心なのだろうか。
私はここに、一つの補助線を引いてみたくなる。それは、

  • いじめ

である。いや。逆だと言ってもいい。つまり、

  • いじめの過剰なまでの回避

である。つまり、過剰なまでの「トモダチ化」である。
そもそも、彼らネトウヨにとって、政治など本当に興味があるのか。言うまでもない。そんなものに興味なんてあるわけがない。彼らにとって大事なことは、ただ一つ。

  • 自意識

である。自分が「いじめ」の対象にならないこと。自分が「トモダチ」から、仲間外れにされないこと。シカトされないこと。彼らは、

  • そのためならなんでもする

のである。彼らはそのためなら、「日本の政治がどうなってもいい」のである。彼らは、自分が「いじめ」られないためなら、

  • 日本の総理大臣を「利用」する

わけである。言うまでもなく、彼らにとって、総理大臣は「ネタ」である。総理大臣は自分が明日、「いじめ」られないための、友達から「シカト」されないための「ツール」である。彼らは、総理大臣を

  • ネタ

にすることで、自分の自意識を「守る」。総理大臣とはそのための「手段」にすぎない。
自民党日本維新の会は、そういったネトウヨを自分たちの選挙のために、使おうとする。しかし、おそらく、それはうまくいかない。というのは、彼らにコミットメントすればするほど、その依存関係はズブズブなものとなっていくために、むしろ、彼らの方が、自らの自意識を守るために、政治家に
干渉
を始めるようになるからである。
今週のアニメ「フォトカノ」は、実原氷里(さねはらひかり)の回であった。フォト部の彼女は、そうでありながら、ポートレートを撮らない。彼女は、風景しか撮らない。一人で、滅多に笑顔を見せない。皮肉屋で、まともに答えることもない。
作品は、主人公の前田一也(まえだかずや)が、彼女を「笑わせよう」と、さまざまな小道具を使いながら、悪戦苦闘する姿を描き、最終的には、彼女も前田を信頼するようになり、ハッピーエンドに終わる。しかし、ここで問題にしたいのは、そもそも、実原(さねはら)がなぜ「笑わない」のかである。
つまり、彼女は中学時代、「いじめ」られていた。
彼女は、自分を受け入れてくれた友達が自分を利用していただけであったのに気付く。彼女たちが笑っていたその裏側には、自分を「いじめ」る顔が隠れていた。彼女たちにとって実原(さねはら)は「手段」であった。だんだんと、実原(さねはら)への言葉は「命令」となっていく。
そのときから、彼女は笑顔を信用しなくなった。
笑顔は、「いじめ」っ子が、その意図を隠す仮面である。笑顔は一種の「残酷」さである。人は自分が苦しみから、脱することができたと思ったとき、自然と「笑う」。その場合、別に、相手がそうであるかそうでないかは関係ない。たんに自分の「快楽」が「笑い」に対応しているわけである。
写真は、対象を「そのまま」写す。写真は、その人が「見せたい」なにかが写っているわけではない。つまり、「なにもかも」が写っているのであって、そういう意味でリアルだということになる。
しかし、前にも書いたように、写真はむしろ、「撮る側」にとって意味のあるものだということである。撮った写真は、たんに写したのではなくて、

  • 所有

するわけである。つまり、なんで「笑い」を持っていなければならないのか、という問題になる。
ある若者が、なんらかの中二病的属性を発していたとする。その場合、それは、たんにそうであるわけではない。なぜ、その人は、そうなのか。つまり、ここには常に、なんらかの「因果」が問われている。
なぜ、その人はそうなったのか。
つまり、私たちが行う行動は、「本質的」ではないのである。ネトウヨは別に本気で政治が重要だと思っているわけではない。「いじめ」られっ子が中二病的属性をもつのは、べつに、それ自体に、なにか本質的な意味があると思っているわけではない。それぞれの「相対的」関係において、彼らは、ネトウヨ的に振る舞ったり、中二病的に振る舞ったりする。彼らだって、別にそのことが、解決すれば全ての問題が解決するなんて思っていない。
しかし、他方において、それが「重要」でない、ということでもないのだ。それは、「自らのプライド」において、自意識において、重要なわけである。
ゼロ年代において、「キャラ」ということが言われた。しかし、これは、この方向から考えたとき、

と考えなければならない、ということを意味しているのではないか。社会学者のゴフマンが言う、スティグマとは一般には、顔に傷のある人が、それをさらして歩いている姿とか、足を悪くしている人が、ずっと、足をひきずって歩く姿といったような、主に、外面的な様相に対して使われてきたのではないか。
しかし、それだけでは済まないわけである。
あらゆる、その人を特定させる外見は全てスティグマなわけである。それは「いじめ」が象徴している。
だからこそ、彼らは「中二病」的に自らを、「キャラ」化させる。「いじめ」っ子にいじめられて、抵抗できない自分は、他方において、自らを中二病化、ネトウヨ化させ、そういった外観によって、自らを「自ら」たらしめる。
彼らの過剰なまでの中二病化は、対応する「イジメ」の

  • 過激さ

と「釣合わなければならない」ということなのだ。大事なことは、この関係が等価であることは、あくまで「いじめられっ子の主観」だということである。「いじめられっ子」の自意識が崩壊しない理由は、上記の二つが釣合っていると彼ら自身が自分を説得できているからにすぎない。
つまり、問題は、彼ら「いじめられっ子」が、そういった

の「物質」性のその「重さ」が、自分が毎日受けている「いじめ」と、釣合っていると思えることなのだ。彼らは生きる。

私たちは、彼らが生きることを責めることはできない。それと同じ意味で、彼らが生きる「手段」を責めることはできない。私たちは、彼らにとっての事実性に向き合うしかない。
いじめられっ子は、いじめっ子を前にして、「反論ができない」。ところが、この中二病のセカイでは、それが、

  • 可能

なのだ。中二病という、その過剰なものが、すでに、彼ら「いじめっ子」たちが「理解できない」という時点で、これは、「いじめられっ子」にとって、

  • 精神的勝利

であることを意味している。彼ら「いじめられっ子」は、「いじめっ子」の「いじめ」に口答えできない。なにを言われても、どんな暴力をふるわれても、彼らは動かない。ただただ耐える。その攻撃が、いつか終わるのを待って、ただただ、

  • 動かない。

じっと、一つのところに止まり、一点だけを見つめて、この嵐が立ち去るのを待つ。
よく考えてみてほしい。
こんな「不合理」な事態はあるだろうか?
彼は自尊心を捨てていないのだ。彼はまだ、自分が自分でありたいと思っている。ところが、なぜか、この彼への「攻撃」は終わらず、毎日、続いているのだ。
こんな「不合理」なことがありうるだろうか?
きっと、なにかがおかしいのだ。なにかが自分たち常識人の持っている感性と違うのだ。
ここから、中二病的セカイは、すぐそばだと言えるだろう。むしろ、中二病的セカイは、そこに「なければならない」から、彼らはそれを「見つける」のである。
確かに、実原(さねはら)は救われる。前田の無理な行動が、実原を救う。しかしそれは、たんに前田がそこにいたからにすぎない。前田という変り者がいたからにすぎない。つまり、前田がいなければ、こういったハッピーエンドにならなかったのかもしれない。
実原はもし、前田がいなかったら、幸せな高校生活にならなかったのかもしれない。いや。ほとんどの人にとって、それは結果なのだ。
間接民主制には、一つのアポリアがある。つまり、彼らの「動機」が、どうして、間接民主的課題だと思えるのか、ということである。彼らは、まったく別の動機で投票する。しかし、どうしてそれを責められるであろう。
いじめっ子は、いじめる。それは、彼らの「業」である。かれらは、多くのいじめ「予備軍」の彼らを前にして、結局、僕は、どこかがおかしいのだ、と悟る。
こうして、民主主義は、一つのランダムネスを内側に抱え込むことになる。まったく関係ない動機で彼らは投票する。自分の自意識が健全であり続けるためには彼らはなんでもやる。たとえそれが、セカイを滅ぼすことであったとしても、である...。