中二病と「いじめ」

たまたま日曜日に映画館で観た二つの日本のアニメ映画は、それぞれ、なんらかの「おたく」的属性に関するものであったこともあり、その関連性を考えてみたくなる。
映画「STEINS;GATE」は、テレビ版の続編という形で描かれている。この世界では、すでにシュタインズ・ゲートが終わり、テレビ版において繰り返された世界線の混乱は、一応の終息を見て「平和」になった世界として描かれる。
しかし、一人、無数の世界線を行き来した、岡部倫太郎(おかべりんたろう)は、そのさまざまな「後遺症」に悩む。そして、彼が見るさまざまな幻覚が臨界点に達したとき、彼は、この世界から消え、別の世界線に行き、戻ってくることはなくなる。
そのことを示唆された、牧瀬紅莉栖(まきせくりす)は、岡部を救うために、彼がそうやったように、もう一度、携帯と電子レンジを使ったタイムマシンで彼を救いに行こうとするが、それを、岡部に止められる。
つまり、二度とそれを使うな、と。
なぜなら、彼自身がそれによって、非常に苦しんだから、である。
作品はそれを「デジャブ」という形で示唆する。岡部は、紅莉栖(くりす)や椎名まゆり(しいなまゆり)を救うために、何度も何度も、別の世界線を彷徨った。そのことを、くりすやまゆりは覚えていないはずなのに、そもそも、この世界には、岡部がいなかったはずなのに、彼女たちは、どうしても彼のことを思い出してしまう。
それは、いわば、岡部の地獄のような輪廻の繰り返しが、そもそも彼女たちを「救う」ためであったことを、彼女たちは、気付かずにはいられないからである。
こういう意味で、この作品は、素朴なSFではあるが、一つのロマンティシズムとなっていることに特徴がある。
他方、アニメ「AURA」は、「いじめ」の話である。
主人公の佐藤一郎(さとういちろう)は、中学の頃、「いじめ」に悩まされていた。中二病的な恰好をしていた彼は、その「いじめ」のトラブルにより、家族に深刻な亀裂を残したこともあり、高校になると共に、中二病から卒業し、「普通の高校生」となる。
忘れ物を取りに夜の学校に入ったとき、彼はある少女に出会う。それは、まるで自分が中学の頃の自分のような、見るからに中二病をこじらせている少女であった。
自分と同じクラスであったその少女、佐藤良子(さとうりょうこ)は、学校に通うようになると、周囲から「いじめ」にあうようになる。主人公の一郎(いちろう)は、良子(りょうこ)に関わるなと、いじめっ子たちに脅される。彼らは彼の中学時代を知っている同級生から、彼の中二病の頃の情報を聞き、それをばらされたくなかったら、彼女と関わるな、と脅したわけである。中学時代に家族に迷惑をかけたことを繰り返したくないと思う彼は、ただ、それに従わざるをえないと諦念する。
こうやってみると、いわゆる「おたく」的な属性は、なんらかの

  • いじめ

的なコミュニケーションと「双対」の関係として受け取られていることが分かるのではないか。
STEINS;GATE」で、もうすでに、岡部のいなくなった世界で、くりすは、彼の白衣を着て、まゆりや橋田(はしだ)の前で、岡部のいつものかっこつけのポーズを繰り返す。すると、岡部を知らないはずの、まゆりは、自然と涙があふれてきて、こう言わざるをえなくなる。「でもくりすちゃんはオカリンとは違うよ...」。
オカリンを知らないはずのまゆりがなぜ、そう言わざるをえなくなるのか。テレビ版を見ている視聴者は、それを理解する。つまり、岡部がどれだけの回数、その救われない彼女を救うために、無数の無限の世界線を彷徨い、無理な努力を繰り返したか、を。
つまり、これは、現代という愛の不可能性の時代に、SFという世界設定によって、その不可能なはずの、ありえないはずの愛が、ありうるための「条件」を考察する、一つの思考実験になっている、ということなわけである。
「AURA」において、一郎(いちろう)は、良子(りょうこ)に、いらだつ。それは、まさに、彼女が昔の自分だからである。自分が、それが嫌で卒業した、家族に苦労をかけたから卒業した、なにかであったから。しかし、良子(りょうこ)にしてみれば、むしろそれは、

の問題として受け取られているわけである。彼女はいじめられる。それは彼女が今そうであることと関係する。しかし、他方において、彼女はいじめられるから、そうであろうとしているとも言えるわけである。
いじめは、子供にとって重大な問題である。それは、日本において、多くの子供がいじめに悩んでいる事実が示している。それは、彼らが「明日も生きよう」とするかどうか、を毎日、一瞬一瞬、選択し続けていることを意味する。もちろん、彼らが生きることをやめることを選んだとき、彼らにとっては、それは「セカイが終わる」ことと同値なわけである...。
作品は二つの「終わり」を描くことで、どこかアンビバレントな印象を視聴者に与える。一つは、一郎が彼女のために、昔の中二病の頃に戻る、という中二病の卒業の「終わり」である。もう一つは、彼女が高校の制服で学校に通うようになるという形での中二病の卒業という「終わり」である。
この二つは、ある事件とか一つの変化という意味では、大きなターニングポイント、つまり、不可能性としての愛というロマンティシズムとして描かれていると言える。
しかし、そうだとしても、作品は、良子(りょうこ)を、中二病を卒業した存在として最後まで描かない。そういう意味で、一郎(いちろう)の「やれやれ」という「日常」は続く。
つまり、二つの作品に共通するモチーフとして、この中二病「日常」化における、ロマンティシズムの不可能性に対する「可能性」を示唆しているものとして考えようとした、ということなのではないだろうか...。