ファシズムは生き残れるか?

橋下市長は、今日、元従軍慰安婦の方々との面会が中止になったことを受けての会見で、アメリカ国民やアメリカの軍人に対して、全面謝罪を行っている。

在日米軍に風俗業を活用するよう求めた発言では「米国人や米軍におわびしたい」と、初めて謝罪に言及。一方で「女性蔑視をしたつもりはない」とも強調した。
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彼にしてみれば、従軍慰安婦の方は、石原慎太郎の顔を立てなければならないので、譲れないが、こっちの方は、政治家として、外交問題にまで発展させたことは、言い訳のできない瑕疵だと自らも受け入れなければいけない、ということになったのであろう。
それについて、佐藤優さんが、今回の橋下市長のアメリカ軍に対する態度について、的確なコメントをしている。

アメリカ人の常識では、セックスは“私事”です。どこでしようがしまいが個人の勝手で人から云々される話ではない。「あなたの部下の米兵は戦場の特殊なところにいて興奮してエネルギーがたまっているから、風俗を使え」なんて、余計なお世話です。
米軍にとって、兵士による性犯罪の頻発は極めてデリケートな問題。そんななかでの橋下氏の発言は、日米同盟にも大きな影響を与えかねないという。
米国では、こんな人が政治的な影響力を持っている日本とは、価値観が共有できない、という話になる。なぜその日本人を、アメリカの若者の命をもって守らなければならないのか、日米同盟は必要なのか、というところにまで達する問題です。しかし、橋下氏はその深刻さをまったく理解していない。まさに、政治家の資質が問われる問題です。
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私は今回の、この議論の進み方が興味深い。橋下市長は、「アメリカ軍」の「軍人」の

  • プライベート

な行動に「風俗」を使え、と言った。これの何が問題だったのか? それは、そもそも、「アメリカ軍」の「軍人」は、アメリカの市民である。当然、彼ら一人一人には、プライベートな生活がある。プライベートな場所で何をやるのかは、各自の「責任」において「自由」に決まっている。それに対して、橋下市長は、

  • 風俗を使え

と言った。つまり、彼は個人のプライベートな空間に、介入しようとしたわけである。彼はアメリカ軍のアメリカ軍人に「風俗(売春婦)を利用させようとした」わけで、ようするに、

  • 個人のプライベート空間に国家権力が介入しろ

と言ったわけである。
このことについて、二つの「問題」がある。まず、「自治」的な意味での問題である。橋下市長は、言うまでもなく、大阪市の市長である。ということは、大阪市の「自治」のリーダーだと言える。つまり、彼は、大阪市民全員の「合意」があれば、大阪市の政治について、かなりのことを決定できる。
しかし、他方において、彼は国会における、かなり大きな勢力をもつ政党の代表の一人でもある。つまり、彼は、国政に自分が発言する「権利」があると思っている。
しかし、ここに一つの矛盾がある。つまり、大阪市自治と、国会で行われる合意形成は、別の「ゲーム」だということである。
大阪市自治は、大阪市に閉じている。よって、他の地域には関係なく、独断先行で、大阪市だけで断行できる。ところが、国会における合意形成で、なにかを決めたとき、

  • 大阪市内では、「どっち」で決めた決定に従わなければならないのか

というアポリアにぶつかる。大阪の自治と、国家全体での自治は、どっちが優先させるのか。
この問題は、ある意味、日本のような国では、「曖昧」である。ところが、これをアメリカにおいて考えてみよう。
そうすると、この答えは、ある意味、明確になる。
というのは、アメリカ「合衆国」は、そもそも、連邦政府は、

  • 憲法によって「やれる」ことが制限されている

のだ。憲法によって、連邦政府がやれることは以下のことである、と列挙されている。つまり、アメリ連邦政府は、この制限事項を超えては、なにも行ってはならない。
ただし、である。
各州は、その連邦政府ができないことを行う権利があるのだ。
つまり、明確に役割の分担が存在する。
しかし、それだけにとどらないのである。連邦政府にやれることの制限があるように、州政府にも、やれることの制限がある。つまり、どこまで行っても、共同体には、なんらかの、やれることの制限がある、ということなのである。
つまり、結局のところ、それは個人であり、家族に行き着く。
つまり、連邦政府であれ、州政府であれ、なんらかの個人のプライバシーに関わるところに、関与しようとすることは、

  • 制限

される、ということなのである。これが、アメリカ的「秩序」である。
今回の件で、橋下市長が完全に、アメリカにハブにされたのは、こういう理由である。
これは、一種の「政治思想」の「違い」と言ってもいいのかもしれない。日本のような

国家では、あらゆることを、なんとかして国家に集約しようとする。それは、東さんの一般意志2.0が、国家に対して、なんとかして一般意志を見出そうという

  • 執念

の本であったように、フランスやドイツのようなヨーロッパの伝統においては、そういった

  • 国家=共同体

といった意識がどこかにある。つまり、なんとかして個人を国家が「支配」したいという「欲望」がある。一種の

がある(これは、アリストテレスから連綿と続く、一つの哲学的な「欲望」と言えるのかもしれない)。「いじめられっ子」が「いじめっ子」に

  • 復讐

する一番、てっとりばやい方法は、「いじめられっ子」が「独裁者」になって、「いじめっ子」を「奴隷」にすればいい。
ヨーロッパは、この「怨念」にずっと悩まされてきた。その、一つの極限がナチス・ドイツであったし、ヒットラーであったわけだが、そもそも、フランスもドイツも、どこか「ファシズム」的な、国家主導の国家だといえるであろう。
(東さんが、「一般意志2.0」で、自らの政治思想の根底に、カール・シュミットを置いていたことは、かなり本質的なのではないか、と思われないだろうか。つまり、彼は「ファシズムの可能性の中心」をずっと考え続けている

なのであろう。彼は、自らの「ファシスト欲望」の一つの可能性を、橋下市長に見出していたのであろう。だから、橋下市長の一つ一つの政策がどうのこうのでなく、彼の「手法」が「正当化」される日本政治であることが、彼の理想とする「ユートピア」実現のためには、必要と考えたのではないか。)
他方、アメリカは、いわば「ジョン・ロック」の国である。あらゆる秩序の根拠は、あくまでも、個々人の

のなかで、実践的に生み出されていくものでしかない。つまり、それ以外の秩序を認めないのだ。このことは、地域自治と個人のプライベートな空間に対する「神聖」化を結果する。
橋下市長は、他国の国民でありながら、アメリカ国民のこの神聖な権利を「破壊」しようとしたのだから、アメリカ国民から見れば、他国のファシストが、アメリカに宣戦布告をして、これから戦争して、アメリカを橋下ファシズム帝国の占領下にして(当時のナチス第三帝国は実際に周辺国を占領したし、周辺国民は恐怖したわけですからね。アメリカもそこから抵抗して戦ったわけですし)、アメリカ国民のプライベートな生活空間を破壊して、俺の意のままに動かせてやる、と脅迫した、と聞こえたであろう。
アメリカ人は、ようするに、自分の身近な「付き合い」にしか関心がない。だからこそ、まるで、その関係に、まったく関係のないパワーが介入しようとしているかと、強烈なポピュリズム的バッシングが沸き上がってくるのであろう。
しかし、私は他方において、この「ファシズム」に対する「魅力」は、結局は、日本人は引き付けられて、離れられなくなるのではないか、と思わなくもない。
ファシズムは、一見すると、

  • あらゆる

問題を「一瞬」にして解決してくれるように思われる。つまり、ファシズムは、とにかく、「早い」。それは、最近見かけるようになった「ホジ出し」主義者たちの感性とも近い。とにかく、今、すぐに、目の前の矛盾を解決することを求める。とにかく、彼らの願うことは、

  • インスタント

であることなのだ。だから、他人が「愚行」をやっていると、とにかく、

  • いらだつ。

罵倒を始める。他人が愚鈍で馬鹿で、のろまで、おっちょこちょいなのが許せない。そういう「ポジ出し」でない、いけてない、無能力者を見ると、ムシズが走る。彼らポジ出し主義者は、結局は最後は、ファシズムの魅力にとりつかれていく。
私たちの多くは、どこかしら、生きるのがうまくない人たちである。いつもいつも、だれかに騙されて、簡単に信用しちゃって、そのたびに、傷ついて。そして、思うわけである。
生きるのがつらい
と。彼らは毎日が地獄のように思えてしょうがない。なにをやっても成功しない。馬鹿にされて、自尊心を傷つけられて、それでも、なんで今まで生きてきたのか。
そんなとき。
ファシストは耳元でささやく。
君の「苦しさ」を「一瞬」で解決するよ。
ファシズムは「あらゆる矛盾」を、その一瞬で解決する。だから、どうしても毎日を苦しみの中で生きている人は、そういうファシストの甘い言葉を信用したくなる。詐欺師の口先に乗ってしまう。
しかし、どうして責められようか、その「弱さ」を。
彼らが弱いのは、彼らが生きてきた「結果」であって、原因ではない。彼らはたとえ弱くても、「あがいてきた」のである! どうしてそれを責められようか。
ファシストにとって、そんな「盲目の信者」は、いい金づるであり、カモである。むしろ、ファシストはそういった「弱者」によって支えられる。ファシストは、弱者を代弁する。当事者主権のアンチテーゼとして主張される。さんざん甘い言葉を耳元でささやいて、あらゆる地獄から引きずり出してやるようなことを口づさんでおきながら、最後は、あらゆる責任から逃げる。
ファシストの特徴は、個々人の、あらゆる「プライベート」な領域を、ファシストの「介入可能」な領域にすることだと言えるだろう。そういう意味で、ファシストは、

  • 全領域の「パブリック」な「管理」

を目指す。つまり、一切の「プライベート」を許さない。そのためなら、あらゆる手段を使う。精神科医は、問題行動の多い患者を、とにかく最初に

  • 薬漬け

にする。薬を使って精神を興奮を抑えて、おとなしくするわけである。
これと同じことを、「全国民」にすれば、ある意味、「一切の犯罪のない」国を作ることができる。それは、

  • 日本の男性国民全員に、風俗通いを「義務」付ける

ことにすれば、男たちはおとなしくなる、と橋下市長が言っているのと同じだと考えられるであろう。
この「世界」は、どこか、「家畜人ヤプー」を思い出させる。全国民の左手を切り取って、右手だけにしてしまえば、国民は精神的に疲れて犯罪を犯さなくなるのではないか、とか。毎日朝から晩まで酒びたりにさせれば、その他の知能犯罪に使う時間がなくなり「犯罪」がなくなるじゃないか、とか。大人になる前の思春期に、全国民に、脳を「猿並みの低能」になる手術を行えば、あらゆる「知能犯罪」を国民は行うことができなくなって、犯罪の「一掃」ができる、とか。いや。これは全国民に行うと言う必要はない。一部の選ばれし「エリート」を除いた、全国民の「奴隷」化ということである。
これが「ファシスト」である。
こうして、国民に「あきらめる」ことを要求するのが、ファシストの特徴である。ファシストは人間に人間としてあろうとすることを「あきらめ」させる。君が人間でいたいと思う「から」、君は幸せになれないのであって、人間でいたいという「欲望」を捨てろ、と言う。そうすれば、僕が君を「幸せ」にしてあげるよ、と。
池田信夫は、著書で国民に「あきらめる勇気」を求めたが、彼も一種のファシストだと言えるだろう。)
つまり、

  • 動物=奴隷

ということになる。つまり、「奴隷の幸せ」である。
では、なぜアメリカは橋下市長をハブにするのか?
それは、上記で書いたように、そもそも、アメリカという国がファシストの国ではないからである。ジョン・ロックの国であるから。つまり、彼らは、そういった「ファシスト」と戦ってきた人たちの子孫が作った国なのであって、むしろ、彼らは、もしアメリカがそういったファシストの国になったら、また、国を逃げ出して、新たなフロンティアを開拓して、そこに、新天地を作る

  • そういう人たち

なわけである(そういう生き方を子孫から受けついでいることをアイデンティティにしている人たちなのである)。ジョン・ロックにとって、社会契約は、あくまでも、個々人が「神と対話」する中で見出されてく、秩序にすぎない。つまり、そんなことは、

  • 個々人で話しあって集団作って自治でやれ

と言っているにすぎないし、そもそも、それ以外の秩序なんて、本当の秩序じゃない、と言っているわけだ。そうやってできている以外の秩序は、必ず、国家による、個人の

  • プライバシー

への「介入」を含んでいる。つまり、個人を動物化しようとしている。つまり、ジョン・ロックにとっては、「全体」の合理性に少しの興味もない。あくまで、彼の考える秩序は、「局所的」なのだ。その局所の「集合」である全体が、どんなに非効率に見えたとしても、そういった「局所」が、なんらかの「秩序」になっている限り、そこには、「神の見えざる手」があり、

  • そうなっている

と考えるということであろう。個々人がどんなに「愚行」を行っていたとしても、その愚者たちがお互いで、お互いを毎日観察し合っていて、「今日は元気ないみたいだけど大丈夫?」などと、声をかけあっている、そういった

  • 局所的秩序

の「集合」は、一見非効率に見えても、「細部に神が宿る」というわけである。つまり、全体的「効率」が、

によって生まれるものにすぎないとするなら、それがどうして、「局所的秩序」の集合より「優れている」のかは、まったくもって、担保されない、というわけであろう。
ファシストは、あなたの「幸せ」の代わりに、あなたの「あらゆるもの」を差し出すことを要求してくる。オウム真理教ヤマギシ会が、信者に、全財産の喜捨を求めたように、あなたが「奴隷」になれば、あなたを「幸せ」にしてやると、ファシストは言う。
それに対して、日本人は、その「魅力」に逆らえるような、なんらかの「生活原理」をもっているのだろうか? アメリカにおけるジョン・ロック的な「個人」に代わるようななにかをもっているのだろうか? 意外と、簡単に、その詐欺師の甘言に「落ち」てしまいそうだ。
いや。
もしかしたら、日本の「一揆」の伝統や、60年学生闘争や、最近の反原発デモの風景は、そういったファシストの「欲望」に対抗しようとする、日本的な

  • やり方

の「慣習」を示唆していた、と言えるのかもしれない...。