大江健三郎「あいまいな日本の私」

今でも、本屋に行けば、岩波新書で、この、大江健三郎ノーベル賞基調講演は読めるが、このタイトルが、川端康成の「美しい日本の私」の批判として、語られていることは重要である。
なぜ、彼は川端を否定しなければならなかったのか。なぜ、「美しい」ではなく、「あいまい」でなければならなかったのか。

日本語の作家として、初めてこの場所に立った川端康成は、『美しい日本の私』という講演をしました。それはきわめて美しく、またきわめてあいまいな(ヴェイグ)なものでありました。私はいま vague という言葉を使いましたが、それは日本語でのあいまいなという形容詞にあてたものです。

彼は戦後の文学者として、めずらしく、一貫して、戦中の日本ファシズムと戦ってきた一人だと言えるだろう。
日本の戦中ファシズムの特徴は、「論理」の「厳密さ」の放棄にあったと言えるであろう。なぜ、日本はアメリカに宣戦布告したのか。だれも説明できない。なぜ。ここで、非常に「あいまい」な論理が語られる。その論理は普遍的には、まったく、通用しないものでありながら、

  • 日本というローカルな日本語の中で、まるで「意味」のある論理のように、流通する

が、ようするに、だれもその正しさを確認しないわけである。「なんとなく」流れる。だれも注意を払わない。そしてそれが、非論理的であることが分かった後も、

  • そのまま

日本社会を流通する。それは、たとえ、具体的な意味がなんなのかを指示さなくても、そのインプリケーションとして、ある「強制」が意味されていると暗黙に受け取られている限り、国内向けには、国民を縛ることには「役に立つ」わけである。
川端の「美学」は、その楽観的な「肯定」だと言えるであろう。彼は美しいものを、「そのまま」さらけだす。それは、ただただ、彼にとって「美しい」ものであり、人々の理解を「超える」。川端が、ノーベル賞基調講演において、ストックホルムの聴衆の前で、中世の禅僧の歌を、そのまま、「日本語のまま」、朗読する。なぜ、それでいいと、彼は思ったのか。
言うまでもないであろう。その「美しさ」が、物質性にある、と川端は信じて疑わない。その「女性」なら「女性」の「物質」としての「美しさ」が、

  • 人間を超えて

普遍的に、善悪を超えて、彼は「楽観的」に、今の「美」を描くわけである。

もしできることならば、私はイェーツの役割にならいたいと思います。現在、文学や哲学によってではなく、電子工学や自動車生産のテクノロジーゆえに、その力を世界に知られているわが国の文明のために。また近い過去において、その破壊への狂信が、国内周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ人間として。
このような現在を生き、このような過去にきざまれた辛い記憶を持つ人間として、私は川端と声をあわせて「美しい日本の私」ということはできません。さきに私は、川端のあいまいさについていいながら、vague という言葉を用いました。いま私は、やはり英語圏の大詩人キャスリーン・レインがブレイクにかぶせた《ambiguous であるが vague ではない》という定義にしたがって、同じあいまいなという日本語を ambiguous と訳したいと思いますが、それは私が自分について「あいまい(アムビギュアス)な日本の私」というほかにない考えるかなのです。

大江は、自分を川端を「超えた」存在と言っているわけではない。彼は、さきの大戦を経て今ここにある自分が、川端のように、楽観的に、無邪気に

  • 礼賛できない

と言っているわけである。

  • 近い過去において、その破壊への狂信が、国内周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ人間として

大江はここで、非常に川端を意識している。川端の「美」に対し、大江は、なにを言おうとしているのか。それはここであえて、

  • 人間

を強調していることに注意しなければならない。大江が「あいまいな日本の私」と言うとき、大江は川端と同じく、自分だって、「あいまい」であることを避けうると言っているわけではない。しょせんは、自分も「あいまい」であることにおいては、同じ日本人「でしかない」と自嘲する。しかし、その「あいまい」は、大江は自らを、

  • アムビギュアス

というしかない「あいまい」だ、と。そういう意味で、大江は自らと川端がそうであったものとを区別するわけである。
さて、なにが違うのであろう?
もう一度、繰り返そう。

  • 近い過去において、その破壊への狂信が、国内周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ人間として

ここで、大江は非常に丁寧に語っている。大江は、過去に目を瞑っていない。本気で、過去と対決しようとしている。この国の周辺諸国へ行った行為は「破壊」であった。そして、それは、

  • 狂信

と関係していた、ということである。
橋下市長の発言においても、戦場における「狂気」を語る人たちがいた。つまり、あのような極限状態においては、人間は「動物」であるしかない、と。
しかし、他方において、今までの右翼は、「英霊」の崇高さを語ってきた。私たちの先祖である「英霊」が、ただのレイプ魔であってたまるか、と。
つまり、「英霊」を「動物」と語るその姿は、どこか、過去の日本軍への侮辱を含んでいるように聞こえるわけである。
つまりそれは、英霊を「狂気」と呼び、「動物」に例える人たちは、一種の、

  • ロマンティシズム

なのであり、そういう意味で、川端に近い「美」を語っている。
ネット上で、橋下市長に同情的な発言の傾向として、橋下市長が「誤報」と言っている13日の前半の慰安婦必要発言を、13日の後半の発言と関連させて、

  • 理解してあげている

ところに特徴があると言えるのではないか。つまり、13日の後半では、今の時代に従軍慰安婦なんてダメと言っていることから敷衍して、あの問題発言の

  • 真意

には、「今の時代に従軍慰安婦なんてダメ」という意図が含意されていたと、私たちは、彼の「真意」を理解しなければ、橋下市長が、かわいそうじゃないのか、と言う「同情」論である。
ある意味、こういった態度は、自分の子供に対する母親の態度だと言えるであろう。母親は、絶対に子供を信じることをやめない。だから、なんとしても、子供の「かけら」から、その子の「善」を見つけようとする。
こういうふうに言いたい人の感情は分からなくはないのだが、私たちは別に、橋下市長を叩きたいわけではないわけである。そんなことは、世の中にいっぱいそうしたい人がいるわけなんで、きっと、そういう人たちがやるわけでしょう。こっちがこだわっているのは、橋下市長が「慰安婦制度は必要なことは、だれにだって分かる」と言ったときの、その理屈が、

  • 全然過去の日本軍の特殊性に閉じていない

から、むしろ、そこに「こそ」橋下さんの言いたいことが書かれているんじゃないのか、と聞いているわけである。つまり、逆なのだ。彼が、この命題が誤解を生むとか、嫌なら、訂正してほしい、とずっと言ってきたわけである。そうしてくれたら、こっちは、もうこの部分について、なにかを言いたいことがなくなる、と。
なぜ、橋下さんは、この命題を撤回するなり訂正できないのか。
なぜなのか。
これが大事なわけである。
それは、一つには、神保さんが言うように、選挙も近くなり、有権者を前に、自分たちの失態を謝って、だれにも申し開きもできなくなったら、間違いなく、他の議員への応援もなくなり、選挙に敗けると考えたから、というのもあるでしょう。
いまさら、間違ってたなんて言えない、と。
しかし、私はむしろ、逆に思うわけである。つまり、橋下さんの「支持者」にとっては、これ以上、彼が発言を「後退」させると、彼らは彼を「弱腰」と見ざるをえない。すると、党内やその支持者からの求心力が一気に低下して、自分の応援が少なるなることに耐えられなかった、ということである。
だから、撤回できないんじゃないか、と。
彼は確かに、最近の記者会見で「今の時代に慰安婦制度は正当化できない」「普遍的な女性の人権」ということを言っている。しかし、イエス・バットで、「他の国も慰安婦制度あるじゃない」と言っているってことは、ようするに、

  • 軍隊において、みんな、その必要性を認めないようだけど、「どこの国も廃止できていない」ということは、どこの国も戦争が始まれば、慰安婦制度を作るんでしょ

って、聴衆を、人間をバカにしているわけでしょう。どうせ、「今の時代に慰安婦制度は正当化できない」「普遍的な女性の人権」なんて、

  • 守れっこないんでしょ

と言っているのと、変わらない、ということである。
橋下さんは、家に帰って、世界中をだまくらかせたと、ほくそえんでいるんじゃないですかね。
たしかに、橋下さんは、13日の後半で、「今の時代に慰安婦はダメでしょう」的なことを言っています。しかし、よく聞くとそれは、

の話をしているようにも思われるわけです。慰安婦が「必要」というのは、その制度「そのもの」に意味があるわけじゃなくて、

  • 女の「奉仕」

が戦士である男には、「必要」と言っているんですね。この場合に、その「必要」の「主体」は、戦士である男の「側」なわけです。だから、橋下さんは、米軍への売春の利用を進めるわけです。つまり、売春は、慰安婦の一種の「妥協」なんですね。たとえ妥協であったとしても、もしも、それで戦士である男の方々が、「満足」をされれば、「目的」を果たせた、となるわけです。
しかし、ここで大事なポイントは、彼にとって、「今の時代に慰安婦はダメ」ということと「慰安婦の必要」は、

  • 両立しうる

と考えている、ということなわけです。しかし、大事なポイントは、彼が「でも、どこの国でも戦争になれば慰安婦やってるでしょ」と言っていることの含意は、

  • もしも戦士である男たちが、公営性奴隷が欲しいと言い始めたら、断れない

ということなんですね。つまり、ここで言う

  • 必要

は彼にとっては、絶対に「譲れない」ところなわけです。
彼にとっては、

  • 軍隊
  • 明治維新的な)復古
  • 徴兵制
  • 徴兵される軍人への「女による性の奉仕」
  • 誇りのもてる「日本」

の五つは、密接に関連していて、どれも、無視できないわけです。強力な軍隊をもつには、徴兵制が必要。徴兵にするからには、兵隊、つまり、男たちに、自らの命を投げ出すほどの「狂気」の動機を調達しなければならない。
つまり、それはなにか。

である。彼らに、彼らが欲している女をあげることとのトレードオフとして、彼らに「狂気」の「戦闘能力」を引き出させる。
そのためには、彼らが求める「女」を、かれらに与えることが必要とされる。
しかし、重要なポイントは、彼ら戦士が、「選り好み」を言い始めることである。
あの、昔の、幼馴染がいい、とか。若い頃、あこがれてプロポーズしたけど、ふられて、自分が傷ついた相手とか、テレビで活躍しているアイドルがいい、とか。
そうした場合、それでも、戦争に勝つために「必要」だというなら、橋下が総理大臣になったら、憲法を変えて、そうさせるんじゃないか、と。そう読める、と。
維新とは、明治維新の比喩である。つまり、

  • 戦前の復古

のことなのだ。なぜ、復古しなければならないか。それは、過去の日本人の名誉のため、なわけである。彼らが、社会にバカにされたまま、不名誉なまま、その子供たちは生きられない。
しかし、そうだとすると、困ったことになる。
つまり、「あらゆる全て」のことについて、戦前を「礼賛」しなければならなくなるのだ。
どんな、戦中の蛮行も、「英霊がやったことなんだから、<誇る>べき行為なんだ」と自分を説得するしかない。彼らが、根性試しとして、なんの罪もない中国の村民を、100人斬りしようと、村人をレイプしようと、

  • 英霊のやることに、一つとして恥ずべきことなんてない

つまり、むしろ、そういう行為は、「真似すべき」徳性として、今の時代に復活させなければならない、となってしまう。
彼ら「維新」という「戦前復古」派は、とにかく、あらゆる「戦前」を復活させずにはいられない。戦中世代を正当化することが目的の彼らは、

これらの戦前の「再現」を、無視できない。
さきほど、橋下市長擁護派について書いたが、彼らにとっても、なんとも裏切られたように思うんじゃないかということは、橋下市長が今回の対応において、徹底して、しらばっくれることを選んだことである。
どんなに、「明らか」でカメラも回っていて、テレビに何度も、その放送を繰り返されようと、

と言い続ける。言い続けて、言い続けて、だから、

  • 誤解

なんだ、と死ぬまで言い続ける。
彼自身が言った、「慰安婦制度が必要」発言は、もし訂正して謝罪をすれば、

  • 左翼からは、どういう意図で言ったのかを、糾弾される
  • 右翼からは、どこまで撤退するのかと、彼の軟弱ぶりを批判される

つまり、徹底して、「おとぼけ」を貫くしかなくなった、ということである。
ここに、戦後日本の歴史史上、

  • 最も重大な人権否定の発言
  • 最も「あからさま」な公的な場での公的存在による「嘘」

の二つが、同時に成立する、日本政治の重大トンデモ事件が起きた、と歴史上、ふりかえられることになるであろう。
なぜ、橋下さんは、このことに悩んでいないのか。言うまでもない。戦前と同じく、言論統制をすればいいからである。今は、一見、言論の自由によって、橋下さんへの批判が絶えなくても、もうすぐ、強力な戦前復活の言論統制法制が確立することで、橋下さんに批判的な連中を次々と牢屋にぶちこんだり、戦場に徴兵して、敵と戦わせれば、そのうち死ぬだろうと考えて、今は目をつむっているというわけである。
ゼロ年代世代とは、なんだったのか。それは、一言で言えば、川端回帰であり、もっと言えば、戦前回帰ということである。そういう意味で、彼らも、一種の「王政復古」なわけである。
なぜゼロ年代世代は、村上春樹を礼賛する一方で、大江健三郎を読まないのか。言うまでもなく、村上春樹とは、大江健三郎を非常に意識した作家であったし、それを自覚した上で、明確に川端的なものを目指した作家であったわけであろう。ゼロ年代世代とは、完全に、村上春樹の複製コピーであることにアイデンティティをもった人たちであった。
はっきり言えば、ゼロ年代世代は、結局最後まで大江健三郎と戦わなかった。本気で彼を読むことを「ださい」と言ってやらず、今だにノーベル賞をとっていない(おそらく、半永久にとれないだろう)、村上春樹ノーベル賞をとることで、格の上でも、村上春樹大江健三郎を超える日が近いと思って、ずっと大江を過小評価し、シカトし続けている。
私が言いたいのは、いいかげん、あんたたちは、本気で、大江健三郎と戦ったら? と思うわけである。ようするに、評論家を気どっていても、まともに教養もないから、大江の小説を読めないわけである。能力がないわけだ。
自称、現代思想家は、そもそも文学を読んでいない。だから、文芸批評ができない。というか、やると恥をかくからやらない。まるで、シロート並みの、中二病の文章を書いて、他人に笑われるのが嫌で、なにも言えない。
というか、それ以前に、なぜ、彼らが大江を読まないのかは、その拠って立つ主義主張が、そもそも、正反対だからなのであろう。
先ほどの文章に戻るなら、彼は正確にも「狂信」と言っている。つまり、さきの大戦における日本とは、

  • 信仰

の問題だったわけである。このことを大江は正確に理解している。そして、ゼロ年代思想が、完全に無視した視点だと言えるであろう。
戦場は、たんに「狂気」ではない。

  • 狂信

なのだ。それは信仰「が」狂気なのである。その違いは限りなく大きい。そして、次の文章も大江は正確である。つまり、私たちの「信仰」が、

わけである。彼らの「正気を踏みにじった」と。戦場において、あらゆるものが「狂気=動物」といった妄言と、いかに、次元の違う話をしているか。
つまり、大江は一貫して、「人間」を問題にしているわけである。彼は、人間の「人間」性を一度たりとも、別のものとして扱うような態度を示すことはない。
人間は本当は「動物」だとか、ちょっと、極限状態に置いてやれば、「狂気=動物」という「本来性」になる、とか。そういう非人間性を本来性に還元しようとする、そして、そういう物質性において、

を見ようとする、川端的「日本の美」と、大江は徹底的に戦うわけである。

Maman, Papa! Je suis grand, je suis de nouveau un homme!" cria-t-il. つまり、かれは叫んだ----お母さん、お父さん、僕は大きくなりました。もう一度、人間に戻って!
私がとくに魅きつけられたのは、"je suis de nouveau un homme!"というフレーズによってでした。

この最初のフレーズにおいても、彼は、人間に「戻って」と、こうして何度も何度も選び直して、自分を

  • 人間

とする、戻ることを、非常に重要視する。つまり、人間を人間として扱う、戦後民主主義であり、戦後左翼の一貫したユマニズムを貫くわけです。
ゼロ年代的な「善悪の彼岸」は、言ってみれば、敗戦直後から、一貫して続いてきた、戦後民主主義であり、戦後左翼の人たちが、大衆の裏側で、徹底して、理論的に支え、戦ってきた、彼らの

  • 膨大な成果の礎(いしずえ)

の上で、無邪気にはしゃいでいる「悪ふざけ」にすぎなかったのではないか。本当にそこには、なんらかのリアリズムはあったのだろうか。
例えば、大江さんの息子さんである光さんについて、最後に言及している。

ところがさらにかれが作曲を進めるうち、父親の私は、光の音楽に、泣き叫ぶ暗い魂の声を聞きとるほかなくなったのです。知的な発達のおくれている子供なりの、しかし懸命な努力が、かれの「人生の習慣」である作曲に、技術の発展と構想の深化をもたらしました。そしてそのこと自体が、かれ自身の胸の奥に、これまで言葉によっては探りだせなかった、暗い悲しみのかたまりを発見させたのでした。

大江さんがここで、光さんに、なんとしてでも、

  • 人間

を見出そう、絶対に彼を「人間」として扱おうという、崇高な人間の姿を考えないだろうか。
つまりは、人間を「動物」だと思うことは、一種の堕落なわけである。そう思うことが、「楽」なわけである。
つまり、戦後日本の、民主主義者や左翼は、たとえどんな場面においても、人間を人間として扱おうという、絶えまない努力や「あがき」を、実践としてきた、ということなのでしょう。
その膨大な努力の積み重ねによって、この今の戦後日本の礎(いしずえ)を築いてくれたわけで、つまりは、そういった結果が、「人間」的な実践のたゆまぬ積み重ねであったわけであろう。
彼らが、ちょっとした「悪ふざけ」で、こういったものを、木っ端微塵に破壊したくなる「欲望」を、はしたなくも動物的に、吐き出さずにいられなかろうと、そのリアルは、たんに、戦前回帰のリアルであり、上の世代のユマニズム的な蓄積への侮辱でしかない、ということなのであろう。
彼らの薄っぺらい文章が、どこまで、大江の文章に釣り合うか。やってみればいい。そうすれば、お前の「底の浅さ」がばれる、というものであろう。
一人でもいいよ。本気で、大江論を書いてみてくれませんかね orz

あいまいな日本の私 (岩波新書)

あいまいな日本の私 (岩波新書)