佐倉統『「便利」は人を不幸にする』

掲題の本は、私には少し読むに耐えられない、痛々しさを感じた部分があった。もちろん、その部分がこの本の本題ではないのであろうが、少しこのことにこだわってみたい。

まずは、大手シンクタンクの研究員で独特の経済批評や技術評論を展開している山形浩生さん。開発問題が専門だが、科学技術も含めて視野がとても広く、経済学から意識研究まで、博識に裏打ちされた合理的な思考の持ち主である。彼はぼくの問いかけに対して、あっさりと、どんどん便利になるべきだし、なった方が良いし、なるに違いないと断言した。「便利さを『危うい』と感じること自体が贅沢で恵まれている状況なんですよ」と。
でも技術が進歩すると、その状態がデフォルト(初期設定)になって、結局また新たな悩みが出てくるのできりがないですよね、というぼくの問いかけに対しては、アメリカの作家、ポール・オースターを引きながら、「あらゆる時代において悩みの総量は同じなのではないか」と喝破してくれた(「総不幸量一定の法則」と言うらしい)。

ここで掲題の著者は、具体的には、何について考えているのか。それは、読み進めていくと分かるが、「原発」のことを考えようとしているわけである。
上記の引用の個所がなぜ「しらじらしい」のか。それは、そもそもの命題がトートロジーであることは、発言している本人が知っていながら、やっているからである。
ここで便利になることとは、文脈から、そもそも、科学技術のことであることが分かる。科学のさらなる研究の進展が、さまざまな、社会的な応用を生み出し、それらが、私たちの社会生活に、喜びと共に苦しみをもたらす。
ところが、掲題の著者はこれを「便利であること」の問題である、と語る。
つまり、掲題の著者の定義によると、科学技術の研究の進展は、最初から、便利さを包含している、と言っているわけである。
つまり、山形さんは「あなた自身がいみじくも言っているように、便利なものは便利なんじゃないんですか」と逆に、問い返されているだけなのだ。
このやりとりの何が問題なのか。
それは、そもそも、「それ」について語っていないことである。つまり、具体的な、それ「が」どうなのかと問わなければならなかったのであって、そういった指示性をもたない命題にしたことで、なんの意味もないやりとりになってしまったわけである。
例えば、100年後、この地球上に人類が存在しなくなったとする。そうした場合、上記にある「あらゆる時代において悩みの総量は同じなのではないか」という命題は

  • 成立しない

であろう。つまり、あらゆる意味のある命題は、なんらかの「指示」性を内包せずには、ありえない、ということなのではないか。
同じことは「便利」という言葉にも言える。そもそも、なにが便利ということなのか。そんなものは、人それぞれではないのか。ある人は、ある時、それを便利だと思うかもしれない。しかし、別の場面では、そう思わないかもしれない。
なにが、どうなればそれを「便利」と「呼んでもいい」のか。そういったことの具体的なコンセンサスは存在するのか。テクノロジーは常に、

  • やったった

の世界である。とにかく「やってみた」ということであろう。つまり、やってみたから、それを体感した人の「感想」が対応するのであって、せんじつめれば、それだけのことではないのか。
つまり、なんらかの「与件」を仮定することは、常に傲慢であるし、簡単ではないわけだ。
この本を読み進めていくと、まるで「そういえば」と、今、思い出したことであるかのように、次のような「コミットメント」が語られる。

何年か前、東京電力の広報問題検討委員というのを務めていたことがある。やや時間をおいて、二期務めた。最初の方は、違う名称だったかもしれない。目的は、東電が効果的な広報活動をできるようにすることである。この委員会自体はずいぶん前からあるようだが、ぼくが二度目の委員を務めたのは二〇〇七年新潟県中越沖地震の後だったので、柏崎刈羽原発の問題が話題の中心だった。大きな搖れのために、火災が発生したり微量の放射性物質が漏出したりといったアクシデントが生じ、その際の広報対応のまずさも手伝ってマスメディアでは東電批判が巻き起こった。

つまり、掲題の著者は、かなり深々と、東電と「利益相反」の関係にあった人物なわけであろう。特に、「専門家」として、プロフェッショナルとして、東電と利益を共にする活動をされていた。
私が、こういう「口ぶり」にいらつくのは、ここのところ、大阪市の橋下市長が、「慰安婦は必要」といった発言をしておきながら、テレビでも何度も繰り返し放映されているにもかかわらず、誤報であり、だから誤解だと「嘘」をつき、しらをきり続けている姿を見させられていることと関係があるのか、とは思った。
掲題の著者は、東電から仕事をもらい、東電の側で働いていたことに対して、まったくと言っていいほど、深刻さが感じられない。それは、働いちゃダメということじゃなくて、そうやって、お金をもらった人が、どこまで、中立的にものを語れるのか、という「他人からどういった視点で見られるのか」ということに対しての、デリカシーを感じないわけである。

東電の広報問題検討委員会だけではない。科学技術の専門家と一般社会の間のコミュニケーションがぼくの研究テーマであり、実践活動の中心でもある。それを大学の授業でも教えている。

私には、この「科学コミュニケーション」なるものをまったく理解していないが、この「鈍感」さと、「科学コミュニケーション」なるものには、なにか関係があるのだろうか?

さらに言えば、原子力発電の問題は日本の科学技術を考える上で欠かせない重要な問題なのに、ぼくは正面からそれに取り組んでこなかった。いや、積極的に避けてきた。ぼくは、推進派でも反対派でもない。

私には、これが何を言っているのか分からない。自分は原発について真剣に考えてこなかったと言っておきながら、そのすぐ後で、自分は「推進派でも反対派でもない」と「断定」するわけである。つまり、どうして、この人は自分が「推進派でも反対派でもない」と言いきれるのだろう? 自分の今までの振る舞いを客観的に判断することによって、やっと、

  • 他人があなたを推進派と判断するか反対派と判断するか、または、どっちでもないか

を語ることができるのではないのか?
この人は自分がいかに、原発について真剣に考えてこなかったのかを言っておきながら、「ところが」次のことだけは、自信満々に断言するのである。

積極的に反対していた人たちなら良いのか。ぼくはそれも違うと思う。もちろん、まじめにきちんと合理的な反対論を展開していた人たちも、少数ながらいないわけではない。しかし多くの感覚的反対派は、反対のための反対しか展開してこなかった。原発原子力行政の些細なミスを、さも鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立て、追求する。こういうことの繰り返しが、ミスは許されないという無言の圧力を生み、事故に対する東電の対応を遅らせた。

自分がいかに深く考えていなかったと言った、返す刀で、他人のことを、

  • どうせお前も真剣じゃなかったんだろ

と、人間なんて、どうせだれでも欠陥があるんだ、と言うんだから、もう勝手にしてくれ、であろう。他人のことをどうこう言う前に、自分のことを、ちゃんと考えられてからにしたらどうなんですかね。
いや。きっと、えらい先生なんだと思うんですけどね。宮台真司さんの最近の右翼論を引用してみよう。

僕の乏しい人生経験では--でもすでに53歳か(笑)--人には2種類ある。無条件で人を承認できる〈包摂系〉と、条件付きでしか人を承認しない〈排除系〉。人を〈超越系〉と〈内在系〉に分けられると言いましたが、双方直交させて、都合4種類の人間類型が得られます。
〈包摂系〉〈内在系〉のどちらになるかは、本人の育ちと関係があります。実家が金持ちか貧乏かということではない。人から無条件で承認されてきた人間の多くは、自分も人を無条件に承認する力を得て〈包摂系〉になります。逆の育ち方をすれば、〈内在系〉になります。
〈包摂系〉は、相手とのつきあいに条件を付けません。「相手は自分と同じ前提に立つべきだ」という条件を付けず、まして「相手は自分と同じように考えるべきだ」とは思いません。条件を付けずに「こいつはこのままでいい」「あの人はあの人のままでいい」と振る舞える。
それができない人は、「条件を満たしているからOK」などと思って相手を承認するけれど、期待は後に必ず裏切られます。だから結果として、「思っていたのと違うじゃないか」とブーたれたり、キーキーわめいたり・・・という浅ましい振る舞いに及びがちになります。
昨今のネトウヨがそう。戦前の右翼とは明白に違う。理屈を言う主知主義的な左翼は〈浅ましさ〉を体現したのに、端的な意志のみを重視する主意主義的な右翼は〈立派さ〉を体現しました。左翼は〈理論〉ばかり重視して路線闘争に淫し、右翼は〈感染〉を重視しました。
弱者擁護を訴えるにもかかわらず左翼は〈排除系〉が多く、右翼は頭山満みたいに〈包摂系〉が多かった。頭山こそ〈包摂系〉が釀し出す〈立派さ〉によって理屈を超えて人を〈感染〉させた人物。これこそ右翼の名に値する。これに比べればネトウヨは単なるゴミです。
頭山満は日本初の右翼結社「玄洋社」の総帥でした。南洲翁こと西郷隆盛座右の銘敬天愛人」を自らも座右の銘としたことで知られます。玄洋社は〈民権主義・反政府・亜細亜主義〉を三本柱としました。孫文を助けたことでも有名です。
頭山は、相手が共産主義者でも実際に会ってみて、「こいつは立派な奴だ」と思えたら自らの食客とした。彼は、排除的人間を絶対に立派だとは認めませんでした。包摂的人間を立派だと認め、その相手自身を包摂する。〈包摂の連鎖〉とでも言うべきものが生じていました。
ところが、それとは反対の動きが戦後に右と呼ばれます。戦後の政府ケツ舐め=米国ケツ舐め右翼は〈国権主義・政府追従・アジア蔑視〉と来ている。頭山が生きていたら卒倒モノ。真の右翼は、国家を、民族の意思を必ずしも体現しない魑魅魍魎の巣だと見做します。
僕が幼少期に受けたのは「立派な奴になれ、浅ましい奴になるな」という教育。親から、近所のおじさんから、ガキ大将から、こうした規範を伝承されました。立派な奴になれば、頭が悪くても頭のいい奴が助けてくれる、喧嘩が弱くても喧嘩の強い奴が助けてくれると。
今にして思えば、〈包摂の連鎖〉でした。転校生の僕を、味噌っかすの弟まで含めて、いつも遊びに包摂してくれたのが、ヤクザの子たち。僕の母親は、そういう子たちを家に呼んで晩御飯を食べさせ、高価な玩具で遊ばせた。その子たちのおかげで、いつも満票で学級委員になれた。
screenshot

私は別に、ここで「反原発でなければ人間ではない」みたいなことを言いたいわけではないのである。そうではなく、少なからず、東電に関わり、利益相反を生きた人が、もしも「今まで深く考えていなかった」つまり、これから「深く考える」と

  • 言うなら

だったら、どう「落とし前をつける」のか「決着をつける」のかを聞いているわけである。
(掲題の著者が大学で教えていると言っている「科学コミュニケーション」って、なんなのだろうか? ナチスの官僚が戦犯として法廷にひきずり出されて言ったことが「すべて命令通りに行っただけ」だったことと、どう違うのだろうか...。)
一般には、あまり語られることはないけど、近年のアニメや、特に、ライトノベルのほとんどは、上記の宮台さんの発言にあるような、

  • 右翼的心性

が描かれている「から」、人々を魅き付けているんじゃないのか、というのを、どうしても思わずにいられない。
そして、なぜこういったアニメやラノベの主人公が「子供たち」であるのかには、こういったことが深く関係しているようにも思われるわけである。
たとえば、今期、「とある科学の超電磁砲」の続編が、アニメで放映されているが、この妹たち(シスターズ)編も、そのテーマを感じさせる。
主人公の御坂美琴(みさかみこと)が幼少の頃、自分の遺伝子を病気の治療のために使うことを、科学者に許したことを思い出し、深く思い悩む。つまり、自分が了承したことによって、自分の大量のクローンが作られ、彼女たちが人体実験として使われていたから。彼女は、小さい頃、そう科学者に許したことの責任、「落とし前」をつけるために、研究所に潜入し、実験をやめさせようとする。
その過程で彼女が知り合うのが、幼い頃から、その天才的才能によって、この実験に関わっていた女子高生であり、天才科学者の布束砥信(ぬのたばしのぶ)である。

無駄な...抵抗...?
確かにそうかもしれない
問題はこの計画だけじゃない
仮に計画が頓挫したとしても
クローンが普通の人間として生活していけるのか?
心無い短い寿命
さらに過酷な運命が待っているだけではないのか
ならばいっそこのまま......と思っていた
それなのに
何もかも全部一人で背負いこんで......
そう...これは本来私達が背負うべき罪
あの子達に運命を切り拓くチャンスを----!

結果的に布束のもくろみは失敗するが、私が言いたかったのは、実験に関わっている大人たちは、幼い頃、なんの自覚もなしに、こういった実験にコミットメントしてしまった、彼女たち以上に、自覚的に関わっておきながら、彼女たちのように、その計画の非人道性に悩まないところに、

をこういった形で、多くのラノベは絶えず描き続けている、と思うわけである。
大人は大きくなるにつれて、自分の生活を持つようになる。それなりの生活水準の生活をするようになるし、会社人間として生きるし、妻や子供をもつようになる。子供の進学も大事であろう。仕事も順調に運べなければ、子供の将来にも影響してしまう。守るべきものをもつようになると、人はだれもが官僚的になっていく、ということなのであろう...。

「便利」は人を不幸にする (新潮選書)

「便利」は人を不幸にする (新潮選書)