「レイヤー化する世界」とパクリ文化

佐々木さんの最新の本は、まず、次の書き出しから始まる。

この本は、いま新しい世界の構造がつくられようとしている、ということを解説した本です。

まず、「新しい世界」とは、一体、なんのことであろうか。また、ここで言う「構造」とは、なんのことであろうか。なんの説明もなしに、こういった言葉で話し始められるというところに、この本が、この後、どういった

  • 文体

になっているのかを説明する。
そもそも、なぜ著者は、こういった書き出しで始めなければならないのか。なぜ著者は、このことを語らなければならないのか。そもそも、掲題の著者は、この書き出しが、もしも「間違って」いたとするなら、どういった「落としまえ」をつけるというのか。
私たちには、こういった「文体」は、ある意味、見慣れているとも言えるのかもしれない。それは、こういった「黙示録」的スタイルは、左翼、または、転向左翼の典型的な特徴とも聞こえるからである。掲題の著者は、それ以外の発言も含めて、

に非常に似ている印象を受ける。そういう意味で、私はこの本について、なにも語りたいことがない(『やわらかい社会とその敵』の著者が、ツイッターでほめてたみたいですから、興味のある人は、その人がなにをほめているのか、という視点で読まれてみるといいんじゃないでしょうか)。
しかし、私がこの本について、言いたかったことは、そのことではない。

ここに掲載した以外にも、本書を書くために手に取った本は二百冊以上に上りました。またインタネットのテクノロジーや未来については、日々私や追いかけているインターネット上の膨大な量のニュースや論考をもとに組み立てています。
レイヤー化する世界 テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書)

なにを言っているのだろう? この人は、最後の後書きで、自分がこの本を書くのに参考にした文献を載せる。しかし、それが、どのように紐付いているのかまでは、書かない。そして、その後書きの最後に書かれているのが、上記の引用の個所である。つまり、著者は、この本は、もっといろいろな本や、特にネット上の、ニュース記事、そして、なによりも、ブログなどのシロートの記事からの

  • パクリ

をやってますと、堂々と宣言しているわけだ。大事なことは、上記の参考図書を紹介しながら、その紐付けを書いていないということと、そうやって紹介してすらいない膨大な文献を

  • 示唆

するスタイルである。私は、この最後の文章を見た途端、まったく、この本を読む気を失った。一体、どれくらいのネット上のブログなどの、他人の論考を彼は、

  • パクった

のだろうか? 彼は、この最後の言葉によって、一つの「ビジネスモデル」を提示しているわけである。つまり、ネット上から、さまざまなアイデアをパクって、その紐付けを一切隠して、まるで、自分が今、発明したかのように、振る舞って、一冊の本にする、と。
私が言えるのは、そういった「危険」な本を真面目に読むほど、私は大人ではない、ということだろうか orz。
そもそも、「当事者の時代」という本も、その「当事者」という言葉を彼以前の誰が使っていたのかについて、あの本は、どこにも書いていなかった。そして、そういった文脈とどういう関係をもって、あそこで使おうと著者が意図していたのか、についても記述がなかった。
今回も、まったく同じことがやられているようにしか思われない。そもそも、レイヤーという言葉は、近年では、コンピューターの世界で使われているものが最も人口に膾炙しているであろう。一番有名な例は、TCP/IP などのネットワークが接続していく

  • 階層化され、かつ、それぞれの階層が「独立」している

その関係を示唆する使われ方をしていたはずだが、なぜか、今回のこの本では、そういった階層性と独立性の意味を、維持しようという意志を著者から感じられない。
そして、だれもが知っていることとして、そもそも、レイヤーという言葉を、ことにこの日本の論壇の文脈で、つい最近まで、よく使っていたのは、宮台真司さんであろう。そのことについても、まったく、どこにも触れていない。
例えば、これを、一般意志2.0 と比較してみると、おもしろいかもしれない。あの本で、政治家は、大衆の集合知にさらされることで、政治家の「無意識」に、大衆の意志が、反映される、というストラクチャーになっている。しかし、そもそも、ニコニコ動画に表示される、それぞれのコメントには言うまでもなく、

がある。つまり、そうつぶやいている人の「言葉」なのだから、そうつぶやいている人の「もの」なわけであろう。当然、それを

  • 引用

するなら、まるで自分の「アイデア」のように語ったら、それは、

  • パクリ

と認定せざるをえないであろう。つまり、一般意志2.0 とは、一種のパクリ文化の「正当化」のロジックだった、とまとめることもできるのかもしれない。
言うまでもなく、2ちゃんねるのある言葉について、考察するなら、それを「パク」ってはならないにきまっている。そんなことは、

  • 倫理的

に当たり前のことであろう。当然、その言葉を使うのなら、どんなに立派な何千円もする本だろうと、その2ちゃんねるのスレッドのアドレス、つまり、紐付けを書かなければならないに

  • 決まっている

であろう。なぜなら、そうでなかったら、それは「パクリ」になるのだから。つまり、それが学問であろう。人のアイデアをパクって、一つの論文を書いたなら、iSP 細胞で話題になった、東大のなんとかとかいう奴と同類ということであろう。
つまり、私が言いたかったのは、上記の本のあとがきに、「えらい」学者の本ばかりが書いてあって、この人が毎日紹介しているブログの記事が一つも書いてなかったんで、なんか、裏切られたように思った人もいたんじゃないのかな、と思ったということである。まるで、ネット上の大衆が書いている記事は、「ジャンク」なんだから、どんなに、著作権違反のパクリをしたって、「自分の権利なんだ」と主張されているように思ったんじゃないのか、と...。