自治と自己犠牲

ラノベ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」の第6巻は、文化祭の巻になっている。つまり、主人公の比企谷八幡(ひきがやはちまん)が、文化祭実行委員会の役員のメンバーに、クラスで選ばれるところから始まる。
つまり、この巻は、文化祭という、高校生活においては、めずらしく、

  • 共同作業

が強く求められるケースの話になっているということである。
言うまでもなく、八幡(はちまん)自身は、クラスで話し相手もいないボッチというくらいだから、実行委員に選ばれたとしても、その中の記録雑務とかいうジム的な作業を行うくらいなのだが、ヒロインの雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)は、実行委員長の相楽南(さがらみなみ)の実質的なサポート役の立場を演じることになる。つまり、委員会のほとんどのきりもりを、実質、雪ノ下が仕切る形になる、ということである。
ここまでは、話としては、別にいいのであるが、ここで、なぜか、雪ノ下のOGの姉が、もう卒業して、近所の大学に通っているのに、この文化祭に関わってくるところが、大きな違和感を与える。
2年生の八幡や雪ノ下は知らないが、3年の先輩は、雪ノ下の姉の陽乃(はるの)が前の文化祭を委員長として仕切って、大いにもりあげたことを知っている。だから、一目置いているわけで、その卒業生の姉が、今年の文化祭に関わろうとすることに、それほど違和感をもっていない。

「みなさん、ちょっといいですかー?」
ざわついた会議室が一時音をひそめる。
見れば、相模が立ち上がり、室内を見渡していた。調子を整えるように軽く咳払いをすると、緊張気味に話し始める。
「少し、考えたんですけど......文実は、ちゃんと文化祭を楽しんでこそかなって。やっぱり自分たちが楽しまないと人を楽しませられないっていうか......」
それもどこかで聞いた話だな......。
「文化祭を最大限、楽しむためには、クラスのほうも大事だと思います。予定も順調にクリアしてるし、少し仕事のペースを落とす、っていうのはどうですか?」
相楽の提案に、皆がちょっと考えるような間があった。実際、進捗状況は悪くない。雪ノ下が片っ端から問題点を潰しているおかげでまずまずの進行といっていいだろう。
だが、その案に雪ノ下は異を唱える。
「相模さん、それは少し考え違いだわ。バッファをもたせるための前倒し進行で......」
それを無遠慮に明るい声が邪魔をした。
「いやー、いいこと言うねー。わたしのときも、クラスのほう、みんな頑張ってたなー」
純粋に昔を懐しむような陽乃さんの声に、雪ノ下は咎めるような視線を送った。その態度がさらに相模を調子づかせる。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

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ここで、委員長の相模が言っていることは、自分は仕事をさぼりたい、ということである。真面目にやりたくない、と言っているわけだ。そして、事実、それ以降、文化祭実行委員会は、「ちょっとぐらいさぼってもいいんだ」というメッセージが委員内に広まり、人の集まりが悪くなる。仕事が回らなくなる。
しかし、その結果以上に、私たちに違和感を与えるのが、この雪ノ下の姉の干渉であろう。彼女はすでに卒業生である。なんらかのイベントをやりたいという立場なだけで、こうやって、実行内容に干渉してくる。しかし、言うまもでもなく、彼女はもう在校生ではないのだから、なんの「責任」もないわけである。
そうすると、読者は、ようするに作者は、この卒業生の姉に文化祭の実行に干渉させることによって、なにをしたいのかな、という疑問になってくる。
まあ、なんらかの、姉と妹の確執を、示唆したいのでしょうけどね。
しかし、それ以上に言いたいのは、こういった「自治」をどのように考えるのか、ということであろう。
つまり、そもそも「自治」は成功が目的なのか、ということである。
もし、正しく行われることが、なによりも最優先であるなら、経験者とか熟練者とかプロの意見の通りやっていればいい、というか、彼らをむしろ、「リーダー」にして、その指示通りに動いていればいい、ということになるであろう。
つまり、上記の引用の箇所で、雪ノ下の発言をかぶりぎみに、雪ノ下の姉が打ち消すわけで、つまりは、こういった学校内関係者による自治的行為に、部外者が干渉しようとしている、ということの違和感だといえる。
ここで、姉がやろうとしていることは、妹の「欠点」に対する、姉の逆ばり、と言えるであろう。姉は、妹を窮地に落とそうとしている。むしろ、そうすることで、妹のやり方が融通の効かない欠点の多い方法であることを示唆しようとしている。つまり、明確に邪魔しているわけである。
組織が回らなくなることで、妹は、よけい自分一人で仕事を抱えこむことになる。しかし、それも少ない間は、仕事は回る。それだけの能力があるから自信がある、ということだから。
しかし、ここでわざわざ、文化祭を舞台にしている意味は、この仕事の局在化が結局はうまくいかないことを示唆するため、だと言えよう。
全校分の仕事が、うまく回るのは、多くの人に役割が振られ、それぞれを各自が各自の余った時間で、こなしてくれるから、全体が「余裕」をもって時間を使える、ということであろう。みんながそれを少しずつさぼり始めたとき、そのつけは、結局だれかの所に皺寄せされざるをえない。つまり、そんなことは、そもそも無理なのだ。
雪ノ下の姉は、雪ノ下のある性格の欠点を意識して、あえて、彼女を窮地に落とそうとしている。そうやって、追い込まれたとき、雪ノ下がどう振る舞うかで、彼女を教育的に成長させようとしている。
そういう意味で、この作品は、最初から最後まで、どこか「教育」的な印象を受ける。
しかし、この問題に対して、結局はどのように「解決」されたのか?

「比企谷くん? ここでクイズです! 集団をもっとも団結させる存在はなんでしょー?」
「冷酷な指導者ですか」
「またまたぁ、本当は正解を知ってるくせに。ま、その回答もあんまり嫌いじゃないけど」
微笑はそのままに、視線の温度だけが下がる。
「正解はね、......明確な敵の存在だよ」
その薄ら寒い微笑みに彼女の真意が見て取れる。
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

つまり、八幡(はちまん)は、あえて、みんなが団結して絆をもって行動することを善とすることの「反対」を言うわけである。団結なんて嘘だ。そんなことは偽善だ、と。そうすると、ある一部の人たちが、

  • 八幡「に」

反発する。そんなわけあるか、と。みんなで助け合って成功させるから意味があるんだろう、と。そうすると、その空気が「勝馬」だと思った多くは、その意見に反対できなくなる。つまり、自然と、真面目に仕事をする方が

  • 居心地がいい

となるわけである。作品はそんな感じで、ヒロインの雪ノ下の窮地を八幡が救ったことで、八幡的にポイントが高い感じで終わるという、なんとも気持ち悪いナルシスティックな作品に仕上がっている。
上記の何が気持ち悪いか。
失敗したって、いいではないか。
なんで、成功しなければいけないのか。
しょせん、自治的な活動なのであろう。そんなに結果が重要なのだろうか。ぐだぐだの結果になって、多くの人が多くを学べばいいんじゃないんですかね。部外者のOGの姉が、自治に干渉してきたり、まるで、イエス・キリストででもあるかのように、自己犠牲ナルシス乙って、気持ち悪いんですけどね。
しかし、この作品には、どこか最初からそういった「構造」があるように思わなくもない。なぜ八幡は自らを「ぼっち」として「演じる」のか。文系科目だけであっても、学年で上位にあるような人が、自分を「ぼっち」と自虐し一貫して被害者の立場で自意識を吐露し続ける内面の記述は、それは一つのギャクだとしても、気持ち悪いし、痛々しい。
そもそも、学校は勉強をやるところなのであって、なぜ、この学校内にいる、勉強の成績が上がらなくて苦しんでいる多くの人を描かないのか?
作者は、一人の成績優秀者が

  • 学校の危機を救った

場面を描いて、さぞ、気持ちいいのであろう。しかし、どうだろうか。こういった高学歴者のパターナリズム的な自虐が、そもそも、自治的マインドからは、恐しく「余計なお世話」であることを自覚してもいいんじゃないんですかね...。