ジョセフ・ヒース『ルールに従う』

そもそも、哲学に善悪はない、という命題は正しいのだろうか?
こんなふうに言うとナイーブに聞こえるかもしれない。それは、物理学に善悪はあるのか、この宇宙に善悪はあるのか、物質に善悪があるのか、といったように、このセカイの

が「善悪」という

  • 人間の視点

でできているのか、と問うているように聞こえるからであろう。
私は別に、ここで、世界には「善悪」はあるんだと、反論したいわけではない(そんなことはどうでもいいので、品性下劣な奴と、死んでも関わらずに済みたいものだ orz)。そうではなく、そもそもの最初の命題である「哲学に善悪はない」を疑うことは可能なのか、もし、可能であるとするなら、どのような形においてなのか、を考えてみたいわけである。
このことは、人間を「動物の比喩」として語ることへの違和感と、ほとんど同値のことに、私には思えてしょうがない。

人間の子供の幼年期は、われわれにもっとも近い霊長類の仲間たちと比較しても極端に長い。スティーブン・ジェイ・グールドは次のように書いている。

人間の進化は、この霊長類の共有遺産のうち一つの特徴----特に遅い成長と長い子供時代に表現される発達の遅れ----を強調してきた。この遅れは、ヒト化における他の顕著な特徴----知性や社会化----とシナジー効果を持ちながら反応してきた(知性との間では、胎児の成長の長期化の傾向を通して脳を大きくすることや、子供時代の学習をより長くすることによって、社会化との間では、ゆっくり発達する子供に対する親の世話が増大することにより、家族単位の結合を強化することによって)。発達の遅れという文脈を外れては、人間的特徴の独自のひと揃いがどのように発生しうるのかを想像することが困難である。これは、著名な哲学者であり歴史家でもあるモーリス・コーヘンが、長引いた幼児期は「ひょっとすると、ホモ・サピエンスを動物界の残りすべてから区別するどのような解剖学的事実よりも重要である」と書いたときに彼の胸中にあったことである。

このことは、(ボイドとリチャーソンがいうように)「われわれの社会的学習のシステムは、社会的学習の単純なシステムと個別的学習との間のシナジーに実質的基礎をおく哺乳類共通のシステムの異常発達したバージョンにすぎない」ことを示唆している。しかし、重要な違いが一つ存在している。人間の子供は、他のどの種のメンバーよりもずっと深く模倣的学習に依存しているのである。

この証拠を振り返った上でトマセロは主張する。「したがって全般的な結論は、一歳から三歳までの期間、幼児たちは実質的な「模倣機械」であり、彼らの社会的集団の成熟したメンバーの文化的技能や行動を盗もうとする。」

動物の「特徴」とはなんだろうか? 普通に考えると、この問いは変に聞これる。それは、普通は「人間の特徴」と問うものだからだ。動物の「特徴」と問うたとき、それは、

  • 動物は上記の「人間」ほど、子供の養育に時間をかけない

ということである。つまり、動物は人間に比べて「より」少ないパターンに準拠して、その後の人生の行動を決定する。しかし、「より」少ないパターンの行動とは、なんだろう? 言うまでもない。これこそ、

  • 大人

の特徴である。つまり、動物とは「非常に幼い頃から、大人として振る舞う存在」なのである。
一見すると、こういった指摘は不正確のように思われるかもしれない。なぜなら、動物とは、社会的な命令に従わない存在の「比喩」だからだ。つまり、社会的な「規律」を内面化していない(=道徳化されていない)存在として、動物という比喩が使われる。
じゃあ、なぜ動物が比喩として使われるのか。それは、動物とは

  • 成功した家畜の範例

でもあるから、である。動物は、反社会的である。つまり、社会の規範を内面化(=道徳化)していない。しかし、脱社会的では「ない」のである。つまり、家畜は、人間の

  • 環境的「飼育」

によって、律せられる。つまり、そういった

  • 国家家畜的未来

を「ユートピア」として読者をマインドコントロールしようとする、国家権威主義者ということになるであろう。
しかし、どうであろうか?
上記の例が示すように、むしろ、人間はより「人間化」している。つまり、人間はさらに「幼児化」している。そして、私の考えでは、この人間の「幼児化」と人間の「道徳化」は、まったく、矛盾しない。むしろ、この両方は「比例」して発達していく。つまり、未来の人間は「さらに人間的な存在になる」ことを予知しているように、私には思われてならない。
さて。
一般に、幼少期において、私たちが、いかに「模倣」を必死になって行ってきたのかを理解した上で、そもそも、私たちが、言語を学習していく過程というのは、どうなっているのかを考えてみよう。

人がルールに従っているというためには、その人がルールに従っていると思っていることと、実際にルールに従っていることとが違わなければならない。しかし、個人は自分だけではこの区別をすることが不可能である。ヴィトゲンシュタインが言うように、もし「私に正しく見えることがすべて正しい」ならば、「このこと、われわれはここで『正しい』について語ることができないことを意味しているだけである」。

有名な「私的言語論」であるが、ようするに、私たちが言語を学習するとき、対話をする相手が、非常に重要だということである。
私たちは、自分が考えている以上に、「道徳的」に子供時代を過ごしている。というのは、どういうことかと言うと、まず、子供が言葉を学習していく過程において、相手との対話が行われる。そこにおける対話とは、どういった構造があるか。
まず、それは、私たちが思っている以上に「義務」的な命題であることに気づかせられる。「焚き火に近づくな」。「危険な動物が近づいたら、大きな声で知らせろ」。「取った獲物は全員で分けろ」。
こういった命題の特徴とは、なんだろう? まず、これを言っている人には、「その資格」つまり、発話の権利が与えられている。次に、これを聞いている人には、一定の「コミットメント」が求められる。つまり、この命題に、このルールに従うことが、一つの約束事となり、もしも、この中の誰かが破ったなら、その事態に対して、一定のサンクションを行動しなければならない、という意味となり、多くの場合、その煩雑さに、ルールを守ろうとする。このことは、言語学習的にも非常に重要である。つまり、その約束を守ることが、その発話者の意図を理解した、ということをも包含するからである。
しかし、これは、なんだろう? まさに、ルールであり、道徳の原初的形態であろう。
私たちは、自分が思っている以上に、こういった幼少の頃から、重ねてきた、道徳的な命令へのコミットメントによって、言語を学習してきたし、そして、なによりも、こういったコミュニケーションは

  • 非常に経済的

だということである。つまり、フリーライダーのように、回りの人から、その卑怯な戦略への非難を浴びせられ、心理的なストレスに、思うほど悩まなくてすむ。
しかし、この場合大事なことは、それが「自分だけじゃない」というところにある。みんなが、ルール尊守に積極的であると、自分だけじゃなく、他の人たち全員が、裏切りのストレスから解放される。
しかし、である。
ここで、最初の問題が関係してくる。つまり、たとえそうであったとしても、フリーライダーは「合理的」なのではないか、と。哲学に善悪がないと言うなら、どんな卑劣な手段を使ってでも、「お金持ち」になった奴が「勝ち」なんじゃないか、と。

ここにおいて、「懐疑論的解決」に対する疑いが生じてくる。問題は「なぜ道徳的になるのか」ではなく、むしろ「なぜ不道徳にならないのか」ということである。なぜ、自分が持っている利他的性向をすべて忘れ去ったり、抑圧したりして、ある種の規範によって享受されている「感情的共鳴」を無視することをわれわれは学習しないのだろうか。

私自身は、血縁選択と互恵的利他主義に結びついた性向の場合には、自己利益からなされるこの議論は、反論することが困難だと認める方向に傾いている。

しかし、功利主義とは、こういうことではなかったのか。経済学は、個人は常に、自己利益の最大化を目指すと定義する。だとするなら、フリーライダーは当たり前ということにならないだろうか。常に、自分以外のだれもが行っている、道徳行動の

  • 逆ばり

をしていれば、連戦連勝。敗けなし、ということではないか。つまり、哲学は「合理的に悪」なのではないか、と。
これに対して、カントが唱えた立場が、「超越論的演繹」である。

ルールに従う特別の理由は抽象的にはないが、われわれがそうする性向を持つことを所与とするとき、われわれはこの性向を捨て去ることを一貫した仕方で選択することができないということである。

彼の主張の趣旨は、われわれは物事のありようを正当化できないとしても、代替的なあり方を一貫性を持って概念化することが不可能であるということ、したがってわれわれはこのことを懸念する必要がないということである。こうして哲学的正当化の仕事は形而上学の批判に取って代えっれる。ここでの「形而上学」は、想像不可能な状況のもとで何が起こるかに関して思弁する誘惑のことを意味している。

超越論的演繹は、出来事の間に何ら因果的連関がないような世界は論理的には可能であっても、(その状態は、われわれが持つような種類の心的装備を付与とするとき、知覚できないろうから)超越論的に可能ではないことを示そうと試みる。

もしも、私たち人間が「本性的」に、非人間的であり、非道徳的であったとしよう。その場合、果して、産まれたばかりの私たちは、言語を学習できたであろうか? この問題が興味深いのは、ようするに、カントはここで、

を問題にしているわけである。SFがなぜ、思考実験として、形而上学になるのか。つまり、SFが非人道的な思考実験として、どうしても帰結することには、どこかしか、この

を避けられない隘路があるのではないか、と思われるわけである(そして、その隘路を避けられると考えることが、一つの、

  • (普通とは反対の意味での)ロマンティシズム

なのではないか)。

信念は本質的に真実(veridical)であるということが、寛容の原理の一つの帰結である。大部分が偽となる信念の集合を個人に帰するためには、この人を非寛容的に解釈しなければならないだろう(なぜなら、その人が発話によって意味していることに関する仮定を変えることで、これらの信念のより多くを真にすることが常に可能だからである)。しかし、ひとたび寛容の法則が廃止されると、もはや解釈を構築する際に残されている手掛りは多くなくなる。人々の発信や信念を何とでも解釈できてしまうのである。これでは、これらの信念の内容が何であるかを思いつくことは不可能になる。その結果、そもそもこれらの信念に内容を帰するいかなる理由もなくなてしまうのである。したがって、人々が大部分偽の信念を持っている世界は、われわれにとって認知的に接近不可能である。
この帰結は、デカルト懐疑主義に対するデイヴィドソン的な反応の背景をなしている。世界に関してシステマティックに偽であるような信念を発展させるように人々を巧みに誘導する「邪悪な悪魔の(evil-demon)」思考実験は、論理的に矛盾していないが、同時に思考不可能な状態を描写している。そのような環境のもとでは、われわれはこれらの信念が大部分真となるように再解釈せざるをえないであろう。つまり、こうした懐疑論的な思考実験カント的意味で形而上学的となる。このような思考実験は、われわれの世界にとって認知的に接近可能でない可能世界で起こっている出来事について思弁することを求めているからである。

最初の命題に戻るなら、哲学に善悪がない、と言うのではなくて、私たちは産まれてから、大きくなるまで、かなり当たり前のように、

  • ルールに従って

生きている。つまり、道徳なりエチケットなりに従って生きているし、そのことを疑ってもいない。もちろん、ませたガキは、そのうち、意図的に非道徳的に振る舞ったりもしてみせるとしても、そのことが、その少年が

  • ルールに従っていない

ことを意味しているわけではない。なぜなら、そういった少年も、今度は逆に自分が他人にルール違反を不意打ちのように、されたときは、ブチ切れるなりして、生理的に不快になるわけであって、別に、非ルール的になるわけではないから、である。
つまり、私たちは、すでに、今ここに、「規範的存在」として、過去から蓄積し重層化された存在として存在していない人はいない、という意味で、私たちが生きること(=哲学)が、善悪と無縁だと、果して言えるのかは疑問だ、ということになるのではないか、ということである...。

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)