児玉聡『功利主義入門』

あなたは、「倫理」と「道徳」を区別しない、と言われたとき、どう思われるか。
もちろん、多くの日本人がこの二つを、おそらく区別せずに使っているのであろうことを、私は別に、知らないわけでも、そういう人を道徳的に非難したいわけでもない。
しかし、こういった「えらい」先生が、そういったことを平気でされると、一体、どういった「意図」があるのかな、と逆に、問いたくなってしまう。

なお、本書では「倫理」と「道徳」という言葉が出てくるが、両者は同じ意味で用いられている。

掲題の著者は、この本で好んで「倫理」という言葉を使うが、その場面の

  • 全て

が「道徳」の意味である。つまり、掲題の著者はなぜ、道徳を倫理と呼びたいのだろうか(おもしろいことに、この本の後半に行けば行くほど、「倫理」という言葉を使わなくなる)。
その前に、道徳と倫理の違いであるが、少し長いが、比較的コンパクトにまとまっている、いい文章を以前、このブログで引用したので、それを再掲してみよう。

政治哲学が流行している。テロや金融危機や経済格差について、さらには原子力災害について、黴に生えた机上の空論でるはずだった哲学がまだなにかを語りうるということを、この政治哲学は実証している。どんな現実的な問題についても踏み込んで語ろうとする真摯な姿勢と能力によって、この哲学は人々に受け入れられている。それが扱うのは一言で言って、諸現象にはらまれる倫理問題----価値としての「自由」や「正義」----でるから、流行の背景には、いたるところで倫理的な判断を下そうとする現代人の欲求があるのだろう。そしてこの政治哲学に対する、したがって現代人の倫理志向に対する、深い違和感が本書の底流をなしている。政治哲学とはそんなものだったのか、倫理とはこの政治哲学が問題にしているような問題だったのか。
倫理(英語の ethics)という語のもとになったギリシア語のエートス ethos は、人の「住みか」とそこでの彼や彼女の「あり方」の両方を指していた。つまりエートスには、人が暮らす家や土地や政治的共同体がどのようであるかという事実問題と、そこで彼/彼女がいかに振舞うべきかという規範問題の区別がない。たとえば、「中庸」により自らを「習慣」づけよと説くアリストテレス倫理学になっては、「習慣」は人が暮らす客体的環境であり、かつ主体的にコントロールすべき行為である。この倫理には、認識の対象である「事実」と道徳的価値に由来する「当為」、という近代的な区別がない。今日流行の政治哲学=倫理学は、ギリシャ的倫理におけるこの非区別を一面ではたしかに受け継いでいる。今日の倫理は、たった一つでありかついたるところにある「住みか」で問題にされるのだ。生殖技術や臓器移植から国際紛争にいたるまで、家族間のトラブルから地域社会や国家のあり方まで、さらに麻薬から自然環境まで、「住みか」がなにであってもどこであっても、今日の倫理学はそこでの人の普遍的「あり方」を問題にして介入しようとする。

これではしかし、道徳と同じではないのだろうか。適用範囲の普遍性にかんするかぎり、今日の倫理とキリスト教や近代の道徳の間に、大きな差異があるようには思えない。いずれにあっても、それらが説く「あり方」は、「人を殺してはならない」のように、時代や環境、まさに「住みか」に左右されてはならない命令のかたちを取る。ただ道徳の普遍性は、地上の「住みか」でなく天井に由来する。神から直接下さっるか、動物以下の存在(必然が支配する世界)に対し天井に位置する人間の「自由」にもとづいて、道徳的命令は下される。道徳の存立根拠に事実の世界は必要なく、事実の認識に道徳は必要ない。デカルトはそのことを、悪人でも真理を認識することができると述べた。そして道徳はあくまでも、「自由」な人間を善導教化しようとする。これに対し、今日の倫理は、様々な仕方で限定されてあるはずの「住みか」をどんどん無差別に「住みか」と見なすこと、「住みか」なるもの、「住みか」として等質なものの範囲をどんどん拡大していくことによって、その普遍性を主張する。生命倫理から環境倫理へ、さらに企業や大学の「コンプライアンス」へ、どこまでも適用範囲を拡大していける能力に、今日的な倫理は学としての普遍性を賭ける。つまり今日の倫理は地上を等質化することで、天上に由来する道徳と肩を並べようとするのである。人間よりも先に地上の善導教化を、それは果たそうとする。
革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)

おそらく、最も大きく勘違いしているのは、「言葉」なのではないか、とは思わなくもない。
上記の引用でも倫理に対して、わざわざ「人が暮らす家や土地や政治的共同体」という属性が注意されるのは、そういった特定の「場所」において、その時、何が起きていたのかを、

  • ほとんどの人は知らない

ということに対応している。つまり、「不可知論」なのだ。ほとんど全ての人は知らないが、そこにいた「その」人にとっては、その場所での体験は、逆に「全て」である。この非対称性に「倫理」、エートスという言葉を使うときの含意がある(つまり、本当は、倫理は道徳とまったく反対かもしれない、ということである)。
その場所において起きたことを、「その」人が言葉で説明しようとしたとき、そもそも、どうしてその言葉を、他の人は「理解」できるだろうか? だって、その場にいなかったのだから。そこで、「その」人は、なんらかの「アナロジー」、つまり、比喩によって、説明しようとする、となるだろう。しかし、なぜ、「その」人は、比喩で十分だと思うのか。それは、そもそも、言葉というのが、なんらかの「差異」を示唆し、相手に「その」人が「判断」させたい方向に誘導しようとすることを意図している「操作」的なものだから、ということなのではないか。
しかし、おそらく「言葉」に対して、ナイーブな人にとっては、言葉とその言葉が「指示するもの」を区別することに、それほど大きな意味の差を感じないのであろう。
(それは、後で書くように、そもそも、この本のタイトルにある「功利主義」というのが、もともと、公共政策の文脈から語られるようになったものであるだけに、公共的な「語り口」を主眼に置いているところに、こういったすれ違いが起きているのではないか。)
上記の引用を見ても分かるように、もともと、倫理とは、非常に「極私的」なものに、結局はなる、ということなのである。だから、ニーチェキルケゴールに対してそう呼んでいたような「実存」に近い話になっていく。
まあ「道徳」は、上記の引用から分かるように、一種の「フラット化」であり「グローバリズム」となる。
もっと言えば、世間で言われている現代思想だとかポスト・モダンも、

  • 現代道徳

のことであり、

  • ポスト・モダン社会における道徳政策

のことでしかない(こういうことを言っている本人たちに自覚があるかは知らないが)。
ではなぜ、掲題の著者はそれを「倫理」と呼びたがるのか。おそらくそれは、「道徳」が日本の文脈では、戦前の「徳育」とまったく同値に使われているから、例えば、大学の授業で「道徳」の授業などと看板に掲げると、「トンデモ」と勘違いされると考えているからではないか。そこで比較的穏当な「倫理」という看板にしていると(だったら、もっと一般的に「政治学」にすればいいのだろうけど、そうすると、日本の国会の話をしなきゃならないと思われるのが嫌とか、そんなところでしょうか)。
おそらく、多くの人は、「功利主義」と「利己主義」の区別をしていない。なぜなら、前者が「最大多数の最大幸福」という形で、「合理性(=計算性)」を主張し、かつ、「個人の幸福」を「包含」している(肯定している)がゆえに、議論の流れが、必然的に、

  • 個人の幸福(=私利私欲)の肯定

に「結論」しやすい、というところにあるのであろう。
掲題の本を読むと、非常に奇妙な印象を受ける。それは、「何が功利主義なのか」に直接答えている場所がない、ということである。その代わりに、読み進めていくと、さまざまな功利主義者が、どんなふうに一見すると功利主義に「矛盾する」ものさえ、功利主義と呼びたがったのか、の軌跡が説明されている。

一つは、功利主義的に行為するために、ひたすら最大多数の最大幸福のことばかり考えて行為する「功利主義マシーン」になる必要はないとする点だ。現代の功利主義者の多くは、家族への義務や、さまざまな道徳的規則を考慮しながら行為していれば、人々は結果的に功利主義的に行為することになる、と考えている。

このことが、何を言っているのか、分からない人もいるんじゃないか。つまり、歴史上の功利主義者は、こういった功利主義的な合理性、計算性を徹底させるのではなく、

  • 適当

に、気分が向いたときは、家族のことばかり考えて、気分が向いたときは、世界の貧困のことを考えるような、「適当」なバランスで生きている人の

が、「最大多数の最大幸福」に

  • 結果的になっている

と言っているわけである。つまり、それくらい人間的にバランスがとれていないと「健康的じゃない」と言いたいのであろう。つまり、一種の「否定」として定義されている。

もう一つは、約束を守るとか嘘をつかないという義務の重要性は認めながら、そうした義務を守ることが行き過ぎることがないように、功利主義の観点からチェックする必要があり、という立場を取っている点。このような、さまざまな道徳的規則を守ることが社会全体の幸福に貢献するかどうかを評価し、貢献すると認められる規則や義務を二次的な規則として採用する立場を、「規則功利主義」と呼ぶ。

功利主義者は、カントの義務論を、嘲笑する。それは、カントが個人の利益の追求を「義務」の名の下に否定するからだが、つまり、功利主義とは、

  • カント的義務論「でないもの」

という否定で定義される。
あんまり、ギチギチに「義務」で人々を縛ると「幸福じゃない」から、否定する、つまり、ここでもまた、「否定」による定義になる。

むしろ、他人に危害を与えないかぎりにおいて個人の自由を保障するという規則を社会が採用した方が、個人の自由に絶えず介入しようとする社会よりも、長い目で見ると全体として大きな幸福が得られると考えたのだ。

ここでもまた、「否定」による定義である。
なんでこんなことになるのであろう? まとめると、

  • あまりに「最大多数の最大幸福」を正確に追求しすぎない。むしろ、保守主義者のように、家族や身の回りの人をある程度、優先して行動する方が、その人の感情のバランスとしては「健康的」なんだから、むしろ、こうである方が「自らの最大幸福」に適する。
  • あまりに(カント的に)「義務」に縛られ過ぎてはいけない。なぜなら、あまりにその命令がギチギチだと「自らの最大幸福」に適さないから。
  • あまりに「最大多数の最大幸福」だからといって他人の幸福を優先して自分の「自由」を制限してはいけない。なぜなら、あまりに自由を制限すると「自らの最大幸福」に適さないから。

すごいですよね。このテンプレを使えば、なんにだって言えますよね。

  • あまりに「左翼」であってはならない。
  • あまりに「市民運動家」であってはならない。
  • あまりに「TPP反対」であってはならない(たとえそれが、自民党の選挙公約であったとしても orz)。
  • あまりに「国の方針に逆ら」ってはならない。

もう、なんにでも使えますよね。バッタバッタと斬り倒していくんでしょーね。ムテキですよね。もー、最後まで行っちゃいましょー。

  • 「最大幸福」であってならない(!)。なぜなら、あまりに幸福すぎると、つまりは、あまりに「過剰」ということで、「不健康」になってしまうので、「自らの最大幸福」を目指すことに反する。
  • 「不幸」でなければならない(!)。なぜなら、「幸福」を目指すということは「幸福すぎる」状態に必然的に到達するまでやめないことになってしまうため、上記の理由で「不幸」になってしまうから(!)。
  • できるだけ早く死ななければならない(!)。なぜなら、生きようとすること自体が、そもそも「幸福を目指す」行為であるため、上記の理由から、生きようとする限り、不幸であらざるをえないから(!)。

(orz。もう何を言ってんのか分かんなくなってしまいましたが。)
うーん。ということは、どういうことなんですかね?

二次的規則を重視するこの考え方は、ミルの『功利主義論』でも詳しく論じられている。つまり、ミルが考えていたのは、功利原理そのものこ個々のケースに当てはめて考えるというよりは、功利主義の精神に則った道徳規則や法律を守るということが念頭にあったということだ。

そうなのだ。「功利主義」とかいう意味の分かんないカテゴリーを主張するんじゃなくて、最初から、

  • 立法的言説の作法

は、一般にどんなものとなるのか、と問えばよかったわけである。行政的命題は一般にどういった性質を備えていなければならないか。
なぜ、上記の定義は「ぐだぐだ」になってしまったのか。あれも、これも、いいものはいい。と、無制限に取り込むキメラみたいになっていったわけだが、そのことは、掲題の本の後半において、二つの視点で検討している。

  • 幸福ってなに?
  • どうしてアフリカの毎日飢えて死んでいる子供を救おうとしないの?

しかし、これについての、掲題の著者の対応は、どこか違和感を覚える。上記において、私は、結局のところ、功利主義とは「公共政策のディスクール」のことだと言った。ところが掲題の著者は、前者の問いに対しては、

  • 一人一人が、どういったときに幸福を感じるのか?

という「答のない問い」、「個人的な問い」に変える。言うまでもないが、個人が何を幸福と思うかに、どうして「定義」があるだろうか。もしそんなものがあったら、そんなものは人間を馬鹿にした傲慢ということであろう(掲題の著者が示唆するのは、「快楽」という生理的反応、情念という心理学であるわけだが、掲題の著者はその可能性を示唆するだけで、それ以上の論拠を示そうとはしない。つまり、功利主義は最終的に、秘教的神秘主義に必然的に到達する、と言えるのかもしれない...)。
後者においては、掲題の著者は、なぜか、アフリカの飢えて死んでいる子供を、どうして「個人は私財を投げ打って、助けないのか」と問うわけである。しかし、それはおかしくないか。だって、今まで、さんざん、功利主義とは「公共政策」の話だと言ってきたのではないか。つまり、まずやらなければいけないのが、国家による、貧困国への援助であろう。まずは、それが

  • 十分なのか?

を問うのが最初じゃないのか。もし足りていないのだとしたら、なぜ足りないのかを問うべきであろう。
ここで、前半の話に繋がるわけである。
倫理とはなんだろう? 例えば、「約束」というのを考えてみよう。私が、私のある友達と次の日に会う約束をしたとする。そして、私はその待ちあわせ場所に行ったが、夕方まで待っても、相手は来なかったとしよう。
そうした場合、

  • 道徳

なら、どうなるか。こうやって約束を破る人を、
どうやって法律で裁くか
を考えるわけである。禁固一年がいいか。罰金100万円がいいか。はたまた、死刑がいいか、と。
では、それが

  • 倫理

だったらどうなるか。まず相手が「その後どういう行動をとるか」が非常に重要になる。誠意もなく、おざなりな態度を私にとるなら、
ああ、この人は私と友好的な関係を続けるつもりがないんだな
と考えて、私はその人から遠ざかるであろう。しかし、相手がそれなりの誠意を見せるなら、私はその人を許し、今まで通りの関係を続けるかもしれない。
大事なポイントは、

  • この「匙加減」が、まったくもって、相対的であり、この場合「固有」の、この二人だけが感じるなにかによって、流れていく、ということで、このことは、たとえ、上記の道徳によって、法律がどうなっていようと
  • 関係ない

ということなのである。どんなに法律が厳しくても、相手を何も言わず、法廷に報告することもせず、許すかもしれないし、どんなに法律では軽微のものとされていても、一生許さないと心に誓うかもしれない。
このことが、どうして、さまざまな社会において、さまざまな形の法律が存在しながら、それぞれの社会は「混乱」していないのかを説明する。
つまり、私たちの生活において、私たちは日々を生きていく上で、法律について考えていない。私たちを、法律に代わって、

  • 圧倒的

に支配し動かしているのは、こういった人と人の、二人の間に一期一会に成立する、「倫理」的、極私的関係であり、私たちが実際に、毎日悩んでいるのは、ほとんどこちら側だということであるということで、つまりは、掲題の著者が、さも、重大なことを考えているというふうに振る舞ってみたとしても、功利主義という公共道徳など、多くの場合は

  • どうでもいい(=どっちでもいい=無関心)

であるのに、掲題の著者が、さも人類の秘密であり神秘を見つけたかのように語るから「こっけい」だと思う、ということである...。

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

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