終わらない「自意識」

昨日の会見の論評がいろいろ、でてきた、ということではないですかね。

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ここでの、橋下発言180度転換論は、まったく、私の主張通りだったので、特に、なにかを言いたいことはないですね。
二人はオブラートに包んで話しているけど、いずれにしろ、かなりトンデモ話だけど、そこをあえて、前向きに話そうとするとどうなるか、みたいな話だったんじゃないか。
神保さんにしても、多くのジャーナリストにしても、なんというか、プロだなー、と。そういうジャーナリストのプロからすると、橋下市長は、しょせん、アマチュアなんですね。こうして、会見の場に来て質問しようとする人たちは、ジャーナリストとして徹底してトレーニングされているし、もちろん、この問題をとても勉強している。というか、ジャーナリストとして、社会問題を勉強してジャーナリストを実践してきた「プロ」なんですよね。当然、いろいろな勉強もしてきたし、取材もしている。
どっちが、手玉にとられているか、ということなんじゃないですかね。
なんていうかなー。橋下さん。陽明学とでも言うのかなー。

を確立しなければならない。うーん。本質主義者なんだよね orz
ここで、橋下さんは自らナショナリストを演じているわけだけど、なりたい理想の「日本」に今は、まだ、到達していない。

  • 「真」の日本

に、「だれからも後指を指されない」真の誇りをもてる日本で

  • ある

ことを、世界中の人たちに認めさせたい。そういう活動の一貫として、「慰安婦は必要」と言うし、そのことがバッシングをされれば、まったく反対に、「すべての女性の人権の、なにものにも譲れない崇高さ」とさえ、言ってみせる。つまり、彼にしてみれば、そのことは、どっちでもいいわけだ。どっちだろうと、彼が考える、

  • 「だれからも後指を指されない」真の誇りをもてる日本

になっていない、「近づいていない」と彼が思っている限り、彼は、こういった「活動」を死ぬまでやる、っていうことですよね。
ここのところ、何度も書いている気もするけど、つまりは、

  • 自意識

なんですね。なにかモヤモヤしているんだけど、ぼんやりと、自分を「誇れない」「侮辱されている気がする」「自分に自信がもてない」。そういった、鬱屈した感情が、晴れない、と言いたいわけですよ。それを、ここでは、彼は、

  • 日本

という、自分が生まれてからずっと所属してきた国家に、自らを感情移入して、考えている、ということでしょう。
ネトウヨが、毎日、「いじめ」られてたり、「いじめ」られないように、なんとか、トモダチから仲間外れにされないために、話を合わせたりというのとまったく同じで、自分のうまくいかない、恵まれない今を、不快に思い、その鬱屈を、仲間外れにされないための努力を、この

としての「活動」に見出している、ということなんですね。だから、この活動自体が、この活動「そのもの」が、一種の

  • (日々の)目的

になっている、と。いじめられっ子が、そのいじめっ子に対して、日々思う鬱屈した感情や、友達にハブにされないために、毎日、どんな卑屈なことでもやってやると、自らの自尊心を「捨てて」までして、彼らの命令に従って行動したときに受けた

  • 心の傷

とか、そういった各個人の内面にあるドロドロとした感情と、

が、その人の中では自己同一していく。そうすると、まったく話が逆転してきて、なぜ、自分がこんなにも「生きづらい」のかは、むしろ、

  • この日本という国が卑屈なプライドをもてない国「だから」

という話に、変わってしまう。まるで、この日本さえ「ちゃんと」していれば、自分の日常の「鬱屈」は晴ればれとして、いつも自分が「いじめられっ子」ではなく「いじめっ子」の側に「なれる」なんてことがあるかのように、錯覚する。
そして、最も大事なことは、この二つが、そのネトウヨの中で、

  • 天秤のように釣り合う

ことが、日々の営みの中で「最も重要」なことになっていく。なぜなら、このバランスが崩れたとき、もはや、自分の自意識を保てなくなる、ということなのだから。
そこから、そもそもの日々の行動の「優先順位」がおかしくなる。本当はそんなことより、もっと大事なことがたくさんあるはずなのに(つい最近報道された、母子家庭の餓死事件など、その典型のはずなのに)、

  • そんなことより

過去の日本の「行為」の過剰なまでの「名誉回復」欲望が、まったくもって、止まらなくなってしまう。自分の行動を止められなくなってしまう。しかし、そんなものは、そもそも、

  • きりがない

わけだ。じゃあ、どこまで日本は「恥ずかしくない」にならなければ、「我慢」できないのか。自分が「いじめ」られた、その「屈辱」に

  • 釣り合う

のか? 言うまでもない。どこまで行ったって、釣り合うわけがないのだ。それは、自らの「いじめ」を「日本のナショナリズム」に、話をすりかえた時点で決まっていたこと、ということであろう。
例えば、上記の番組でも言っているが、慰安婦の人たちの人権が蹂躙されて、人生がめちゃくちゃになったことは橋下さんは認めている。そしてそれに、軍が組織として関わっていたことも認めている。つまり、現場は、組織ぐるみでやっていたことを認めている。そして、そういったことが常態化していたことも認めている。
つまり、現場が、中央司令部の意志に関係なくやっていたと言うことに意味がない。現場のその状態が放任されていたということ自体が、中央司令部が「黙認」していたことになるのだから。
そもそも、橋下市長がしきりに言っている「国家意志(=一般意志?)」なるものが(なんだか知らないが)、それがどんな内容だったとしても、元慰安婦の人たちの視点にたてば、彼女たちの人権が蹂躙されたという重大な事実には、

  • なんの関係もない

わけであろう。実際、現場ではそういった人権蹂躙があったことは、だれも否定していないのだから。
じゃあ、ここで、その(国家意志のあるなし、なる)差異にこだわっている橋下市長は、慰安婦の人たちに向けて、国家を代表して謝罪をしているわけではない、ということになるのか。だとすると、一体、彼は、だれに向けて話しかけているのか、ということになるであろう。だれに、なにを伝えようとしているのだろう、と。
国際社会は暇ではない。そこに重大な人権蹂躙が「あった」とするなら、その紛争の解決は、重大な国際社会が取り組むべき課題であるが、それ以外の話を、話好きのあんたが演説を始めても、誰も耳を傾けない、ということですね。
一貫して記者たちが、橋下市長の言う国家意志という「言葉」を

  • シカト

し続けたのは、そういうことで、ようするに、そんな、橋下市長の「自意識」に、国際社会のだれもかまってやってる暇はない、ということなのだろう...。